第9話 きみには無理さ、大人になれよ

 記入欄にはすでに「佐々木久美子」と母さんの文字で母さんの記入欄が埋められている。

 いったいこれはどういうことだ。どうして離婚届に名前が書いてあるんだ。

 冷蔵庫に入っているコーラを取り出し、ダイニングテーブルに座った時に、乱雑に置かれたチラシや雑誌の山に腕が触れて、崩れてしまったのだ。

 その中から「離婚届」が出てきた。

 テレビでしか見たことのないその書類を僕はまじまじと見つめた。

 書かれている内容は間違いなく母さんの情報だった。いったいいつ書いたのだろう。山の中にあったのだから最近ではないのか。

 なんでこんなところに置いてあるんだろう。こんな見つけやすいところに置くものなのだろうか。父さんは知っているのだろうか。

 これは離婚するということなのだろうか。僕の頭の中に一気に疑問が湧いてきた。

 その時、玄関の方から鍵の開ける音が聞こえてきて、とっさに崩れたチラシの山を直し、持っていた離婚届をその中に隠した。


「ごめんー。遅くなっちゃった。ご飯作るからちょっと待ってて」

 母さんがスーパーの袋を持って帰ってきた。

 さっき見たことを訊こうか迷っていた。あんな分かりやすいところに置いてあったのだし、たまたま見つけてしまったわけで、だから「さっき見つけたんだけどさー」と軽い感じで訊いたら答えてくれるのではないか。

 たぶん母さんなら答えてくれるだろう。ただ、真実を話してくれるかは分からないけれど。それよりも訊いたことで何かが変わってしまうのではないか、という不安の方が大きかった。

 訊いたことでもっと悪い方向に進んでしまったらどうしよう、と。

 父さんはどこまで知っているのだろう。

「どうしたの? 具合でも悪いの?」

 母さんが台所から声をかけてくる。

「あ。いや。ちょっとボーッとしてた」

 手にしていたペットボトルの蓋を開けると、プシュっと炭酸の抜ける音がした。僕はそのままコーラをぐびぐびと飲んだ。

「あのさ。父さんとまだ喧嘩してるの?」

 二人の関係は年始に少しおかしくなってから、すでに半年経っていた。

 最初はいつものことだと思い気にも留めていなかったが、次第に二人は話さなくなり、あからさまに避けるようになっていたのだ。心配して何度か訊いてみたりしたけれど、「気にすることない」と二人とも言う。そういう時ばかり息がぴったりだ。

 本人たちは「気にすることない」と言うけれど、離婚届の紙を見てしまったからには気にならないわけにいかなかった。

「喧嘩? あー。もう大丈夫よ。解決した」

「でも最近、父さんと話してないじゃん」

「そう? 大地のいないところで話してるわよ」

 なんだそれは。まるで僕のいるところでは話せない話をしているように思えてしまう。

「それより、進路相談はどうだったの?」

「え、ああ。どこ受けるか、そろそろ標準定めておけって」

 話を逸らされた上に、よりにもよって進路の話になってしまった。

「どうするか決めたの?」

 何だか担任の須藤先生にも母さんにも急かされているような気がした。僕の進路なんだから僕が決めることだと思うのに。

「うーん。まだ何とも」

「行くなら国公立にしなさい」

「え? 何で?」

「私立は学費が高いもの」

 それを聞いてなんだか嫌な気持ちになった。

「まあ、そりゃそうだけど……」

 私立は学費が高いのは知っている。学費は両親に出してもらうわけだし、あまり無理な金額の大学に行けないのも分かっていた。だから受験するなら国公立にしようと僕も思っていた。

 でもそれを母さんから言われるのがなんだか違うような気がしていた。

 須藤先生も母さんも「自分のやりたいことやりなさい」と言っているけれど、僕はまだやりたいことを見つけられていない。それなのに須藤先生も母さんも国公立を勧めてくる。

 どうしてやりたいことが決まっていないのに、受ける大学が決められるのだろうか。いや決められない。ああ、なんだか古文の反語みたいな言い回しになってしまった。

「ちょっと部屋にいる」

 手にしていたコーラをもう一度飲んで、冷蔵庫にしまった。

 僕は嫌な気持ちが表に出そうになったので部屋に戻ることにした。ベッドに寝転がる。

 邪推なのかもしれないが嫌なことを思いついてしまった。

 須藤先生は進学クラスの担任なのだから、「今年の県立大合格は○名、国立大合格は○名」と言えた方が自分の評価になるのだろう。早稲田とか明治とか、よっぽど有名な大学じゃない限り、岩大とか盛大とか地元の大学の合格人数が多い方が担任の評価が上がるのかもしれない。

 母さんだって、出費の面や世間体から国公立にしなさいなんて言ったんじゃないか。

 結局、世の中、名誉とお金が動かしているんじゃないか。

 やりたいことをやりなさいなんて綺麗事なんだと思う。やりたいことなんて見つからないし、大学なんていかなくてもいいような気がしてきた。

 ベッドの棚には紫波さんのCDが並んでいた。紫波さんはアーティストになるという自分の夢があって、その夢に向かって努力して、高校在籍中に叶えてるのだからすごいと思う。

 僕はイヤホンをつけてCDプレーヤーを起動した。ウィーンと小さな回転音の後に、紫波さんのクリアな歌声が聴こえてきた。


 イギリス海岸に日が落ちて

 きみの笑顔が映り込む

 それは僕の悲しみ

 アリスのように旅をする

 

 気怠そうな山猫が

 それでもまっすぐ投げかける

 「きみには無理さ」

 「大人になれよ」

 

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