第4話 ふわふわした科目

***

「それでは、あらためて。よろしくね」

 教壇の横に立ち、ぺこりと一礼しているのは春野はるのしずく先生。倫理の先生であり、僕たち三年二組の副担任だ。みんなからは「しずく先生」とか「しずくちゃん」と呼ばれている。

 そんなしずく先生は昨年、盛岡西高校に赴任してきたばかりの今年二年目の新米教師だ。一年目は特定のクラスを受け持つことはなかったそうだが、二年目になって副担任になった。

 倫理は三年生の授業なので、高校二年生だった僕たちはあまり先生との関わりがなく一年間を過ごした。


 たしか赴任してきた初日――去年の今頃、ノリが登校するなり「新しい先生が来た」と大声でしゃべっていて、それを聞いた男子たちが「女?」とか「かわいい?」とか、そんな会話をした後に、ノリと数人の男子がバタバタと職員室まで確かめに行っていたのを覚えている。

 職員室から戻ってきた男子たちが「かわいいな」とか「まじタイプだわー」とか「メガネ外したら絶対美人」とか言っていた。岩田さんも興味があったらしく「どんな感じの先生だったの?」とノリに訊いていた。それに対してノリが「ん、まぁ控えめに言って岩田の千倍美人だったな」と言って、岩田さんの怒りを買っていた。

 その時、僕はしずく先生を見に行かなかったけれど、その日の午後、廊下で先生と会話をしたのを思い出した。

 廊下で不自然に立ち止まっていた人がいたので近づいてみたらしずく先生だった。

 先生は女子生徒とほとんど変わらないくらいの小柄な人だった。岩田さんよりも少し短い髪で、紫波さんよりも少し茶色い髪。かわいいとか美人の基準はよく分からないけれど、キレイな先生だなと思った。

 先生は少し困ったような顔をしていた。

「どうしたんですか?」と訊くと、どうやら職員室の場所が分からなくなったらしい。

 僕は先生に職員室の場所を教えると、先生はありがとうと感謝を伝え「あ、自己紹介が遅れちゃったけど、今日からこの高校に着任した倫理の春野しずくです。よろしくね」とにこやかに笑った。

「きみは? 生徒の顔と名前覚えなくちゃ」、先生はまたにこやかに笑って言った。

「俺は二年三組の佐々木大地です」と言った。

 倫理の授業はないからあまり関わりなさそうだな、というようなことを心で思いながらも、「よろしくおねがいします」とか何とか言っていた気がする。



「はーい。それじゃあね。倫理って何? って思っている人もいると思うから、まずはそこから説明しないとね。みんな教科書パラパラめくってみて」

 僕は倫理の教科書をパラパラとめくる。

 青年期の課題と自己形成、人間としての自覚、ギリシャ思想、ソクラテス、諸子百家、最澄、人間の尊厳、ルネサンス、マルクス主義、現代の諸課題と倫理……。  

 世界史や日本史で出てくる名前がちらほら目につく。


「みんなは二年生の時から日本史か世界史を選択していると思うけど、なんだかそれに似てるなぁって思ったでしょ?」

 しずく先生が教室を見渡す。手前の席から中ごろの席、そして奥の席へと視線が移動し、目があった。先生はメガネ越しににこやかに笑う。

「そうなの。歴史上の偉人や歴史的事件は日本史や世界史と変わらないのよ」

 先生はそのまま話を続ける。

「むしろ史実については、倫理の授業では扱っている項目は少ないくらい。じゃあ、何を学ぶかっていうとね……今私たちが暮らしているこの現代社会ができるまでに、様々な歴史があったのはみんな日本史や世界史の授業で習っているからわかると思うんだけど……そうだなあ、文化や文明、宗教、戦争、政治、経済などね。そしてその時代時代によって「正しいさ」や「考え方」の在り方も移り変わってきたの。もちろん変わらず現在まで続いているものもあるわ」

 しずく先生は教師二年目とは思えないとても落ち着いた話し方で説明してくれている。

「倫理はそういった歴史的人物の思想や哲学を学ぶ科目なのよ。ちょっと難しくなっちゃったけど、もっとわかりやすい言葉で言うと、先人の考え方や生き方を学んで、私たち現代社会をよりよくするにはどうするか考えていきましょう、ということね」

 考え方や生き方か。先生のその説明を聞いて僕の中でイメージが湧いたのが、現代文の授業だった。小説を読んで「この主人公が感じていることは何か文脈から読み取りなさい」といった問題文。

 もしかしたら倫理の授業はそういうのに近いのかもしれないと。

 世界史や生物とか暗記系科目は得意だけど、現代文のような気持ちを読み取るようなふわふわした科目は苦手なのだ。だから倫理も苦手科目かもしれない。

「さて、今日は初回だからあまり気を張らずにいきましょう。それでは教科書四ページ目の『人間とは何か』から読みましょうか」

 先生はそう言って、授業を始めた。


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