第3話 回鍋肉の味

***

 家に帰ると母さんが夕食を作っていた。

「もうすぐできるからちょっと待ってて」

「はーい。父さんは今日も遅いって?」

「連絡ないからしらない。そうなんじゃない?」

 なんとも無関心な返事だ。まあ無理もない。父さんはこのところ残業が多いらしく基本的に帰りが遅い。その上、飲んで帰ってくることも度々あって、母さんが作った夕食は朝まで手付かずで残っているのだ。

「連絡ぐらいしてほしいよね」

「ほんとよね。そんな連絡できないくらい忙しいのかしらね」

 僕はうんうんと頷きながら、部屋着に着替えるべく自室へと向かった。

 ちなみに、父さんが食べなかった料理は翌日の僕の弁当のおかずへと変わる。


 部屋着に着替えると、ベッドにうつ伏せに寝転がった。

「ふぅ」今日も一日頑張った。やっぱり自分の部屋は最高だ。

 音楽でも聴こうとスマホを操作し、そうだ、と思い出す。

 カバンから今日買ってきた紫波さんのCDを取り出した。

 紫波さんの三枚目のシングルだ。ジャケット写真には茶色のショートカットで凛々しく上を向いている紫波さんが大きく写っている。地元ラジオ番組のオープニングテーマに抜擢されたらしくCDジャケットには「2017年4月~オープニングテーマソング決定!」とタイアップのシールが華やかに貼ってあった。活躍の場を確実に広げていて、本当にすごい。ノリは売り場を見ると「すげー、すげー」と連呼しながら聴く用と保存用二枚買っていた。

 僕は丁寧に包装された透明なフィルムを剥がし、ジャケットを開けた。歌詞カードを取り出す。ザラザラとした質感の紙に紫波さんの書いた文字が印刷されている。パラパラとめくると真新しいインクの匂いがした。

 CDを取り出し、ポータブルCDプレーヤーに入れる。音楽はもっぱらスマホで聴くので、このプレーヤーは実質紫波さんCD専用になっている。

 ウィーンと起動音がして、CDがくるくると回転し始めたのがプレーヤーの小窓から見えた。

 イヤホンをつけると、彼女の優しいアコースティックギターの音色が耳に入ってきた。

 三枚目のシングルには二曲収録されていて、どちらも切ない片思いの恋を歌ったしんみりとする曲だった。

 歌詞カードを読みながらもう一度静かに曲を聴く。


 恋か。ぐるんと身体を回転させ仰向けになる。天井を見ると、シーリングライトが眩しく光っていた。

 恋。恋愛。そういったものは僕の高校生活には一切無縁だった。誰かを好きになったこともなければ、誰かに好かれたこともない。一人の人を特別な存在として見ることがなかった。それはただネガティブとか冷めた考えだねとかそう捉えられるかもしれないけれど、僕としてはあくまでクラスメイトの女子であり、友だちとしての女子であり、ただそれだけのことなのだ。

 だから紫波さんの歌う恋の切なさっていうのが、言葉では分かっていても、実は本当はどう感じるのか分かってなかったりするのかもしれない。

 中学生の頃に同級生の子に告白されて少しだけ付き合ったことがあったけれど、あの頃の「好き」とはまた違うんだろうなあ、と思う。

 ぽろん、とスマホが鳴る。チャットアプリにメッセージが届いた。ノリからだった。


――聴いた? 神曲!!

 続けて、驚いて縦飛びしている猫のスタンプが連続で送られてきた。

――ちょうど聴いてた。良い曲だね

――だよな! ヤバイ!

 僕はもう一度再生ボタンを押した。紫波さんの透明な歌声が染み込んでいく。


――そういやさ、明日から倫理の授業だな

 少し経ってから再びノリからメッセージが届いた。

 僕たちのクラスでは選択科目として倫理が指定されている。ちなみに地歴公民のうちの他の科目、つまり世界史、日本史、地理は選択自由だ。

 僕は世界史B、ノリは日本史Bを選択している。

――倫理って何やるんだろうな

――パラパラ教科書めくったけど、世界史っぽいよね

――あと日本史な

――世界史と日本史でいいような気がするよね

――だな

――教科書、忘れないように

――おう。今、入れとく

 僕も机の上の倫理の教科書をカバンにしまった。


「大地ー、ご飯できたわよー。はやくきてー」

 キッチンから母さんが叫んでいる。教科書をカバンにしまい自室を出た。


 若芽のような淡い緑のキャベツと、青緑のピーマン、それから豚肉。

 それらが混ざり合い、さらに甜麺醤と油が絶妙な照りを出している。炒め上がったばかりの回鍋肉ホイコーローは、ホクホクと白い湯気を立たせて、部屋中に香ばしい匂いを広げている。

「うまそうー」

「納豆食べるなら冷蔵庫から取ってきてー」

「はーい。母さんは?」

「いらなーい」


 四人掛けのダイニングテーブルに母さんと向かい合うように座る。

 テーブルの上には、投函物のチラシや買い物のレシート類、落書きした紙やペン、それから何か重要そうな書類や料理系の雑誌、週刊誌、クリップとか輪ゴムとかよく分からない小物が乱雑に置かれている。それらはテーブルのほぼ半分を占めていて、常にこの状態だ。

 空いたスペースを埋めるように回鍋肉とご飯と味噌汁、豆腐の小皿が二人分置いてある。

 僕は豆腐の小皿を持ち上げて、持ってきた納豆のパックをその下に置いた。

「さっさと食べちゃいなさい」

「いただきまーす」


 箸で豚肉とキャベツとピーマンを一気に掴んで口に運ぶ。はふはふ。

 欲張りすぎて放り込んだけれど、まだ熱かった。

 口の中で冷ましながら少しずつ噛んでいくと、じゅわじゅわと味が伝わってきた。おいしい。

「んー。うまい」

「そう。良かった」

 母さんはスマホをいじりながら、口の中をもぐもぐさせている。

 佐々木久美子ささきくみこ。母さんの名前だ。父は佐々木浩三ささきこうぞう

 近頃、僕たち三人が揃って食事をすることは全くなくなった。それは単にダイニングテーブルに三人分の料理が置けないからとか、父さんの仕事が忙しいからだとか、そういう問題ではなくて、もっと複雑な問題だと思っている。

 母さんも父さんも直接口には出さないけれど、たぶんきっとふたりは喧嘩したんだと思う。何が原因なのかは分からない。

 年始に母さんの実家に三人で行った時は普通だったのだけど、そのあとから二人の空気がなんだかいつもと違うようになった。

 二月の後半くらいから父さんは仕事が忙しくなり、帰宅が深夜近い日が多くなったのだ。それで夕食は一緒に取らなくなった。

 それだけならなんともないのだけど、三月の休日、お互い家にいる時でもほとんど会話をしないし、食事も別々の時があってちょっと気になっている。


 母さんは味噌汁をすすりながらスマホをいじっている。

「ねぇ、母さん」

「なに?」

「いや、いいや。やっぱなんでもない」

「なによ。気になるじゃない」

「大した事じゃないし。また今度にするよ」

「今でも今度でも変わらないわよ、なに?」

「んー。母さんさ。父さんと喧嘩でもしたの?」

 母さんはスマホをいじっていた手を止めて、僕をみた。その表情は驚いたようにも見えたし、ただ目を合わせただけのようにも見えた。

「なんだ。そんなこと」と素っ気無く答える。

「やっぱり、なんかあったの?」

「んー。そうね……」

 母さんはそのまま再びスマホをいじりだした。

「え? どうなの?」

「大した事じゃないわ。大地には関係のないことよ」

「えー、教えてよ」

「また今度ね」

「今でも今度でも変わらないじゃん。何があったんだよ」

「それが変わるのよ。また今度。はい、この話はおしまい」

「えー、気になるじゃん」

「あんまりしつこいと皿洗いとお風呂掃除させるわよ」

「げ。もう聞かない」

「よろしい。さっさと食べちゃって」

 やはり喧嘩中ということなんだろう。直接僕に実害があるわけではないが、家の雰囲気が悪くなるから早めに仲直りして欲しい。

 皿に残った回鍋肉の汁を白飯の上にかけて、納豆とともに口の中に掻き込んだ。


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