第1章

第1話 新幹線のおまじない

 四月。僕は教室の窓際の席で、三階から見える景色をぼんやりと眺めていた。

 校庭では一周400メートルの楕円の周りを、体育科のクラスメイトがさっきからずっと走っている。ぐるぐるぐると何周も。ぐるぐるぐると駆け巡っている。

 彼らは一体何周走るのがゴールなのだろう。それとも疲れるまで、もしくはこの授業時間が終わるまでずっとぐるぐると走るのだろうか。

 校庭の先には、背の高い樹木と緑色の金網が学校の敷地と外の世界を明確に線引きしている。その先には視界目一杯に田畑が広がっている。田植えはまだのようでどこの面も茶色い枯れ地で泥水のような水たまりができていた。三、四軒ぐらい、茶色い田畑の間にぽつんぽつんと農家の大きな家と、その横に透明なビニールハウスがいくつか建っている。荷台のついた白い軽トラックが田んぼの脇の小径をゆっくりと走っている。のどかな田園風景だ。

 遠くには東北地方を縦断している奥羽山脈の山々が連なっていて、こちらは田んぼと違って青々としている。あの山の先には秋田県があるのだ。

 それから空。今日の天気はそんなに良くない。四月だというのにちっとも明るい気分になれない天気だ。雨は降りそうにないけれど、曇った空が広がっていて全体的にどんよりとした空気を感じる。僕は曇り空をじっと眺めた。ゆっくりとだけれど雲が動いていた。

 大地に広がる広大な田んぼ、隆々とした奥羽山脈の山々、そして空。人工的に区画整備された田んぼと、自然な山と空の境界をしっかりと区切るかのように横一直線に、右から左へと灰色の高架が伸びていた。東北新幹線用の高架である。その下には、僕が通学で使っている東北本線の線路が伸びている。時折、四両編成の電車が走っているのが見える。それは農家の軽トラよりも小さくて、なんだか鉄道模型のような感じがする。

「新幹線を見たら、通りすぎる前に願い事を三回、心で唱えると願いが叶うらしいよ」

 そんなことを高校一年生の時、隣に座った女子生徒が言っていたことを思い出す。

 ぼんやりと高架を眺めていると、ちょうど盛岡方面に向かって新幹線が走ってきた。願い事、願い事……。僕の願い事はなんだろう。大学に行きたい。でもどこの大学へ? 大学で何をしたいのだろう。一年後のことなんて僕はまだ何も決まっていなかったし、そもそも将来何になりたいかも全く想像がつかない。願い事……。なんだろう思いつかない。炭酸が飲みたい。炭酸が飲みたい。炭酸が飲みたい。

 三回唱えてみたけれど、新幹線の長い車両はまだ通過中で、なんだかありがたみに欠ける。というより炭酸ぐらい願い事にしなくても飲めそうだ。

 何両ぐらいあるのだろう。車両の切れ目を目印に三両ほど数えたところで最後尾の車両が走り去っていき、僕の視界から消えた。

 広い星空で、いったいいつどこに降るか分からない流れ星へ願いをかけるのと比べると、毎回決まった場所と決まった時間で通過していく新幹線へ願いをかけたところで、その効果はあまり期待できなさそうだ。そもそも僕はそれほどおまじないの類を信じているわけでもない。

 今度は東京方面に向かう新幹線が長い車両を連なって目の前を通過している。一、二、三……。僕は車両の数を数え出した。

 三月までは二階の教室から高架を眺めていたが、その時は新幹線のパンタグラフがかろうじて見える程度だった。だから「新幹線を見たら」というのはそれ自体がこの学校では叶わないことだと思っていた。だけど三年生になり階が上がることでこうして難なく見ることが出来ている。同じ場所でも見る高さが違うだけで、見えている世界が全く違うのだ。きっと新幹線に乗っている乗客からしたら、僕らの学校なんて一風景にしか捉えられていないのだろう。

 十四両目を数えたあたりから数が分からなくなり、いつの間にかいなくなってしまった。また来たら数えればいいか。こんなに新幹線が見放題なのは、おまじないを信じている一、二年生が見たらきっと驚くのだろうな。

 願い事を叶えるために「新幹線を見たい」という願いをする生徒もいるのかもしれないと思うとなかなか変な話だ。きっとこのおまじないは、ずっと昔に卒業した僕たちの先輩が高校三年生に向けて作ったのだろう。


「――々木」

 授業が終わったら炭酸買いに行こうかな。

「佐々木、佐々木大地ささきだいちー。きいてるかー」

 自分の名前を呼ばれてハッとする。教壇には数学の渡辺先生が厳しい目つきでこちらを見ていた。

 同時にクラスメイトもみんな一斉にこちらを見ている。窓際の一番後ろの席はみんなの視線が集まりやすい。その大注目の視線に慣れていない僕は、

「あ、はい! あ、いえ、はい……」

 と、自分でもよく分からない返事をすると、クラスメイトから笑いが起きた。

「佐々木、前くるか? 中村、席変わってやれ」

 渡辺先生が一番前の席に座っている生徒に向かって話しかけた。

 中村規秀なかむらのりひで。ノリは中学生からの同級生だ。しかも中学二年生から五年間同じクラスである。

「え、いいんすか!」

 小柄なノリが身を乗り出して先生に訊く。

「おう。どうだ佐々木?」

「お、俺、ここで大丈夫です」

 僕は渡辺先生に向かって言った。

「なんだよ、最前列なのにもったいない」

 ノリが冗談ぽく話すと、再び教室で笑い声が起きる。

「じゃあ、授業に戻るぞー」

 僕たちのいる三年二組の座席は男女ともに五十音順となっている。窓側三列が男子、廊下側三列が女子の座席だ。僕は「佐々木」なので窓側一列目の一番最後。「中村」のノリは窓側から三列目の一番前、教壇の目の前の席だ。文系進学コースである僕たちは高校二年の時から、同じクラスメイト、同じ担任、そして同じ座席なのだ。違うところといえば三年になってから、副担任がついたことと、階が一つあがり新幹線が見えるようになったことぐらいだ。

 二年間最前列となるノリは不満を言うかと思ったけれど、意外にも不満ではないらしい。ノリが言うにはこの列だけ女子が隣だから、むさ苦しくなくて良いとのことだ。

 僕は僕で、一番後ろの窓際のこの席が結構気に入っている。窓の外を見ると、また新幹線が今度は盛岡方面に向かって走っていた。


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