第22話 月影残像
その海淵のように暗く閉ざされたその眼を同じように僕を見つめていた人がいた。
母さん、母さんだよね、と小さかった僕が絶海の牢獄で叫んでいる。
お母さん、お母さん、とそのまだソプラノの声を貫く幼子はいじらしいままに尋ねてくる。
お母さん、またお仕事に行ったよ、と。
子どもは己の母が何を夜にどんな秘密を抱えているのか、まだ知らない。
知らなくていい。
まだ君は知らなくていい。
知りたくなかった。
知ってしまえばその場に崩れるしかなかった。
普通じゃないという事実を認めるほか、前へ突き進む方法はなかったし、そんな感情めいた言葉を口走っても意味がないだろう。
姫の瞳の奥の嘘が突き動かされる。
その張りぼての嘘の華を千切って粉々に散らしてやりたい。
姫は僕の身体を抱え込むように動かし、しまいにはこの首筋に手をやった。
どうだ、君の死への制裁を企ててやらないものか。
頼れる友人もとうにいない。
僕の身体が上下に激しく揺れると夜は挽歌を始めようとする。
首の付け根にかなり強い力が入り込む。
息の音が急降下するかのように縮んでいく。
母さん、まだやれないよ、と幼子が鼓膜の奥で嘆いている。
自分の手でさえも自分の手だと認めなくなるんじゃないか。
惰性だけを貪って俯くしか、残された方法はない。
姫の占める力は次第に鳴りを潜めた。
手が緩くなると僕は姫を追っ払い、息切れの嵐に耐えながら強く睨みつけた。
つい強く睨み返すと眩暈に襲われ、目を閉じた。
母さん、行かないで、と甲高い声が森の奥から鳴り響いた。
月影の残像を感じ取った。
目を開けると姫の姿はなく、逃亡をともにした錆びだらけの自転車が無造作に投げ出されていた。
いくらあの人から進路を否定されたからと言って勝手に飛び出してはいけなかった。
母さん、母さん、と僕は呆然とその言葉を呟くしかなかった。
想い人から捨てられた石長比売とあの人を、母さんと重ね合わせていたのは僕のほうだった。
幼い少女と乳飲み子を捨てた父は姫の存在を否定したその方。
満月は次第に西の空へと逃げ去っていく。
緑青色の空に浮かぶ月は誰かに摘み食いされてしまった。
それから、僕は自転車を押して帰り道を辿っていった。
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