第8話 竜胆の花、手袋


本番まできっちりとやらなくてはいけない。


今夜はそれを強く誓った。


辰一、と玄関前から声がした。


僕はそれを聞いて肩の力が強張るのを感じた。



振り向いてはいけない。何が何でも振り向いてはいけない。


低い声だ。


誰だってその人とは縁を切れないひとりだけの人。


こんなときに何だって言うんだよ、と声を荒げて言い返してやりたかった。


後ろから影法師をそっと追いかけたような気がした。


昔、その人と夕暮れの帰り道に手を繋いでもらった。



あの頃の僕は一切の混じりけのない素直さでその人の眼差しを見られていた。


いつから取り留めもない憎しみでその人を睨むしかならなくなったのだろう。


子どもから少年へと変わろうとするとき、今年一番の北風が吹き荒れようとするとき、心の水銀灯はずっと吹き荒ぶられるのを耐えるしかない。


どうしようもない瘴気だった。


どこまで腐臭が漂う地下室で書かれた手紙のように僕はその悪意を抱くしかなかった。


父親のわからない子どもを産んだその人。


少女のときにどこも知らない馬の骨と結んで小さな子狐を孕んだ。


父を知らない子狐は枯れ葉の中で生き、母を追い求める。


破れた群青色の手袋の中に入り込んで見ることもない竜胆の花を慕う。


そんな残酷なお伽噺を僕はふと想像する。



「母さん、もう、いいよ。ほっておいてよ」


 いつの間にか、振り返っていた。


 意志が阻止する前に感情が動いていた。


「僕はひとりで生きていくんだ。母さんのことなんて知らない」


 その人は幾分老けて見えた。


 白髪は混じってはいなかったけれども肌艶がくすんで見える。



「辰一のことを心配しているからじゃないの」


 その人の声は震えていた。


「私が何をやったっていうの。辰一のことを心配する権利くらい母親の私にはあるでしょう。それなのにあんたって人間は蔑ろにして、見下して。あんたは何も変わらないのね。ちっとも」


 往生際が悪いとはこれを指すのか。


 見下しているのはお前のほうじゃないか。


 


 かつての僕だったら虫唾が走っていたに違いない。


この人は母親らしく振る舞うのが普通よりも苦手なだけだ。


 辰一君、と螢ちゃんの声がする。


 視界が半回転する。


 どす黒いシャッターが急降下を不意打ちし、悪寒を呼び起こす。


 大丈夫だ、いつものただの震えだ。


 顔のない道化師が甲高い声で叫び、警笛を鳴らしている。


 辰一、とその声は震えていた。


「あんたはいつも私のことが嫌いなのね」


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