第4話 お返しは時間で

「9時ですね。あと1時間、頑張らないと」


そう言うと、静子さんは静かにベンチから立ち上がった。蛍達もふわり、と舞い上がる。


「はいっ!」


僕も勢いよく立ち上がって、缶コーヒーを一気飲みした。背伸びして買ったブラックのコーヒーは僕には苦くて、我慢しつつ飲み干した。そうして自習室に帰る静子さんのあとを追った。


静子さんは椅子に座ると、また丁寧にすらすらと、シャーペンを動かしていた。今度は国語をやっているようで、静子さんはノートにつらつらと文字を書いていっていた。本当はずっと見ていたかったが、ストーカーだとも思われたくないので、仕方なく視線をノートに戻した。


(しずこさん、っていうのか。あさかすみ しずこさん……)


そんなことを考えているうちに、手は勝手に文字を書いていた。


(どんな、漢字なんだろ……)


ノートにし、ず、こ、と書いてみる。その綺麗で儚い雰囲気に良く似合う、いい名前だ。一体誰が付けてくれたんだろうか。どんな願いを込めて付けたんだろうか。聞きたいことが、後から後から出てきて思考回路を惑わせる。何回でも、呼びたくなる名前だ。


静子さん、静子さん、静子さん。


「っ、……!」


これでは勉強どころではない。静子さんのことばかりで、数学の公式も国語の問題も頭に入ってこない。僕はシャーペンの芯をぽきり、と折る勢いでシャーペンを握りしめた。






9時50分。自習室の閉館の時間を伝えるチャイムが鳴った。静子さんはこれまた丁寧に教科書や筆箱をカバンに仕舞うと、机の上の汚れを片付けて、そのまますたすたと出口に向かっていった。僕は急いで片付けをして、その背中を追いかけた。


静子さんは階段をすたすた降りると、そのまま帰ろうとしていたので、僕は走って近づいた。


「あ!静子さんっ!」


そう声をかけると、黒の滑らかな髪の毛がふわり、と揺れて、僕を振り返った。


「……誉君?」


「あ、静子さん。お勉強、お疲れ様でした」


そう言うと、静子さんは


「こちらこそ、今日はコーヒーご馳走様でした」


と、丁寧に頭を下げてくれた。僕は突然の静子さんの行動に慌てふためいてしまった。


「あっ、いや!いいんですよ!僕が、好きでやったことですから!」


そう言うと、静子さんは頭を上げて、首をこてん、と傾げた。


「なにかお返しできるもの……」


「えっ、いや!そんな、お返しだなんて!」


僕は首を振って、お返しはいらないと意思表示したが、静子さんは納得していない様子だった。そこで、僕は息を飲んだ。


「んっ、あ、あの、静子さん」


静子さんが静かに首を傾げる。


「もし、お返ししてくれるなら、その、一緒に、帰りませんか?」

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