第四

 朝起きて、基礎体温を測り、生理周期を把握する。


 排卵が起こると黄体ホルモンの影響でわずか0.3度ほど体温が高くなる。


 この低体温と高体温の境目が、排卵日とされる。


 それは私の日課だった。正邦と付き合って、初めてを迎えて、それからずっと続けてきた習慣だった。


 やっぱり何度アプリを見てもこの日に違いないし、間違いじゃない。けど、どうやってもここじゃ証明できない。


 母が一緒に住んでくれているこのマンションには、正邦との日常がない。正邦と一緒に選んだここは捨てきれないけど、ここに居ても正邦との思い出は積み上がらない。


 万が一の確率で、帰ってくることを期待して、そんな都合の良いことも考えたけど、赤ちゃんを知らない正邦は帰ってこない。そういう初志貫徹を貫く正邦に惚れたのだし、ここにはもう帰って来ないだろう。


 なら、やっぱりもうこれしかない。



「お母さん、今年いっぱいで地元に帰ろ」



 また一つ、正邦との繋がりを断つことになってしまうけど、別の可能性に賭けようと思った。





 お腹は順調に大きくなっていて、わたしは日課にお腹のシルエットがわかるようにとセミヌードの自撮りを足していた。


 スマホで撮ることに抵抗が無いわけじゃ無いけど、いつか正邦が見たくなるだろうと期待して、撮っていた。


 通っていた産婦人科では夫婦実習なるものがあった。


 重いリュックみたいなものをお腹側にしょって、夫に妊娠中の妻の気持ちをわかってもらおうって体験だ。


 参加する必要なんて、今のわたしにはないけど、見学させてもらった。


 みんなどこか緩い空気で、「こんなに重いのか」とか「こりゃ大変だな」とか、夫婦揃って未來を楽しそうに想っていた。


 わたしはそれを眺めながら、正邦ならどう言うかなぁって考えていた。


 たぶん何にも言わないだろうなぁ。


 きっとその命の重さを慈しむようにして確認していて、それから部屋のレイアウトとか、玄関の段差とか、視界の狭さとか、普段使う道のこととか、そんなことで頭の中がいっぱいになってしまい無言になるだろうから。


 そして最後にわたしに笑いかけるのだろう。


「いつもありがとう」って。


 他の人が聞いても、なんで今それ? ってなるだろうけど、わたしにだけは伝わるんだ。


 またわたしの目に、いつの間にか、涙が出ていた。





 あれからずっとななさんとは連絡を取り合っていた。


 二人とも地方の出なのもあったのか、あれほどの迷惑と醜態を晒したせいか、わたしも縋りたかったのか、すっかり仲良くなってしまった。


 ななさんゆきちゃん、そう呼び合うくらいになっていた。


 でも結局わたしは言えなかった。


 まだ何にも話せる状況じゃなかった。


 それでもななさんは心配してくれた。


 お腹の赤ちゃんを心配して元気づけてくれた。



「順調だった? エコーだったかしら」


「4Dですね。結構顔出来てました」



 まるで二人で育ててるみたいに、検査の度に報告していた。流石に夫婦実習のことは言わなかったけど、彼女は自分のことのように気に掛けてくれていた。


 ななさんの出身は南の方だった。


 とても長閑な田舎町で、街頭もなく、人も少ない。赤ちゃんが産まれたならみんなで喜び歓迎する。そんな町だったらしい。


 同級生も10人もいて。


 10人で「も」なんだ…とわたしでもびっくりするくらいの過疎地だった。


 都会にはいろいろな事を学びに来たそうだ。大学に入り経済を学び、それからいろいろな仕事についてきたみたい。


 わたしと出会ったクリーニングの仕事は、田舎の空き家を活用したくて、その際に、人はどういうところを気にするか、気にしないのか、そんなところのノウハウを知りたくて入ったみたいだ。



「まあ、やっぱり好きなのよ。離れてからわかったのだけど、生まれ育ったところは特別でね」



 彼女の話す経済の仕組みはわたしには難しくてよくわからなかったけど、生まれ育った町を何とか盛り立てたいみたいだった。



「あとは素敵な旦那さんを捕まえて、田舎に連れ帰るのが当面の目標」



 すっごい田舎だから、難しいけどね。


 ななさんはそう言って、小さく笑っていた。

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