第五

 わたしの生まれ育ったところは二つある。


 一つは寒い街で、いつも鼻が垂れてる子とほっぺたが赤い子ばかりの寒い寒い街。


 もう一つはそことは比較にならないくらい過ごしやすくて暖かい街。


 正邦と暖かい日々を過ごした街だ。


 そこは地方と言っても人の数はそれなりにいるし、だいたいの大手スーパーや量販店もあるし、国道に高速道路、JRに私鉄と、まったく不便じゃない所だった。


 県境に位置し、すぐに大きな街に出れる場所で、ベッドタウンとも呼ばれていた。


 元々は工場地帯だったのに、不況のせいか次々と潰れ、その後に建売住宅が何軒も立ち並んだそうだ。


 初めて来た人にとっては、どれがどれだか、どこがどこだかわからなくなるような、そんなデザインの建物と区画で出来上がっている──まるで騙し絵みたいな街が、わたしの過ごした街だった。


 そんな住宅街にある無個性な一軒家。


 お父さんが苦労して手に入れた、白とグレーの我が家。


 玄関の草花がないと、埋れてしまうような家並みの中にある家。


 そこにもしかしたら、正邦のDNAが落ちているかも知れない。そう思って帰ってきたけど、もうその頃にはそんなのはあまり気にしなくなっていた。


 あれから4D画像を三度撮ったんだ。


 赤ちゃんの顔が、だんだんとはっきりしていく中、いくら確信してるとはいえ、不安だった。


 思い出したくもないあの男の顔がチラついて不安だった。


 でも最後の一枚を撮った時、わたしは泣いた。


 でも今度は嬉し泣きだ。


 だって正邦だった。


 その顔は、正邦にしか見えなかったんだ。



「ここについてますね。男の子ですよ」



 わたしは、ようやく心の底から少し笑えた。





 お父さんとお母さんに助けられ、無事わたしは出産した。


 名前は正邦が覚えているかわからないけど、気の早いわたしがいつか聞いたことのあった名前にした。


 その通りに名付け、苗字だけ変わらない寂しさを抱えたまま、子育てを頑張った。


 辛いこともあったし、泣きたいこともあった。


 熱が下がらないこと。皮膚に炎症が起きたこと。


 腕を捻ったこと。角で頭をぶつけたこと。


 初めて遭遇する様々なことがあった。


 その上手くいかない苛立ちと悔しさと不甲斐なさを、側で聞いてもらえない寂しさが、わたしの犯した罪をまたはっきりと自覚させてくる毎日だった。


 それでもわたしは日々を感謝しながら、子育てを楽しもうと思った。


 写真の数は、それこそ膨大な数に膨れ上がっていた。


 いつか正邦が見たいと思ってくれると信じて撮っていた。


 今でもたまに生まれた時の泣き声を再生しては、その時の嬉しさと寂しさを行ったり来たりしていた。


 そしてこの街に帰ってきてから二年が経つ頃には、正邦の両親も折れてくれて、会ってくれた。


 正邦の小さい頃の写真を引っ張りだして比べてくれた。



「あなた…正邦にしか思えないわ…」


「そう、だな…これだけマサに似てるとなぁ…ううむ…」



 わたしが安心していた通り、二人とも納得してくれた。一応は正邦の臍の緒を使わせてもらって確認もした。


 そしてようやく、正邦以外の人に、彼の子供だと信じてもらえたことに安堵して嬉しくて泣いた。





 そして、もう一つの出来事があった。


 ななさんとは遠く離れた今でもちょくちょく連絡を取っていた。


 生来の世話焼きなのか、子育てに関することや、独り身のわたしが受け取れる補助など、それこそ親身になって教えてくれた。


 少しというか、結構圧が強く、急くようなマイペース。情に篤いし良い人だけど、人を信じやすく騙されそう。


 騙されたわたしが言うことではないけど、ななさんにはこと恋愛だけは少し危うさがあるような気がしていた。


 そんなななさんに春が来たという。


 というか、いきなり結婚だという。


 どうやらわたしの境遇に気を使って、寸前まで言えなかったみたいだった。


 声に幸せが乗っていて、わたしまで嬉しくなってくる。


 でもそれは、春でもなんでもなくて、ただわたしにとってのやり残したことだった。


 何の因果か、あの男とななさんが付き合っているのだという。


 何の冗談か、あの男とななさんが結婚するのだという。


 だけど、息子と過ごす毎日は、わたしにとって過去の辛さや寂しさを上回る喜びに溢れていた。


 いつしか、あの男のことも忘れかけていた。


 それに、ななさんはどうも惚気が過ぎていて、わたしの話が全然入っていかない。


 人生のプランを、いじりたくないのもあるんだろうけど、恋自体が初めてなのか、まるでわたしが正邦と付き合った頃のように、周りが見えていなかった。


 あの男の過去をバラし、悪様に言えば済むのだろうけど、恋した女の子ほど厄介なものはない。もしかしたらダメ男が好きなのかもしれないし。


 それに、良くしてくれたななさんには言いにくいのもある。


 結局辿り着いた結論は、ななさんが幸せならいいかと思った。


 わたしが彼女の未來を左右することに、どこか怯えていたのかも知れないけれど、復讐なんて馬鹿げてるし。


 そう思っていた時だった。



「彼って、本当に誠実なのよ──」



 せいじつ…?


 今、せいじつって言った?


 それは、誰しもがよく使う言葉だろうけど。


 たかだか話の途中に差し込んだありふれた言葉だろうけど。


 わたしにとっては禁忌の言葉だった。間違っても、あの男に使っていいような言葉ではなかった。


 言いようのないドス黒い感情が芽生え…いや、これは元からここにあったのだ。


 ──ねぇ、みゆき。


 ──アンタ、幸せを失ったこと、忘れたわけじゃないよね? 


 ああ、わたしの胸の内には、まだちゃんとあったんだ。


 殺したいほど憎い想いが、ちゃんと確かにここにあったんだ。


 

「ななさん…良かったらお手伝いしましょうか?」



 徒花を散らす機会は、ずっとずっと燻っていたんだ。

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