第九 - みゆき
「明日結婚かードタキャンしちゃえよ」
軽薄な態度の中西が、鏡の中でいつものように軽口を叩く。
「何言ってるんですか。そんな気ないくせに」
「ははは。流石に人妻には手を出せないからな。慰謝料が怖すぎる」
今日はまだオープン前の新店舗を貸し切って、髪を整えてくれていた。
「でもわたしはバラしてもらっても構わないですよ。貰ってくれるんですよね。逃しませんよ」
「おーこわ。んなことしねーよ。まー俺も寂しいけどな。諦めてくれ」
いつものように中西は虚勢を張り、寂しそうな顔を作って小さく笑う。嘘つきだ。
「…」
「あー、ほんとごめんな? 幸せにな」
そして思ってもないことを平気で宣う。嘘つきだ。
「はい…真一…中西さんも」
「…おう」
だから最後に脅しをかける。
「まだ…間に合いますよ?」
「ッ、ははは。店のことで精一杯だ。漸く叶ったし…でもまた落ち着いたら来てくれよな」
「…考えておきます」
「ふっ、ははは、じゃあな」
◆
わたし、浦部みゆきの彼氏である有馬正邦とは、出会ってからもう十三年になる。
付き合って七年と三ヶ月。
ずっと変わらない愛しい人。
でも最初の印象は無口気味というか孤高っていうか、大人しい人って感じだった。
みんなからは、「いい人だけど」みたいな評価のされ方だった。でもわたしにとっては静かに照らす夜のお月様みたいだなって思ったのは覚えてる。
そして恋を自覚したシーンは、今でもはっきりと思い出せる。
中学三年生の時だ。
ある二人の同級生の喧嘩に、彼が真っ先に飛び込んだのだ。
男二人の殴り合いのそれは、簡単には止まらず、その二人に殴られながらも正邦は必死に止めていた。正邦だけが止めていた。
そして彼はその二人を先生からも庇ったのだ。結局勘違いで喧嘩していたことがわかり、一番酷く殴られた正邦にはみんな同情こそするけど、無関心だった。
みんなやっぱりいいひとだね、くらいで済ませていた。
正邦に聞けば明日卒業式だし、空気悪くなるかもって思ったら咄嗟に、なんて軽く笑いながら答えていた。
卒業アルバムには彼の痛々しい姿はないけど、記念写真には、右目にバッチリまんまるな青タンが写っていて、でも朗らかに笑っていた。
卒業式だからか、瞳なんて涙で滲んでいて、あたかも殴られた直後みたいになっていた。
写真の中の君は、痩せ我慢してるみたいにも見えるけど、優しく笑っていた。
それがわたしにはとても美しく見えた。
それがわたしの初恋だった。
◆
中西の店を出ると、辺りはすっかり日が暮れていた。昨日までの雨はどこかに行ってしまっていて、まるでわたしを労っているかのようだ。
ああ、終わった。
「ひっ、ひぐ、ふ、ひっ、ひぐ…はは、ふふ…」
やっと終わった。
「──やぁっと解放されたー! んー耐えたぞわたし! あははー! ざまぁーみろ!」
わたしは昔からどこか抜けていて、その抜けた頭で思いついたのは、慰謝料という社会的制裁のバリアくらいだった。
未婚のまま浮気バレしたらあの男に何のダメージもいかないまま正邦と別れるだけ。
そんなエンディングだけは許さない。
だからずっと試し続けた。
ずっと騙し続けた。
全てのデータを消すために。
「下手くそ! 全然気持ちよくなんてねーわ! 死ね! 早漏のくせに死ね! 死ね! 正邦に勝てるわけないだろ! あははは!」
そうしてわかったのは、あの中西という男は小賢しいだけで弱気な女性にマウントを取るのが好きな臆病者だということ。
臆病なくせに、いや臆病だからこそ動画なんてものでしか脅せない情け無い男だということ。
そして自分に好意が完全に向いたら、途端に興味を失ってしまい、別れてからも良い人でいたい頭のおかしいクズだということ。
想像力もなく、慰謝料なんて震えそうなくらいビビっていた。
結婚なんて、とてもじゃないけど決断出来ない男だった。
性欲なんて、線香花火みたいな呆気なさだった。
悪党なんて向いてないのに子供みたいに強がり虚勢を張るしょーもない男。
それが中西だった。
だけど、そんな分析は最初からはとてもじゃないけど出来なかった。
怖かったし、データはあっちにあるし、何とか消さないといけなかった。
だから攻め方を変えた。
そして正体を見抜いたわたしは、今日まで一時の恋人ごっこをしてきた。
わたしが熱を上げ、惚れ込んでいるように見える関係にしてきた。
例えばマウントを取りたいだけの脅しは、逆に欲情を煽るかのようにして淫らに写したものを返し、ドン引きさせるようにしてあしらい続けたのだ。
あいつの性欲は並みだし、思った通りマウントが取れたら安心して手を出してこない。最初はもちろんあいつが惚れていたのだろうけど、変態を演じたらわかりやすく引いていた。
メッセは饒舌で格好つけた嘘ばかり。
それに独立準備で時間もあまりないからか、オナるだけで満足してた。
だからこそ、お前に惚れてるんだと騙し続けたのだ。
その結果、全てのデータは破棄させることができた。万が一流出したらお前の責任だから、慰謝料とともにわたしを養えと念書にも書かせる事が出来た。
これでひとまずは安心だ。
始まりはわたしのマリッジブルーが原因で、思慮の浅さと迂闊さから始まってしまったし、泣いて喚いたけど、何にも状況は変わらないと気づいて頑張ってきた。
全ては正邦との幸せのために。
今思えば職場に突貫してぶちまければ追い込めただろうし、警察に行って打ち明ければ状況は簡単に覆せたのだろう。
でもどの案も正邦にバレてしまう怖さがあった。
結婚式が吹き飛ぶイメージしか湧かなかった。
そうなればあの時の精神状態からわたしはおそらく自殺していた確信があった。
今思えばちゃんと言えば正邦にはわかってもらえたのかもしれないけど、その時のわたしには無理だった。
「っあ、ははっ……涙止まらないや……ひぐっ、ひ、ひくっ…あはは…は、は…ひん、ひっく、ごめんね、正邦…ごめんなさい、正邦…精一杯尽くすからね……」
いつもなら正邦はわたしの変化を感じとってくれただろうけど、必死で振る舞ったおかげか、距離を置いた罪悪感か、式の事で頭がいっぱいだったからか、何も言っては来なかった。
一月も経つ頃には裏切りの事実から死にたいと思っていたけど、一生懸命に式の準備を進めてくれる正邦の疲れた笑顔に、一人でなんとかしないとダメだと気持ちを震い立たせて気合いを入れた。
でもまた一月経つ頃に同じように鬱屈とした心境になり、正邦とは会いたくないほどだった。でも自分からは言えず、ロック解除したスマホを無造作に投げ出していて、何度かバレるようにしたけどバレてはくれなかった。
もう自分から言おうと何度も思ったけど、正邦はいつも疲れていて、頑張ってくれていて、罪悪感も手伝ってなかなか言い出せなくて、そもそもわたしが会いたいなんてわがままを言ったのがきっかけでこんな目にあったと思い出し、また頑張ってこのゴールを目指した。
「本当に長かった…本当に良かった…良かったよぉ……ひぐっ、ひ、ひくっ、ふふ…」
そしてやっとここまで来た。
正邦の性格から例えこの先バレたとしても結婚さえしてしまえば、わたしを簡単には捨てたり出来ない。
式さえ上げてしまえば、正邦を逃がさないで済む安心感が強い。
我ながら汚くてどうしようもなく酷いとは思うけど、それしかわたしには縋るものがなかった。
あとは子供だけ。赤ちゃんだけ。
10人は欲しい。
それは多いか。ふふ。
「もうこれで! 後顧の憂いは無くなったのだ! あははは! 死ね! 死ね! あはは…は、は……ひぐっ、ひん、あはは…」
すぐにでも正邦に会いたいけど、こんな中西臭い臭いをつけて会えない。
最後の最後でポカは出来ない。
それにここ最近眠れてなかったからお化粧のノリも悪いし、恥ずかしい。
寝顔を見られた時は死ぬほど恥ずかしかった。
何年付き合っても、それだけはイヤだった。同棲を親に否定してもらったのもそれが大きい。本当は許可なんて簡単だったんだよ。
だからなるべくくっ付いて顔を見ないで済むようにしていた。中西に抱かれた罪悪感より羞恥心が勝つなんて思いもしなかったな。
まあ、あの時は恥ずかしかったし仕方ない。
中西なんてほんとどうでも良かったし。
でも明日どうしよう。
綺麗な花嫁さんになれるかな。
お父さんとお母さんはまだ起きてるかな。ホテルに帰って無理矢理でもいいから寝ないとね。
ここ二か月では正邦といるとホッとしてたからか、すぐに眠たくなっていた。おそらく中西の正体を見抜き、エンディングまでの道が見えて気が抜けていたのだろう。
寝顔を見られるのも、一度見られてからはそこまで気にならなくなっていたのかもしれない。今から一緒に住む不安が減って結果的によかった。
「ぐすっ、ああ、ひくっ、でも、あれは良い思い出に、なったなぁ」
二泊三日の婚前旅行だ。
正邦は睡眠薬に頼っていた。一日目の夜、鞄を漁ると出てきた時は動揺した。
中西をコントロールすることを覚えていたわたしは、今まで必死だったせいか、ようやく正邦がおかしいと気づけた。
やっぱり寝れてなかったんだという確信を得たわたしは、婚前旅行だし、いろいろと一緒に回りたかったけど、我慢して温泉を堪能してもらおうと、決めていた通り別行動にすることにした。
一人にする心配ももちろんあったけど、写真でアリバイを作り、一人宿に戻っていた。正邦が寝たのを確認してから中西を呼び出し、酒と眠剤で潰し、目の前で正邦を襲ったのだ。
寝ている中西に正邦とのわたしを見せつけたのだ。
それに意味なんてないけど、その時のわたしはどうしても欲しかったのだ。
NTRなんてジャンルは知らなかったけど、中西が好きなジャンルでキモいと思ってたけど演じるために我慢して観てたから、ついそうしてみたけど、少し気持ちがわかってしまった。
燃えた燃えた。
正邦も溜まっていたようだし、どことは言わないけど有り難くイライラしていて全然萎えなかった。
そのせいか、変態的な言葉で成り切ってしまった。温泉旅館なのもなかなか良かった。
そして最後にはわたしの方が降参していた。
朝は我に返って正邦を巻き込んだことに罪悪感を感じて落ち込んだ。同時になんて事をしでかしたのかと、ダブルで落ち込んでしまった。
そして気恥ずかしくなって内湯にはとてもじゃないけど入れなかった。
翌る日、正邦に温泉を楽しんで貰ってる最中、一人宿に戻り中西を押し込んだ部屋を確認するとあいつはまだ寝ていた。
死んでても良かったのに。
ただ、あいつ、全然勃たないのに取り繕ってたのは笑った。今日も慰謝料の話を出したら触りもしない。ウケる。
それにしても、元々は中西にハマってる女として役になりきってはいたけど、あいつが旅行にまで来るとは思ってなかったな。
来たとしてもおそらくわたし達の宿ならビビって手を出してはこないと確信していた。
正邦、ガタイがいいからね。
そもそもわたしが誘う事で成立していたことにすら気づいていないようでウケる。
それなのに、何のプライドか、随所に子供扱いしてマウントを取ってくるメッセには辟易としていた。最近はだいたいコピペで返してたけど、上手く拗ねる女を演出できた。
そしておそらく結婚後、今度はわたしからアプローチしてくるだろうと思ってる節もあった。だからかここ二ヶ月はセックスなんてしなくても写真とメッセだけで余裕だった。
まあ他の女も漁ってるんだろうし、オープンに間に合わすように忙しくしていたし、最後の夜だけはと意気込んでいたけど、辛い表情と慰謝料で脅すと萎えていた。あはは。
しかし、とんだ勘違い野郎だったなぁ。
でもとりあえず今日は許してやる。
やっとここまできたからね。
想定通りあいつは自分からわたしを手放した。
だから漸くスタートだ。
男の人は結婚をゴールだなんて言うけど、今だけはわたしもその気持ちがわかった。
あー早く正邦と抱き合いたいな。
もしかしたら初夜で出来ちゃうかも。
「ふふ……今日の月、綺麗だなぁ…正邦も見てるかな」
そう言って明るい未来を夢想して、目を細めて、滲む夜空の月を見上げた。
そういえば、付き合いたての頃、本当に好きなのか、正邦によく疑われたなぁ。
わたしから告白したんだよ、当たり前だよって何回言ったのかなぁ。
動揺して顔真っ赤にしてたなぁ。
正邦はそんなこと覚えてないだろうけど。
「ふふ…」
『寒い国の女はね、一度決めたら曲げないの。例え馬鹿なことをしてでも成し遂げるのよ』
昔、そう言ったお母さんの言葉がふと浮かんだ。
昨日は嬉しそうだったなぁ。
明日泣くかもなぁ。
今のわたしみたいにポロポロと。
「ふふ。涙で滲んじゃうけど、月がほんと綺麗だよ。まだまだ梅雨なのに。晴れて良かったぁ……。あ、ねぇ正邦──」
それはまるで初恋の時のようで。
これはきっと運命なんじゃないかな。
「───まるであの時の青タンみたいに月がまんまる。ふふっ」
そう言って、わたしは小さく笑った。
そして漸く、わたしの瞳にその月がはっきりと見えた。
その雨の六月の、束の間に映えた輝くあの美しい月は。
夜空に幻みたいにまんまると光っていたあの正邦みたいなあの月は。
ああ、今でも鮮明に覚えてる。
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