第八

 僕はみゆきに内緒で新居に来ていた。


 二人で選んだ、結婚してから住む予定だった、10階建のマンションの九階部分。新築ではないけど、そこそこ綺麗なマンションだった。


 そのベランダで夜空を眺めていた。


 六月の初旬、今日明日と雨は降らないらしい。



「……」



 僕、有馬正邦ありま まさくに浦部うらべみゆきと出会ってから十三年だ。両家とも仲は良い。家族ぐるみの付き合いになっていたし、だからこそ僕は自分を偽る自信があった。


 昔から周りの空気の澱みが嫌いだった。


 今宵の月のように、それが夜に静かに降り注ぐような静寂な空気が好きだった。


 だからか、誰にとっても一番の最善を手に取ってしまう性格的な癖があった。


 それこそが嘘のない一番の望みだった。


 この始まりは何だったっけ。



「覚えてないな…」



 自己犠牲だなんて思ってもいない。例え僕が一番の損に見えても、それが本当だった。


 そんな僕だったのに、ここまで来てしまった。


 きっと明日はいろいろな人に迷惑をかけるのだろうけど、不思議と心は落ち着いていた。


 もっと早くにみゆきから『真一が好き』と聞きたかったけど、自分の欲望に負けた。その結果どうにも式の準備は進んでしまい、聞けた時にはもう遅かった。



「なんて、嘘つきかもな…」



 この二か月の間、今までそう思っていただけで、僕の中に破滅願望でも生まれていたのかもしれない。


 僕の居ない結婚式に乗り込んで、みゆきを助ける勇敢な中西をイメージしてしまったのかもしれない。


 いや、あの真っ白なトイレットペーパーを千切った時にはすでにこのウェディングのエンディングをイメージしてたのかもしれない。


 ああ、そうだ。二か月前のあの時、確かに水に流したと思ってたんだ。


 くしゃくしゃにしたトイレットペーパーとともに僕の恋心は流したはずだった。


 それなのに、その確信を得たくてメッセを覗いていたのだとわかっていた。


 君は気づいていないだろうけど、僕は思ってたより君が好きだったのだと、さっき思い知った。



「気づいてなかったのは僕か……」



 それこそ、こんなことをしでかすくらいには、みゆきと中西のことを応援していた。


 それは嘘じゃなかった。


 式のこともあって一人焦っていたのか、気づきもしなかった。


 今になってわかったけど、どうにも君を忘れることが出来そうにないから、僕はこうするしかなかったんだろう。


 じゃないと君を束縛してしまいそうだ。


 謝られたら許してしまいそうだ。


 でも疑いながら生活することにも耐えられそうにない。


 あのドキドキは、つまり僕の心の悲鳴だったのだろう。


 打ち明けたところで……いや、最初は大変だと思うけど、どうか許して欲しい。


 完全な悪役にもなりたかったけど、両親が責められるのだけは無理だった。だから両親だけは後日証拠を送ることにしている。


 今日まで忙しかったのは、式の準備や結婚後の新居の準備は表向きで、裏では引っ越し先の剪定、両親への手紙、会社での引き継ぎ、銀行や役所の手続きなどが原因だった。


 両親への手紙には警察には届けないで欲しい、これは意思のある失踪だと書いていた。


 彼女とは結婚できないこと、その理由に中西との一連のやり取りはスクショを印刷していた。


 そして結婚式の前日である今日、みゆきと中西が逢瀬を重ねている中、僕はひっそりと姿をくらませる。



「さよなら、みゆき」



 閉まる新居のドアの音が、彼女の門出を祝う祝福の鐘だった。


 マンションを出て、もう一度、夜空の月を見上げてみた。


 届かないそれは、まんまると輝きを放っていた。



「………ああ」



 そういえば、僕はいつも「いいひとだけど」。そういう評価だった。


 人気のあったみゆきと付き合えたのも、しばらくは嘘なんじゃないかとずっと思っていたなと、今になってはっきりと思い出す。



『──わたしから告白したんだよ! 当り前だよ! ね、な、ならさ、正邦…って…呼んでいい…? それなら特別好きって信じられるよね──』



 ああ、そういえばそう言っていた。


 おそらく君にとってはどうでもよくて、青臭い話だなんて笑うと思うけど、あの時の、高校生の時の僕にとっては運命を決定づける言葉だった。


 そして今もなおそれは続いていたと思い出す。


 だからこそ僕は情け無くもそれに拘っていたのだろう。


 でも付き合いが長いと、そんな短い二文字が、簡単には言葉に出来なくて、態度では示してはいたけど、思っていても口から出てこなかったことを思い出す。


 あの時、あの四か月前に言えたなら変わっていたのだろうか。


 バカなことだと思うけど、僕はなんて単純なんだろうか。


 だって今日、君に好きって言われただけで揺れてるんだ。


 四か月前から無くなっていたそれは、中西とのやり取りの中には沢山あって。


 でもそんなものは響きもしなくて。


 メッセの中みたいに心はもう無くて、例えば見上げたあの月みたいにずっと遠くにあるはずなのに、揺れてしまって震えたんだ。


 今更だけど、どうやら僕の心はここにちゃんとあったみたいだ。


 君への恋を、無くしてなんかなかったんだ。



「みゆき、夜に月が綺麗だ」



 陳腐だけど、それくらいならどうにか言葉にできるみたいだ。


 そして漸く、僕の瞳に月が滲んだ。

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