第八
僕はみゆきに内緒で新居に来ていた。
二人で選んだ、結婚してから住む予定だった、10階建のマンションの九階部分。新築ではないけど、そこそこ綺麗なマンションだった。
そのベランダで夜空を眺めていた。
六月の初旬、今日明日と雨は降らないらしい。
「……」
僕、
昔から周りの空気の澱みが嫌いだった。
今宵の月のように、それが夜に静かに降り注ぐような静寂な空気が好きだった。
だからか、誰にとっても一番の最善を手に取ってしまう性格的な癖があった。
それこそが嘘のない一番の望みだった。
この始まりは何だったっけ。
「覚えてないな…」
自己犠牲だなんて思ってもいない。例え僕が一番の損に見えても、それが本当だった。
そんな僕だったのに、ここまで来てしまった。
きっと明日はいろいろな人に迷惑をかけるのだろうけど、不思議と心は落ち着いていた。
もっと早くにみゆきから『真一が好き』と聞きたかったけど、自分の欲望に負けた。その結果どうにも式の準備は進んでしまい、聞けた時にはもう遅かった。
「なんて、嘘つきかもな…」
この二か月の間、今までそう思っていただけで、僕の中に破滅願望でも生まれていたのかもしれない。
僕の居ない結婚式に乗り込んで、みゆきを助ける勇敢な中西をイメージしてしまったのかもしれない。
いや、あの真っ白なトイレットペーパーを千切った時にはすでにこのウェディングのエンディングをイメージしてたのかもしれない。
ああ、そうだ。二か月前のあの時、確かに水に流したと思ってたんだ。
くしゃくしゃにしたトイレットペーパーとともに僕の恋心は流したはずだった。
それなのに、その確信を得たくてメッセを覗いていたのだとわかっていた。
君は気づいていないだろうけど、僕は思ってたより君が好きだったのだと、さっき思い知った。
「気づいてなかったのは僕か……」
それこそ、こんなことをしでかすくらいには、みゆきと中西のことを応援していた。
それは嘘じゃなかった。
式のこともあって一人焦っていたのか、気づきもしなかった。
今になってわかったけど、どうにも君を忘れることが出来そうにないから、僕はこうするしかなかったんだろう。
じゃないと君を束縛してしまいそうだ。
謝られたら許してしまいそうだ。
でも疑いながら生活することにも耐えられそうにない。
あのドキドキは、つまり僕の心の悲鳴だったのだろう。
打ち明けたところで……いや、最初は大変だと思うけど、どうか許して欲しい。
完全な悪役にもなりたかったけど、両親が責められるのだけは無理だった。だから両親だけは後日証拠を送ることにしている。
今日まで忙しかったのは、式の準備や結婚後の新居の準備は表向きで、裏では引っ越し先の剪定、両親への手紙、会社での引き継ぎ、銀行や役所の手続きなどが原因だった。
両親への手紙には警察には届けないで欲しい、これは意思のある失踪だと書いていた。
彼女とは結婚できないこと、その理由に中西との一連のやり取りはスクショを印刷していた。
そして結婚式の前日である今日、みゆきと中西が逢瀬を重ねている中、僕はひっそりと姿をくらませる。
「さよなら、みゆき」
閉まる新居のドアの音が、彼女の門出を祝う祝福の鐘だった。
マンションを出て、もう一度、夜空の月を見上げてみた。
届かないそれは、まんまると輝きを放っていた。
「………ああ」
そういえば、僕はいつも「いいひとだけど」。そういう評価だった。
人気のあったみゆきと付き合えたのも、しばらくは嘘なんじゃないかとずっと思っていたなと、今になってはっきりと思い出す。
『──わたしから告白したんだよ! 当り前だよ! ね、な、ならさ、正邦…って…呼んでいい…? それなら特別好きって信じられるよね──』
ああ、そういえばそう言っていた。
おそらく君にとってはどうでもよくて、青臭い話だなんて笑うと思うけど、あの時の、高校生の時の僕にとっては運命を決定づける言葉だった。
そして今もなおそれは続いていたと思い出す。
だからこそ僕は情け無くもそれに拘っていたのだろう。
でも付き合いが長いと、そんな短い二文字が、簡単には言葉に出来なくて、態度では示してはいたけど、思っていても口から出てこなかったことを思い出す。
あの時、あの四か月前に言えたなら変わっていたのだろうか。
バカなことだと思うけど、僕はなんて単純なんだろうか。
だって今日、君に好きって言われただけで揺れてるんだ。
四か月前から無くなっていたそれは、中西とのやり取りの中には沢山あって。
でもそんなものは響きもしなくて。
メッセの中みたいに心はもう無くて、例えば見上げたあの月みたいにずっと遠くにあるはずなのに、揺れてしまって震えたんだ。
今更だけど、どうやら僕の心はここにちゃんとあったみたいだ。
君への恋を、無くしてなんかなかったんだ。
「みゆき、夜に月が綺麗だ」
陳腐だけど、それくらいならどうにか言葉にできるみたいだ。
そして漸く、僕の瞳に月が滲んだ。
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