第七
上京してきた両家との挨拶も済ませ、後は式を待つばかりとなっていた。
四か月前のドタバタは、この結婚式の準備のせいだった。
あの時は思ったよりすることが多く、責任などが思いの外のしかかっていた為イライラとしていた。でもみゆきに当たりたくないからと少し距離を置いていた。
マリッジブルーというのか、不安なみゆきは、馴染みの美容室の男、中西に愚痴を溢したのがそもそもの恋のきっかけだった。
あまり知らなかったけど、美容師とは思ってたより相当過酷な職業で、遅くまでレッスンがあったりして休みが少ないようだった。
逢瀬は日曜日の夜か月曜日の夜が多く、それでも彼は休日には講習会に出たりと忙しくしていた。どうやら独立する準備が出来たみたいで、最近では嬉しそうにみゆきに未来を語っていたし、みゆきも応援していた。
「漸くだね。緊張してる?」
「いや、みゆきは?」
「緊張してるよ〜! でも楽しみの方がおっきいかも! あ、嘘。やっぱり緊張してる…」
そりゃそうだろうな。何せ結婚式前日の今日、これから中西と過ごすんだから。
彼は頑張って休みを取ったらしく、背徳と情熱に酔いしれる夜を楽しみにしているそうだ。
そしてそれを最後にするという。
悲恋だ。
「…幸せになろうね」
「ああ」
でもその幸せはおそらく嘘になるだろう。数年後の未来の火種はすでに着火していて、みゆきと中西の恋愛物語がまた再び始まるのだろう。
だからこそ、そんな祝福の鐘を僕は聞くわけにはいかないし、そんな終わりにはさせない。
前もって準備していたことを行動に移す時が来た。
その為に忙しくしていた。
「もう鍵はあるんだよね」
「うん。式が終わってからだね」
「はぁ〜夢が叶ったね〜。でも疲れたね、旦那様?」
夢なんて最近は見ていない。
それに中西みたいに叶えたい夢も特にない。
それと婚姻届は式が終わったあとに二人で出す予定だった。だからまだ旦那様でもないし、なる予定もない。
「はは、まだだよ。でもそうだね。少し早いけど明日に備えて寝るよ」
「うん。わたしは友達と独身最後の夜遊びしてくるね〜なんちゃって。嘘だよ〜ちゃんと7時までには帰るから」
「…わかってるよ。じゃあ明日」
「……」
「みゆき?」
少しの間、みゆきは立ち止まり、別れのキスを求めてきた。随分と久しぶりだけど、なんのつもりだろうか。
でもおそらくこれが最後のキスになるだろうし、いいか。
「ん……なんだか正邦が…ううん、ふふ、なんだかキスが冷たいね。やっぱり緊張してるんじゃない? 心ここに在らずーって感じだよ?」
確かに心はここに無いのだろう。それはお互い様と言えるし、特に緊張などしてはいないけど、どこか気が抜けてしまっていたのかもしれない。
「…そうだね。やっぱり緊張してるかも」
「やっぱり! なんだか最近特におかしいと思ってたんだ…でもわたし達なら大丈夫だよ…ね?」
「ああ、うん。きっと二人なら大丈夫だよ」
「ふふ、正邦がそう言うと安心する」
もちろん二人とは僕じゃないけど、しかし危なかった。
最後の最後でポカは出来ない。
「あ、もう時間だ…行ってきま〜す! 後でメッセ送るね〜」
「…ああ、行ってらっしゃい」
最後のキスとともに、これが最後の会話になるんだろうな。
そう思っていたら、去り際にみゆきは小さく言った。
「好きだよ、正邦」
「ッ、ああ、僕も…だよ」
反射的に答えてしまったけど、不思議な感傷と言えばいいのか、何やら言葉にしにくい感情が胸の内を一瞬で支配したのがわかる。
これはなんなのだろうか。
未練だろうか。
執着だろうか。
いや、涙なんて出ていないからどちらも違うと思う。
それにそんなものは不要だ。
今までありがとうな、みゆき。
それと明日、ごめんな。
悲恋には決してならないから。
そんな気持ちで、足取りの軽い彼女の背中を見送りながら、僕は小さく手を振った。
「……?」
その僕の手は何故か、少し震えていた。
まるであのトイレの中の時のように、小さく小刻みに震えていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます