12.幸せとエンスト

「ふう……」


 俺は本を閉じてカウンターに置いた


(とりあえず読み終えたぞ)


 しかしここからが難題だ。功じいに感想を伝えなければならない


(それほど面白いとは思わなかったな)


 それをそのまま言うのは流石に正直者が過ぎる。いや、正直者というよりただの馬鹿だ

 読む前には少し期待もしていた。親父が好きな本だし、もしかしたら面白いんじゃないかとか――功じいが言うように何かが変わるかもしれないなんて――思ったりもしたのだが


(事実は小説よりも"現実的"なり)


 1冊読んだだけで何か特別なことが起こるなんてことはないのだろう


「あっ、読み終わったんですか?」


 本棚の整理をしていた由香さんが話しかけてきた


「すみません手伝わなくて」

「いえいえ、休憩のときはお気遣いなく、ゆっくり休んでくださいね」


 由香さんと俺、功じいは時間をずらして昼休憩をとるようにしている


「どうでしたか?面白かったですか?」

「いや、うーん。まあまあですかね」


 俺は言い淀んだ


「そうですか…」


 由香さんは少し残念そうだ


「いえ、つまらないというわけではないんですが、功じいに感想を言うとなると……」

「難しいですか。うーん…」


 由香さんは何やら思案し始めた

 俺は本を手に取って表紙を眺めた


(もう一回読み返したほうがいいのかな)


 などと漠然と考えているときだった


「あの、もしご迷惑じゃなければ……」


 由香さんが遠慮しがちに続ける


「お店が終わったらお食事にいきませんか?」

「へっ?」


 突然のお誘いにマヌケな声を上げてしまった。人は思いもよらない僥倖に接すると頭がエンストしてしまうらしい


(食事……ってなんだっけ?食事……?食事?)


「すみません、急過ぎますよね」


(急過ぎる‥‥‥たしかに…急だなあ)


「それじゃあ、また今度――」

「いきます!」


 なんとかギリギリのタイミングでエンストから復帰した俺は勢い余って大声を返してしまった。由香さんは少し引いて――いや驚いているようだ

 俺は声を落ち着かせて言った


「もちろん、ご一緒させてください」

「よかった!食事しながらその本について教えてくださいね」

「本?」

「私は読んだことがないので」

「この本の感想をですか?」

「感想もですが、あらすじや登場人物についても聞きたいです」

「なるほど」


 やっぱり由香さんの頭の中は本のことでいっぱいのようだ


(分かってはいたがちょっとガッカリだな……)


「それと、その本以外にもいろいろとお話したいですし」

「本以外も」

「お互いのことをもうちょっと知っておいた方がいいかなって」


(お互い…知っておいた方が……!!)


 何という甘美な響きだろう。お互いを知りたい…つまり、それは――


(くうぅ‥‥‥っ)


 喜びが熱となってみぞおちから喉の奥を通り鼻の奥に達した


「だ、大丈夫ですか?」


 由香さんが心配そうに尋ねる


「全然大丈夫です」


 涙目で答える俺を見て、由香さんは少し引いて――いや驚いているようだった

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