1.本が似合う人
このショットを決めればクリアだ
俺は慎重に狙いを定めた。金欠の俺がなるべく課金せずに試行錯誤して何度も挑んだクエスト。その苦労がようやく報われるときがきた
――ガタン
その瞬間、電車が揺れた。手元がブレる
(く…ッ、チキショウ)
思わず声に出しそうになった。あぶないあぶない。ゲームで失敗して電車の中で声を上げるなんて恥ずかしすぎる
……隣の人に少し距離をとられたような気がするが。たぶん気のせいだろう
今どき電車の中ではみんなスマホだ。動画を見てにやけている奴もいれば、高速でフリックしまくっている奴もいる。全ての乗客が手元の画面にくぎ付けになっている光景は冷静になって見れば珍妙なものだ。まあ俺もその一人なのだが
目的の駅まで4駅。今からクエストに再挑戦する時間はない
アプリを閉じてスマホを胸ポケットにしまった。スマホがなければ他にやることはない
ふと顔を上げた
その瞬間
俺の中の時が止まった
◇ ◇ ◇
――その衝動をどう表現すれば伝わるだろうか
まるで息を吞むほど美しい絵画の前に立ったときのような
森の中で突如として現れる清らかな湖に辿り着いたときような
雨あがりに差し込む天使の梯子に触れたときのような
体の中心がぽっかりと空く感覚
その空白がほんの少しだけ幸福感で埋められていく
まだ足りないもっと欲しいずっとこのままがいいと
心が体を拘束するあの感じ――
「分っかるかなぁ?」
「分っかんねーなぁ」
増田がおどけた調子で合いの手を入れた
「要するに、さっき電車で見かけた人に一目惚れしたってことだろ?」
八畳のワンルームに置かれたミニテーブルには金麦の缶が2本、じゃかりこ、チータラが並んでいる
「恋愛相談に乗ってほしいなら金麦じゃなくてエビスを持ってくるべきじゃないか?」
「言っとくけど割り勘だからな」
「それじゃあ、モテねーわ」
フンと鼻を鳴らす
「で、どこに惚れたのよ?」
「どこって…」
少し考えるフリをした
「まあ、あれだ、本だな」
「本?」
「本を読んでたんだよ」
「本を…」
「なんつーか、本が似合うっていうか、本を読んでる姿が美しいっていうか」
「なるほどなぁ」
やはりこっぱずかしい
「分っかるかなぁ?」
「分っからなくもないなぁ」
おどけて返したあと、増田が続ける
「うん、分からなくもない。ていうか、分かる。読書姿がすごく綺麗な人っているよな」
「そうそう、知性的で清潔感があって凛としていて」
俺は飲みかけの缶を掲げた。増田がコツンと合わせる。親友と価値観が共有できるのは嬉しいことだ
「でもさ」
テーブルに缶を置きながら増田が言った
「お前、本なんて読まないよな」
「よ、読むし」
「ウソつけ。マンガしか読まないだろ」
「マンガも本だろ」
「ほう。その人の前でも言えるの?それ」
イメージしてみる
俺(読書が趣味なんですね。僕もなんですよ)
彼女(それは素敵!何を読まれるんですか?)
俺(有名どころではワンピースですかね。古典だと聖闘士星矢とかも好きですよ)
彼女(は、はぁ…)
「言えないわな」
「だろうね」
増田は俺の肩に手を置いて憐れむように言った
「儚い恋だったなぁ」
手の甲にじゃがりこを突き立ててやった
「痛っ」
「痛いくらいがちょうどいい」
「怒ったのか?冗談だよ冗談」
「怒ってないし。まあ、どっちにしろどこの誰かも分からないんだしな」
本の君は三つ前の駅で電車を降りた
「一緒に降りればよかったのに」
「親友との宅飲みを優先したんだよ」
「当然だな」
「だろ」
よっこらしょ、と増田が立ち上がった
「あっ、俺のも頼むわ」
「あいよ」
「ほれ」
冷えた缶を受け取った。プルタブを爪でもてあそぶ
「ていうか、恋愛している場合じゃないしな」
プシュと音を立てた
「おう、次の仕事は見つかったか?」
増田がぶっきらぼうに聞いてくれた
「いやー、再就職って思ったより難しいな」
「そりゃそっか。ましてや上司ぶん殴ってクビになった奴を雇ってくれる会社なんてそうそうないよな」
「殴ってないし、クビにもなってねーよ」
「それにしても勿体ないよなあ」
「まあな」
俺は先月とある事情で町役場を自己都合退職した
「でもまあ、いいんだ」
「ふーん」
「なんだよ」
「まあ、いいんじゃないか」
「んだよ…」
増田が缶を掲げた
「分っかるかなぁ?」
「分かんねーよ」
コツンと缶をぶつける。冷たいしずくが床に落ちた
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