第8話 相沢万由里

「えっと、はい。私が相沢万由里ですけど……」


 彼女――相沢万由里は、キョトンと首を傾げた。なんで名前を呼ばれたのか、まるで分かっていない様子だ。

 思わず名前をつぶやいてしまってけど、普通に考えればおかしい。どうして名前を知っているのかと聞かれたら答えられる自信がない。

 まさか、『未来人から、相沢万由里という人がここにいると聞いたんです』、なんて言えるはずもない。


「あれ? もしかしてこの人、昨日の……?」


 必死に言い訳を考えていると、相沢はなにかに気づいたみたいだ。


(まさか、昨日のトランクをぶつけた相手だって今気づいた?)


「うそ。相沢万由里って、昨日のあいつだったの!?」

「マジかよ! 奇跡じゃん」


 六花も貴人も驚いて口を開けている。

 貴人の言う通り、あまりにも奇跡みたいな偶然だ。


「相沢は、この場所に用でもあったのか?」


 この神社は、近所の老人もありがたがらない寂れた場所だ。他所よそから来たような子供が寄り付く場所じゃない。


「えっと。用っていうか……」

「ていうか?」


 相沢はチラと神社の方を見た。神社というよりも、そこでたむろをしている男子高校生たちを向いているように見えた。


「も、もしかして、あなたたちも神社を占拠しようとしてるの……?」


 相沢はそんな、とんちんかんなことを言った。


「いや、なんでそうなる」

「あれ、違うの?」

「全然違うよ。俺らはただ――」


 言いかけて言葉に詰まった。

 “相沢万由里”を助けるために来たことは、もちろん言えるはずもない。


 と、その時、不意に視界が陰った。

 見上げると、鬱陶しいくらいに自己主張をしていた夏の太陽が分厚い雲に覆われていた。今にも大粒の雨を降らせてしまいそうな、真っ暗な雲だ。


「うそ。さっきまで晴れてたじゃん」

「マジかよ、傘持ってねーし!」


 六花と貴人の声を聞きながら、俺は空を見つめた。

 この雲はきっと雷雲だ。今にも空が荒れる予感がする。

 俺はそんな曇天から目が離せない。心臓がバクバクと早鐘を打つのが聞こえていた。


(大丈夫。まだ雷は鳴っていない)


 突然、手に暖かな感触があった。見ると、六花が俺の手を握っていた。


「大丈夫、あたしもついてるから」


 一度大きく息を吸う。六花のおかげで、だいぶ気持ちは落ち着いてきた。そもそもの雷への恐怖も、あの事故の後に比べればずいぶんとマシになっている。


「ありがとう。落ち着いた」


 ぽつり。

 雨が肩を叩いた感触がした。それを皮切りに、雨はざあざあと一気に勢いを増す。夏の天気は不安定だとはいえ、あまりにも急な移り変わりだった。


「早く帰ろう。風邪引いちゃう」


 六花に手を引かれて、来た道を引き返すように歩き出す。

 ゆっくり歩きながら、相沢の方を振り向いた。

 相沢は、雨に慌てて神社から逃げていく男子高校生たちを見つめていた。雨に打たれることも気にしないで、じっと見つめている。

 その姿は、とても神聖なものに見えた。


「相沢は、こうなることを願ってたのか?」


 思わず、足を止めてそんなことを訊いていた。


「え?」


 相沢は驚いた顔をした。


「なんとなく、あの高校生に困ってるみたいに見えたから」

「ちょっと祐介」


 六花が抗議の声を上げる。貴人は奥でじっとこの様子を見つめていた。

 相沢はしばらく逡巡する様子を見せたあと、なにか覚悟を決めたように口を開いた。


「もし、この雨が私のせいだって言ったら、あなたたちは信じる?」

「え?」

「ううん、なんでもないの」


 未来人は、世界の崩壊の鍵は彼女にあると言った。


(そんなまさか。だって、ありえないだろ……)


 未来人だとか、世界が滅ぶとか、別に本気で信じていたわけじゃない。

 だけど、まさか――。


「こんな雨じゃ、私も帰らないと」


 相沢は小さくそうつぶやいて、この場を去っていった。

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