第2話 キャスター付きトランクの奇跡

(……まぶしい)


 視界のすべてが青空だった。

 いよいよ本格的な夏の始まりという、ギラギラした日差しが全身に降り注いでいるのを感じる。このままでいたら、顔面だけ日焼けサロンに行ったみたいになりそうだ。

 不意に、眼前を六花の顔が覆いかぶさった。


「祐介! 大丈夫!?」


 いつも気の強そうな表情は消え去って、六花の顔は不安と心配で溢れている。

 六花のこの表情は少し苦手だ。


「平気、だと思う。ちょっと背中打っただけだし」

「でも、かなりの勢いだったよ? 頭を打ったりは……」

「平気」


 言葉を遮って立ち上がる。見ると、足元には例のトランクが横になって倒れていた。

 海外旅行にでも行けそうなくらいの、かなり大きなサイズだ。


(確かに、これとぶつかったって思うとヤバすぎたな……)


「あ、あの……」


 隣から声がした。


「ごめんなさい。大丈夫でしたか……?」


 坂の上にいた小動物みたいな女の子が、慌てて駆け寄ってくる。きっとこの子がトランクの持ち主なんだろう。

 焦った様子で、だけども、恐る恐る声をかけてきたのが分かった。


「大丈夫。なんとか受け身は取れたから」

「本当に? 骨折とか、してない……?」


 改めてみると、本当に夢の中の女の子とそっくりだ。見た目や雰囲気だけじゃなくて、服装までまったく同じ。

 薄ピンクの清楚なブラウスと、ふんわりとした白いスカート。頭の後ろのリボンの色まで、夢の中で見たままだった。


「あ、あの……?」


 怪我の確認でもしているのか、女の子は俺の身体をいろんな角度からじろじろと見てまわる。

 実際に目の前に立っていると夢で見た以上に可愛くて、正直、緊張した。


「ほ、本当に大丈夫だから」

「このトランク、あんたの?」


 今度は六花が冷たい声で遮った。


「ご、ごめんなさい。坂を歩いてたら、トランクが手から離れちゃって……」

「そんなの、状況を見れば分かるから。もし頭でも打って大怪我になってたらどうするつもりだったの?」

「えっと、それは……」


 かわいそうに。完全に蛇に睨まれた蛙になっている。

 むしろ、小動物な見た目のせいで、肉食動物に怯えるモルモットみたいだ。


 それにしても、こんな偶然があるんだろうか。夢の記憶なんて不確かなものでしかないけど、今朝の夢に出ていた少女は、間違いなくこの女の子だったという確信がある。

 まるで正夢のような、あまりにも奇跡的なタイミング。


「ねえ、きみは――」


 思わず声をかけてしまったけど、なんて訊けばいいんだろう?

 言葉が途切れて、一瞬変な沈黙が流れた時だった。


「おいおいおい! これ、どういう状況だよ!?」


 この状況に気づいたのか、全力疾走で先に行っていた貴人が戻ってきていた。


「なあ、この超絶美少女は祐介の知り合いなのか!?」


 無茶な全力疾走をしたせいか、貴人はゼーハーと荒い息を上げて、息も絶え絶えになっている。

 そんな状況で迫るものだから、トランクの女の子は六花に責められた時よりも怯えていた。


「こ、怖い……」


 素直すぎる声が漏れた。

 貴人はショックのあまり言葉を失って、六花はそれを見て失笑を漏らした。


「まあ、これは貴人が悪い」

「なんで!!??」


 いつものくだらないやり取りに、空気が少し緩んだ気がした。


「それより、旅行にでも来たの? そんな大荷物を抱えてくるような街じゃないと思うけど」

「えっと、旅行ってわけじゃなくて……」


 女の子は、明らかに六花に怯えている。トランクから手を離してしまったのはこの子にも非があるけれど、いつにも増して六花の態度は厳しかった。


(それにしても、これだけ目立つ子がこの街にいたら、絶対に知らなかったはずがないけど)


 貴人は「超絶美少女」と表現したけど、こんなに綺麗で可愛い子が田舎町にいたら、とっくに学校中で話題になっているに決まっている。


「旅行じゃなくて?」


 俺は続きを促した。


「えっと、旅行じゃなくて……帰省?」

「てことは、やっぱりこの辺りに住んでるわけじゃないんだな」

「うん。この辺りにあるはずなんだけど……」


 言いながら、キョロキョロと辺りを見回している。なにか探しものでもしているみたいな素振りに見えた。


「もしかして、道に迷ってる?」


 訊くと、女の子の肩がビクッと跳ねた。


「な、なんで分かったの……?」


 その拍子に、何かが手からヒラヒラと落ちる。足元に落ちたそれを拾うと、小さなメモ紙だった。


「地図?」

「あ、……」


 一枚のメモ切れに書かれているのは、この辺りの街の地図だ。

“おばあちゃんの家”と可愛い文字で書かれた場所までの道のりが、赤い線で引かれている。どうやら、おばあちゃんの家までの道のりをメモしたものみたいだ。


「このおばあちゃんの家まで行きたいんだろ?」

「い、行きたくない。全然」

「いや、その嘘は無理があるだろ」


 貴人が言った。


「前にも来たことあるし、全然、平気なの」


 女の子は明らかに強がりでそう言って、倒れているトランクを立て直す。


「あの。さっきは本当にすいませんでした」


 ぺこり。と、女の子は改めて俺に向かって深く頭を下げた。長いお辞儀の後に顔を上げると、トランクを引いて去っていこうとする。

 地図で見た“おばあちゃんの家”とは、反対側に向かって……。


「あっち」


 俺は“おばあちゃんの家”の方角を指差した。


「え?」

「この道を進んで、次の角を左に曲がったらすぐのところだと思う」


 女の子はしばらく呆気に取られたみたいな表情をしたあと、慌てて「あ、ありがとうございます」とお辞儀をする。

 それから、俺が指を差した方へ小走りで向かっていった。

 パタパタという音が聞こえてきそうで、歩く後ろ姿も小動物みたいだった。


「家まで案内しなくて良かったのか?」


 隣を見ると、貴人のニヤニヤした顔があった。


「そんなおせっかいするかよ」

「いーじゃん、あの子絶対また道に迷いそうだし。いだっ!」


 六花が貴人に蹴りを入れて黙らせた。


「バカなの? あんなやつ、わざわざそこまでしてあげることないでしょ」


 そんな2人のやり取りを横目に見ていると、またしても視界の奥に1人の男の姿が見えた。


(またさっきの男だ)


 いなくなったと思った、不思議な雰囲気の男。あの男がまた、住宅の隙間から俺たちの方をじっと見つめていた。

 男はいったい何者で、どうして俺たちを観察しているんだろう。気になることは山ほどあった。

 だけど、そんなことよりも、今はもっと大事なことがある。それは、実害があるかも分からない男じゃなくて、もっと目の前に迫った重要な問題。


「時間……」


 つぶやくと、貴人と六花は「あ!」と声を上げた。


「遅刻だあああぁぁー!!」


 貴人は叫び声を上げて、六花は呆れたようにため息を吐いた。

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