第1話 おかしな来訪者_ひとりめ

「祐介ー! 本当に遅刻するから!」


 叫び声が耳に響く。

 同時、頭がガクン!となって、後頭部がベッドに打ち付けられる。枕が引き抜かれたのだと、すぐに分かった。

 おかげで、一瞬で目は覚めた。眩しくて目は開けられないけど、こんな起こし方をしてくる知り合いは1人しかいない。


六花りっか、頼むからもう少し優しく起こせない?」

「残念。あたしは貴人みたいに、祐介に甘々じゃないから」


 やっと重いまぶたを開けると、想像通り目の前には、幼馴染である橋詰六花はしづめりっかの顔があった。


 ツンとした感じの吊り目と不機嫌そうに見える表情はいつも通り。

 覗き込むような体勢の彼女の長いポニーテールが、目の前まで垂れ下がってきている。生まれつき明るい色の六花の髪の毛の先からは、シャンプーの甘い香りがした。


「いま何時?」

「あと1分で、デッドラインを越えます」

「まじか」


 六花の言葉で勢いよく上体を起こす。

 デッドラインは、その時間に家を出ないと遅刻をするボーダーラインだ。ギリギリになるのはいつも通りだけど、それにしても寝坊のしすぎだった。


「じゃ、家の前で待ってるから5分以内ね」

「3分で行く」


 言いながら、ベッドから飛び起きて寝巻きを脱ぐ。


「ちょっ、まだあたしが部屋にいるから……!」


 六花は怒って赤面しながら、慌てて部屋を出て行った。

 寝巻きは床に脱ぎ捨てて、適当にハンガーにかけておいた制服へ着替える。夏服は支度の時間が短縮できていい。

 着替えを終えて鏡の前に立つ。ボサボサの乱れた髪と死んだような目をした男がそこには写っていた。

 ペラペラのカバンを背負ったら、部屋を出て隣のドアにノックする。返事がないのは分かっているけど、ノックをせずに入ることには抵抗があった。

 ドアを開けて中に入ると、昨日と変わらない様子の部屋が出迎える。ドアのすぐ左手に置かれたシングルベッドには、静かに眠り続ける彼女がいた。


「おはよう、沙莉さり


 そう声をかけても反応はない。

 なにもいつもと変わらない。ベッドの上ですやすやと穏やかに眠っているのを確認してから、「行ってきます」と続けて、俺は家を出た。


 玄関を出ると、もう1人の幼馴染である中原貴人なかはらたかとも六花と一緒に待っていた。

 ヘラヘラとした笑みを浮かべていた貴人は、目が合うなり、細い目を大きく開いて、パッと顔を輝かせる。


「お、やっと来たな! 具合でも悪かったのか?」

「ごめん、寝坊した」

「はいはい、しゃべるのは後! 時間ないんだから」


 六花に促されて、俺たちは中学校を目指して走り出す。

 あと10分もすれば担任が教室に来て、そこに間に合わなければ遅刻扱いになってしまう。

 遅刻になったところで教師からの印象が悪くなるだけだけど、可能な限り面倒事は避けておきたい。

 学校までは普通に歩けば20分近くがかかる距離だが、このまま走り続ければどうにか間に合いそうだ。


(こんな暑い中走るハメになるなら、ちゃんと早く起きれば良かった)


 鳥の鳴き声をBGMにしながら、田んぼと平屋ばかりの田舎道を六花と貴人と黙々と走る。いよいよ本格的な夏を迎えた季節の中で走るのは、まさに地獄のようだ。


 だけど、なんで今日に限ってこんなに寝坊をしたんだ?

 なにかが引っ掛かっている。走りながら、ぼうっと考えてみる。


(そうだ、なにか夢を見ていた気がする。夢の中で俺は――)


「もう無理だあぁあ〜〜!」


 なにかを思い出しかけた瞬間、貴人の悲鳴のような叫び声が聞こえた。

 振り向くと、貴人はヘロヘロになっていて、ついに膝に手を当てて足を止めてしまった。


「もう。時間ギリギリなの分かってる?」


 六花も足を止めると、ため息混じりに言った。

 貴人の体力がなさすぎるにしろ、六花はこれだけ走っても息ひとつ乱れていなかった。


「わかってるけどさ、こんな暑い中走ったら普通に死ぬぜ?」

「たしかに、教室に着く頃には汗臭くなるかもだけど……」


 六花は制服のセーラー服の裾をパタパタとさせながら、チラと俺を見た。


「悪い。そもそも俺が寝坊したせいなのに」


 謝ると、六花と貴人は2人同時に慌て出した。


「待ってよ。貴人のバカが遅いだけだし、これくらいの暑さ、あたしは全然走れるから」

「俺だって、祐介のせいで遅刻したなんてのことになるなら、ゲロ吐きながらでも走るぜ……!」

「いや、遅刻になるよりそっちのが迷惑なんだけど」


 なんて。

 俺たち3人の、いつものくだらないやり取りだ。ふと、このやり取りを見ている男がいることに気づいた。

 まっすぐ続く一本道の先で、家と家の隙間に立って、じっと俺たちの方を見つめている。


(なんだ? あいつ)


 歳は20代の後半くらいか。ミリタリー系の服装は、工場の作業着に見えないこともないが、なんとなくそんなタイプではなさそうだ。

 男は感情の読めない目で、ただ俺たちの観察を続けている。


「あんなヤツ、この近所にいたっけ」


 俺の視線の先に六花も気づいたみたいだ。


「さあ、見覚えはないけど」


 市町村の分類でいえば、一応”町”にはあたるこの街だけど、外から入ってくる人は多くない。特に若い人間の少ないこの街で、この男の存在は明らかに浮いていた。


「なんか、不思議な感じの人だな」

「貴人がうるさいから怒ってるんじゃない?」

「あ、いなくなった」


 一瞬、六花の方を見ている間に、その男はいなくなっていた。

 ”不思議な感じ”なんて曖昧な言葉になってしまったけど、改めて思い返してみてもそれ以外に表現が見つからない。

 それくらいに、なんとなく変な感じがした。


「俺は、俺は……」


 突然、貴人がぶつぶつとつぶやき始める。

 と、


「絶対走りきってみせるからなぁああ!!」


 叫んで、全力で走り出した。

 ペース配分もない、全力のダッシュだ。


「出た、バカ貴人。バカトだ」


 六花が呆れたようにため息を吐いた。

 ただでさえ体力がない貴人のことだ。どうせすぐに力尽きる。小走りで追いかけようとする六花に、俺も続こうとした。

 その時だった。


 ゴーー!!


 どこからか、音が聞こえてくる。

 まるで、車の音が軽くなったみたいな不思議な音。音はどんどん大きくなって、明らかに近づいているのが分かる。

 周囲を見回してみると、すぐにその正体に気づいた。


「な……っ!」


 俺の立っている場所は交差点になっていて、右手側は急勾配の上り坂につながっている。その坂の上の方から、大きなキャスター付きトランクが勢いよく滑り落ちてきていた。

 坂の途中に、遮るものはなにもない。トランクはキャスターを滑車のようにして、一直線に俺の方へ滑り落ちて来る。

 とっさに、避けようとして横へ飛びのく。

 それと同時に、キャスターが地面のくぼみに引っかかった。進路が変わって、今度は俺が避けた先に一直線に向かってきた。

 それを見てもう一度避ける。と、今度は地面の転がる石が引っかかって、トランクはまたしても直撃コースに変わる。


「嘘だろ…!!??」


(どうする? もう一度避けるか、いっそ受け止めるか――?)


 判断に迷った、その時だった。


「避けて、ください~~……!!」


 坂の上から、女の子の声がした。

 顔を上げるとすぐにその声の主は分かった。


 そこにいたのは、神秘的な空気と儚さをまとった女の子だった。

 半袖のブラウスから伸びる真っ白な腕と、肩の先まで伸びた柔らかな黒髪。幼い印象を与える大きな後頭部のリボン。そして、小動物を思わせる小柄な体格。

 瞬間、全部を思い出した。


(ああ、そうだ……)


 どうして普段よりも寝坊をしてしまったのか。その理由と、夢の中で出会った女の子の姿を。


(今朝の俺の夢に出ていたのは――!)


 ゴッ!!

 凄まじい衝撃がお腹に走る。


「ぶっ!」


 女の子に気を取られた俺は、滑り落ちてきたトランクにぶつかって、勢いのままに吹き飛ばされていた。

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