第2話
娘が部屋を出て数時間が経過。残念ながら昼ご飯の肉じゃがは無し。あれから娘は自室で引きこもったまま。
窓から差し込む夕陽がこんなにも寂しく感じたのは初めてだ。そっとカーテンを閉め、私は布団の中に潜り込む。
「何が正解だったの……?」
どこにもいない誰かにそう問い掛ける。立派な母親なのに子どもみたいに頭を悩ます。
私の頬をビンタした時。娘の怒りとも悲しみとも取れるあの表情が頭から離れない。いつも誰彼構わず全てを憎むような表情を向ける彼女が初めて見せた一面だった。目を閉じても瞼の裏に浮かぶのは娘の顔ばかりだ。
「——ママ、起きてる?」
扉の方を見ると気まずそうに片腕を抑え、横目でこちらに視線を向ける娘がいた。
「起きてるよ」
私は布団から顔を出し、ニッコリ微笑む。あんなことがあった後なのにまだ平静を装う。これは娘を安心させるための“ウソ”でもあり、自分の心情を悟られないようにするための“見栄”でもある。
娘はベッドの近くにあった椅子に腰を掛け、ゆっくり深呼吸する。
「首の傷はどう?」
「多分、擦り傷程度だから安心して」
「見せて」
娘は椅子から立ち上がり、私の首元に顔を近づける。
「確かに傷は浅いけど、このまま放置してたらばい菌が入っちゃう。救急箱持ってくるわ」
娘は台所付近にあった救急箱を持って来て、手際よく傷口を手当てする。
「チクっとしない? 大丈夫?」
「う、うん……。全然大丈夫」
ふと、私が娘の傷口を手当てしていたあの頃を思い出す。小学生の頃の娘は今よりもっとヤンチャでよく足や腕を傷だらけにして、家に帰ってきた。そのせいで消毒液と絆創膏がいつも枯渇していた。
それが今や私の方が傷口を手当てしてもらう立場になるとは。全く年月が経つのが早い。
「はい、消毒終わり。楽にしていいよ」
娘は救急箱を元あった場所に戻し、ベッドから少し離れた椅子に腰を掛ける。親子との間に沈黙が流れる。お互い、バツが悪そうに目を泳がせる。一向に視線を合わせようとしない。何かしながらじゃないとまともに喋れない雰囲気だ。
「——さっきはゴメン」
「え?」
沈黙を破ったのは娘だった。それも私への短い謝罪だった。俯き加減で所在なさげに手を遊ばせる。
「ビンタしたのは悪いと思ってるし、「恩を仇で返す気?」とか「大っ嫌い」とか本心じゃないことも熱くなって口走っちゃった。ホント、ゴメン」
反抗期の娘にしては珍しく深々と頭を下げる。娘の畏まった態度に私は少し戸惑う。
「ウチはママに恩を売るつもりで介護してないし、嫌いとも思ってない。むしろ、ママはのことは大す——」
そこで娘はハッと顔を上げ、口元を両手で抑える。何か言おうとしたみたいだが、照れくさそうに顔を背け、言い淀む。
「私こそゴメン。見苦しい所を見せちゃって」
今回は娘ではなく私がちゃんと謝らなければいけない立場だ。娘と同様に頭を下げ、謝罪の言葉を述べる。
「ママ、何も分かってないくせに頭なんか下げないで」
娘が言い放ったその言葉に私は思わず頭を上げる。視界に映るのは憤りが籠った娘の瞳だ。
「ママ自体は嫌いじゃないけど、ママのそういうとこはやっぱ嫌い。てか、許せない‼」
娘は自分が座っていた椅子を乱暴に蹴り飛ばし、私の元へ詰め寄る。
「ママは昔から噓つき。いつも見栄張ってウチに本心を見せようとしない。嬉しいことがあっても楽しいことがあっても——辛いことがあっても苦しいことがあっても——ずっと同じ笑顔を見せてくる。ハッキリ言って気味が悪い‼」
娘は嫌悪感をたっぷり滲ませた表情で私に怒りをぶつける。彼女の気迫ある声は部屋を反響させ、ベッドを軋ませる。
「ウチが嫌われるような態度を取るようになってからもママは変わらず、気味の悪い笑顔を取り繕う。一応、口では注意するけど全然、感情が籠ってない。ウチがどんなに悪いことをしても、ママは本気でウチを𠮟ってくれない——。それがずっとずっと気持ち悪くて怖かった」
娘の怒りは収まることなく私の両肩を強く掴み、声を荒げる。ここまで取り乱した娘は今まで見たことがない。私は娘のただならぬ威勢に気圧される。
「仕事で疲れてんのに、全然ウチに弱音吐いてくれない。もちろん、不良で反抗期の娘に愚痴った所で何も解決しないのは分かってる。でも、「しんどい」とか「辛い」とか何か一言でも言ってくれれば、少しでも未来は変われたかもしれない。ウチだって変われたかもしれない。だけど、だけど——」
娘の目頭が赤く染まり、涙がとめどなく流れる。年甲斐もなく鼻水を垂らして泣きじゃくる。
「ママが我慢したせいで——、ママが噓つきなせいで足が無くなって、首に傷ができちゃった。こんなのあんまりだよ。どんなけ自分だけ傷つければ気が済むのよ‼」
「ゴメン」
「ちがう。ウチが聞きたいのは、ゴメンじゃないの‼」
私の両肩から手を離し、今度は私の頭を優しく撫でて抱き寄せる。
「もう一人で思い悩むのは止めて。ウチにちゃんと相談して。勝手に死のうとしないで‼」
「うん」
「どうせ、娘のために死のうとしたんでしょうけど、それは大きな勘違いだから」
「うん」
「ママが死んでも、ウチは楽になれない。ただただ悲しくて辛いだけ。お互い不幸にしかならない。大人ならそれぐらい分かってよ‼」
「うん」
「もっと自分に、娘に、素直になって——」
「うん」
「お願いだからこれ以上、ウチを心配させないで」
「うん」
まさか娘に説教される日が来るとは思わなかった。私はひたすら頷くことしか出来ない。
私は何でも一人で抱えすぎた。過労で眩暈を起こし、駅のホームに落っこちて、電車に轢かれ、足が切断され、娘に世話され、自殺しようとして、悲しまれ、怒られて——。娘に心配かけまいと虚勢を張り続けた結果がこの様だ。これでは笑おうにも笑えない。
私は娘の腰に手を回し、強く抱き締める。
「私は常に貴方のことを一番に考え、愛してきたつもりだったけど、全然違ったみたい。結局は自分のことしか考えてなかった。我が身可愛さに全て自分のせいにして勝手に楽しようとしてた。ホント、母親として失格よね」
「うん。マジで母親としてダサい。しっかりしてよね‼」
「はい」
窓から差し込む夕陽がなんだか心地良い。本当の意味で親子になれた私たちを明るく照らしてくれる。
「ウチは昔も今もママのことが大好き。たった一人しかいない家族として心の底から愛してる」
「なによ、急にらしくないこと言って。恥ずかしい~」
「ウチだってちょー恥ずかしいし‼ やっば、顔暑っ⁉」
「フフッ。顔真っ赤で可愛い~」
「可愛い言うな」
「ほれほれ〜」
「ほ、頬っぺたつつくな。やっぱママのこと嫌い!!」
「あら、もう嫌われちゃった」
「もぉ!! ママのいじわる……」
私たちは初めて素で笑い合う。私も娘も瞼がパンパンに腫れ上がり、大変なことになっている。これは当分、人様に見せられないな。
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