第二十九話 かごめかごめ

 先日行われていた夏祭りでは、サンズマッスルの理事長と太満がフリフリポテトの出店を出していて、そこでシニアプレーヤーのセッカとスザクについて裏で何かやっているのではないかと疑っている会話があった。

 セッカという男は、セミの鳴く桜並木で口からプラズマを無尽蔵むじんぞうき散らかして明智光成あけちみつなりを追いめた男のことで、スザクという女は、理事長の自宅プールでメロンズ教授に日傘ひがさの日本刀をきつけた、血の気の多い緑色の夏着物を着た女のことである。

 この二人はサンズマッスルに所属するシニアプレーヤーであったものの、太満のいう通り何か裏がありそうなところがあって、そこで今回は、二人のうちのスザク、つまり珠切朱雀たまきりすざくにクローズアップした話をしておこうかと思う。


 この日、珠切朱雀はサンズマッスルにかくれて単独行動をとっていた。遠くはなれた観光地で、数日間ホテルにまっていたのである。

 ホテルの部屋で荷物をほとんどしまい終えた朱雀は、化粧台けしょうだいの前に座り、まだ鏡の前に置いてあった写真立てをぼんやりとながめていた。

 その古ぼけた寄木細工の写真立てには、色褪いろあせた写真が一枚おさめられており、そこに一人の男性が写っていた。被写体ひしゃたいとなっている男性の髪型かみがたや服装がだいぶ古臭ふるくさく感じられるのに対して、その年齢ねんれいはかなり若々しいように見える。つまり、この写真が撮影さつえいされたのはずいぶんと昔のことであって、被写体の若者も、現在では相応の年齢ねんれいになっているであろうことが想像されるのであった。

 この写真は海辺の高台からったものなのか、くもった空を背景にして海や港町が写っており、少しはなれた小島には赤い灯台が一本立っているのが見える。小さな島に赤い灯台の立つロケーションというものはとりわけ特徴的とくちょうてきにも見え、そこはちょっとした観光地のようでもあった。

 朱雀すざくは写真に写った男性と鏡に映った自分を見比べながら、しばし昔のことを思い出しているようだった。


「あのころ、あなたはずいぶんと若くてとがっていたけれど、今はだいぶ角がとれて丸くなってしまったようね。それなのにおれといえば、どうして好きでもないのにあの頃と同じままなのかしら。可笑おかしいでしょう?」


 そこはかつてリゾート施設しせつとして栄えたホテルだった。しかし、今はその面影おもかげもなく、施設の大きさに対して宿泊客しゅくはくきゃくもまばらというありさまで、来年の三月にはその営業を終えることが決まっているのだとか。外国の資本が安く買いたたこうとしているそうであるが、今のところ交渉こうしょうはうまくいっていないとのことで、営業を終えたその後、このホテルがどうなるのかは未だ決まっていないのだった。

 なぜ朱雀すざくはサンズマッスルにかくれてこんなホテルにまっているのだろうか。実は、彼女かのじょは若いころにこのホテルに泊まったことがあったのである。この寄木細工の写真立ては、写真に写った男とこのホテルに泊まった時に二人で選んだお土産で、写真もその時にったものなのだ。しばしこの写真をながめた彼女は、鏡に映った自分の顔に目を移すと、何か大切なものを書き留めておこうとするかのように化粧けしょうを始めたのだった。

 朱雀はこの仕事が終わったらこの国にいられなくなるか、あるいは死んでいるかのどちらかであろうと予感していた。そして、ゆっくりと口紅をって仕上げを確認すると、満足して化粧道具と写真立てをキャリーケースにしまいんだのだった。


 着物に着替きがえた朱雀は客室を出て一階ロビーへと降りていった。背中には大きなつるえがかれていて、その足元にかめの姿もある派手な緑色の夏着物であった。

 フロントでチェックアウトをし、キャリーケースを宅配便で送るために所定の用紙に記入を終えたところで、彼女はふとり返り、ロビーを眺めた。

 平日ということもあって他に客などいない。場内に流れていた音楽は地元の祭りばやしだろうか、にぎわいを出そうとしてかえってわびしさを際立たせていた。向かって正面のおくにはガラス張りのカフェがあって、外からの光に照らされて明るかったのだが、その右手奥にある土産物売場は、照明もついておらず薄暗くて、閉店が決まっているものだから売れ残ったものだけが閑散と置かれているだけなのだった。

 あの寄木細工の写真立てを買ったのはこの土産物売り場だった。

 そのころ、このホテルは今とちがって賑わっていた。宿泊客しゅくはくきゃくの大部分は家族連れで、カップルの姿もちらほらあったかもしれないが、そこかしこで聞こえてきたのは子どもたちのはしゃぐ声や笑い声ばかりであった。あの時もひょっとしたら場内に祭りばやしが流れていたかもしれないが、朱雀が覚えていたのは元気な子どもたちの声ばかりだった。

 朱雀はあの時のことを今でもはっきりと覚えている。あの土産物売り場で品物を見ていたところで、おそろいの服を着た女の子が二人寄ってきて、突然とつぜん、「お姉さんたち付き合ってるの?」と聞かれたことを。朱雀はおどろいてしまって、あの人と目を合わせて笑いだしてしまったのだが、あの人は笑いながらやさしく、「そうだよ」と女の子に答えていたのだ。そう。あの人は「そうだよ」と答えていた。


 アキラ。あなたは覚えてる? このホテルが廃業はいぎょうするって聞いてから、おれは別れをしみにここを一人で訪れたのよ?


 アキラというのは写真に写っていた男性のことである。

 不意にフロントの女の声がして、ハッとした朱雀すざく突然とつぜん現実にもどされた。

「それではこのお荷物はお預かりしますね」

 フロントの女は閑散かんさんとしたホテルには似つかわしくないほどの愛想笑いでいった。

「ああ。お願いするわ」

 朱雀とこの従業員は同年代くらいだろうか。この女もホテルの営業が終われば、その時には職を失うのであろうと朱雀はぼんやりと思った。

「ところで、あそこのカフェは営業してるの?」

「あ、ええ。ご利用ですか?」

「そうね。時間があるから少し休ませてもらおうかしら」

「そうでしたら、カフェのお席で少々お待ちいただけますか?」

 チェックアウトと荷物の手配を済ませた朱雀は、荷物をフロントの女にまかせ、日傘ひがさだけを持ってロビーを歩き出した。カフェに入ってみると右手にカウンターがあって、そのおく厨房ちゅうぼうになっている。しかし、そこに店員の姿はない。怪訝けげんに思った朱雀がフロントの方へり返ったところ、先ほどの女が小走りでこちらに向かって来るところだった。女はカフェの店員を呼びに行くのだろうか、ニコニコと愛想笑いをかべながら「どうぞ、おかけになってお待ち下さい」といって、厨房ちゅうぼうおくへいそいそと消えていった。


 カフェの中には四人席がいくつもあって、客などいないから朱雀すざくはその中の窓際の席に座った。この日もよく晴れており、窓の外からのぞむ洋風庭園は、手入れもされておらず干からびたように直射日光を浴びていた。コンクリートのはげかけた水の出ない噴水ふんすいがあって、小鳥が何羽かとまったかと思うと、水を飲んでまた飛んで行った。

「いらっしゃいませ。ご注文おうかがいしましょうか」

 朱雀がり返って店員の姿を見ると、先ほどフロントにいたあの女が、満面に笑みをかべて立っていたのだった。しかも、エプロン姿になっていたのだから驚きである。ついさっきカウンター奥の厨房に消えていったのは店員を呼びに行ったのではなく、エプロンを着るためだったのだ。エプロンに着替きがえ、どんなにニコニコ笑顔でごまかそうとも同一人物であることは明らかだった。

 カフェ担当の店員などいないのである。この女はホテルのフロント係だけでなく、まさかのカフェ店員までワンオペでやっていたのだ。しかもこの笑顔で。これには朱雀も可笑しくなってしまった。

 フロントけんカフェ店員の女は、ホテルの最盛期からこの笑顔で仕事をしていたのだろう。ホテルマンとしてのほこりであろうか、フロント係の時とは違ってわざわざエプロンをつけてくるところなど細かい業務上のこだわりのようでもある。ホテルがすっかりさびれ果ててしまってもなお、誇りを忘れぬこの女の健気けなげさに、同世代ということもあってか、朱雀すざくの心の中にここ何十年も忘れていたような、自分にこんな気持ちがあるだなんてついさっきまで想像すらできなかった、見下しているようで失礼かもしれないが、同情というか、憐憫れんびんというか、相手を思いやる、温かくてとてもやさしい気持ちが芽生えるのを感じた。

「ああ……、ごめんなさい」

 朱雀はあわててテーブルの上にあるメニューを見た。

「そうね。アイスコーヒーにしようかしら」

 ホットコーヒーとかアイスコーヒーとか、紅茶、コーラ、ジンジャーエール、そんなものしかなかった。それでもなおとっさにアイスコーヒーを選んだのである。

「アイスコーヒーですね。少々お待ち下さい」

 女がにこやかにそういって去って行くと、朱雀はその後ろ姿を、カウンターのおくで見えなくなるまで見送った。


 アキラ……。覚えてる? あなただったら知ってるわよね? おれにだってこんなやさしい気持ちがあったってことを。あなたしか知らないわ。俺にこんなやさしい気持ちがあったなんてこと。


 朱雀すざくは目を閉じてアキラの姿を思いかべた。

 あの笑顔。土産物売り場で女の子から「付き合ってるの?」って聞かれた時、あなたはやさしく笑った。覚えてる? 俺は覚えてるわ。あなたは笑ったのよ? あの笑顔が、俺をつらぬいたあの笑顔が、あの時のまま、まるで目の前にいるかのように思い出されるのよ? いいとしした女が可笑おかしいでしょう? あなたが笑った時の目元や口元、鼻先だけでなく耳も髪の毛も、体の温もりやにおい、俺より高かった身長や体重、足の長さと腕の長さ、手の大きさや指先まで、それだけじゃない、あなたが気に入ってたシャツやズボン、ベルトやくつうで時計にいたるまで、しゃべり方や声色、あなたの考えそうなことやいいそうなことのすべて、あなたそのものが、あなたの存在自体が思い出せるの。

 あなたとの別れをしむために俺はここへもどってきたのよ? あなたはどこで何をしているのかしら。あなたにヒマなんてないことは知ってる。あなたは有名人でいそがしいものね? あなたがここへ来るわけなんてない。そんなことはわかってる。けれども、それでももしあなたがここに来てくれたら、どんなにおれはうれしいか……。


「失礼。この席に座ってもいいかな?」


 突然とつぜん男の声がして、朱雀すざく小娘こむすめのようにおどろいてしまった。まるで心臓がドキンと飛び出してしまったかのようである。

 まさか! そんなまさか!

 アキラ……、あなたなの?

 朱雀がおそる恐る目を開いてみると、そこに見えたのは朱雀が待ち望んでいたアキラの姿ではなく、メロンのようながらのスーツを着た男だった。

 らしくないほど驚愕きょうがくした朱雀はとっさに左手で日傘ひがさにぎりしめた。それを見たメロンズ教授は、侮蔑ぶべつの眼差しを朱雀に向けたまま鼻でフンと笑うのだった。

「ここに座っていいかと聞いているのだよ」

 朱雀は瞬時しゅんじに考えた。この男を切り捨てれば、あのフロントけんカフェ店員も切らねばならぬと。いつもだったらそうしていた。だが、この時はそれができなかった。

「何? なんの用?」

「一つ用事があるのだ。貴様が拒否きょひしようが座らせてもらうよ」

 メロンズ教授が朱雀すざくの返事も待たず前の座席に座ったところで、エプロンをつけたカフェ店員がニコニコ笑顔でやってきた。朱雀が注文したアイスコーヒーとお冷を一つ持ってきたのである。

「お待たせいたしました。ご注文のアイスコーヒーでございます」

 そして、朱雀の前にアイスコーヒーを置くと、メロンズの前にお冷を置いて、朱雀に対するのと同じニコニコ笑顔でこういった。

「ご注文なさいますか?」

「そうだな。冷たいものがいい。何がある?」

「こちらがメニューとなっています」

 エプロンの店員がそういってテーブルの上にあるメニューを指し示すと、朱雀が割って入った。

「あなたの口に合うものなんてないわよ」

「ほう。私のことを知ったような口をきくじゃないか」

 メロンズはチラッとだけメニューを見た。

「ふん。ちょっと考えさせてくれ。また声をかけよう」

「ありがとうございます。それではごゆっくりどうぞ」

 エプロンの店員はニコニコ笑顔のままお辞儀じぎすると、カウンターの方へもどっていった。

「なんでこんなところにあんたがいるのよ」

「私の友人がこのホテルを買いたがっていてな。どんなホテルなのか見てみたいと思っていたのだよ。まあ、大したホテルではなさそうだがな。身のほどをわきまえぬオーナーが高値でふっかけているそうだ。こんなホテル、買い取る者などあるまい。じきに安く買いたたかれるほかなくなるだろう。だが、用件はそれではない。貴様に用があってわざわざ来たのだ」

おれに? よくここにいるってわかったわね」

「ふん。比留守ひるすとかいう小僧こぞう追跡ついせきはまくことができたかもしれんが、私をあまく見ないことだな。貴様の所在など簡単につかめるのだよ」

 朱雀すざくはこの男を殺すと決心した。しかし、このホテルを出た後だ。あの店員は殺せぬ。

「そう。たいそうヒマなようね?」

「私にそういう態度をとれるのも今のうちだ」

 そういうとメロンズ教授はふんぞり返ってあしを組んだ。

今般こんぱん、貴国の経済発展にはめざましいものがある。だが、我々の人脈がおよんでいないことは貴様も知っているだろう。貴国は今まで大した価値もない国であったからな。我々の卒業生などいない。そこで一つ、我々も人脈を作りたいと考え始めているのだよ」

「貴国? どこの国の話かしら? 俺は日本人なのよ?」

「ふん。貴様のクライアントのことだ」

 この男はいったいなんの話をしているのだろうか。仮にも朱雀すざくはサンズマッスルのシニアプレーヤーである。それが急に外国の話をし始めたかと思うと、クライアントであるとか意味の通じぬことをいい出したのだ。ちなみにクライアントというのは依頼人いらいにん顧客こきゃく、取引先などのことをいう。

 しかし、朱雀には通じているようだった。なぜなら彼女かのじょは否定もせず、じっとだまってメロンズ教授を探るように見つめ続けたのだから。

「貴様のクライアントに私が会いたがっていることを伝えてもらいたい」

 朱雀は何も答えなかった。

沈黙ちんもく了解りょうかいととらえさせてもらうよ? おや? 曲がかわったようだな」

 先ほどまで流れていた祭りばやしが急に途切とぎれて、別の曲に切りわった。これは注意深くBGMをいていればその不自然さに気づいたであろうが、特段大音量でもなく、店内の曲が途中とちゅうで止まって切り替わることなどめずらしいことでもないから、普通ふつうは聞き流していたであろう程度の出来事だ。それが急にメロンズ教授が反応したのである。

 メロンズ教授は注意深くその曲を聴き始めた。しかし、短い曲であったからかすぐに終わってしまって、またあの祭りばやしが流れ始めたのだった。

「今の曲はどういう曲だ? 歌のようだったが、外国人の私にもわかるように教えてもらえないだろうか?」

 こう聞かれた朱雀はおどろきの目でメロンズを見つめていた。

「ふん、異邦人いほうじんが訪問先の国で流れている歌について聞いているのだ。親切に教えてくれてもいいと思うがね? それとも何か? 日本人は外国人を差別して教えられないとでもいうのか?」

 朱雀すざくは疑り深くするどい目でメロンズ教授をにらみ続けた。そして、一言だけ答えたのである。

「かごめかごめ」

「かごめかごめ? 何だねそれは?」

「日本人だったらだれもが知ってる童謡どうようよ」

「童謡? ほう。それで、歌詞はどんな内容なのだ?」

「なんで歌詞なんか知りたがるのよ」

「実にエキゾチックなメロディーだった。それを聞いた外国人が歌詞に興味を持っても不思議ではないと思うがね?」

 朱雀はしばらくの間│日傘ひがさにぎりしめてメロンズをにらみ続けていたが、ため息をついて見せると歌詞をいい始めた。

「かごめかごめ……」

 「かごめ」とは、一説では漢字で「籠女」と書き、妊娠にんしんした女を表すのではないかという解釈がある。

 この俗説ぞくせつを思い出した朱雀は自分の身の上をあらためて思い出した。まったくもって不幸な出来事であったのだが、朱雀はこのホテルにまった後に、身籠みごもって、流産していたのである。

「かごのなかのとりは いついつでやる」

 アキラを忘れられぬ朱雀すざくは、まるでかごに閉じ込められているかのようでもあった。そんな彼女かのじょは、何時、何時、出会う。あるいは、出遣でやる。つまり、何時になったら朱雀はアキラに出会えるのか、あるいは、アキラという籠から出られるのか、そううたっているかのようでもあるのだ。

「よあけのばんに つるとかめがすべった」

 夜明けというものは朝であって晩ではない。こんな矛盾むじゅんした時間帯などあるはずもないから、それはつまり何かのたとえであって、生まれた時と死ぬ時を指し示しているとも考えられる。朱雀は流産して命を落とした赤子のことを思い出した。あるいはあっという間に過ぎ去った、朱雀自身の人生のことであろうか。

 つるは千年、かめは万年生きるという。それらが滑るということは、一説では死を意味しているのだという。朱雀はこの仕事が終われば、自分はこの国にいられなくなるか、あるいは死んでいるかのどちらかであろうと考えていた。

「うしろのしょうめんだあれ」

 朱雀は正面に座るメロンズ教授の後方に目を移した。そこは壁面へきめんが鏡張りになっていて、メロンズ教授の背中越せなかごしに険しい表情の自分と目が合ったのだった。先ほど化粧けしょうをしたあの顔。まさか、あれは死化粧しにげしょうだったのではあるまいか。

「ふん。ずいぶんと抽象的ちゅうしょうてきな内容の歌だな。これはどう解釈かいしゃくしたものか」

 メロンズ教授は朱雀すざくを品定めするかのような視線を向けていった。

「『後ろの正面』が『だれ』かという点に着目すべきか? それとも『夜明けの晩』が指し示しているものであろうか?」

 こんなことをいって朱雀の反応をうかがっているようだった。

「貴様に聞いたところで本当のことはいわんだろうがな」

 本当のこと? メロンズ教授はこの歌の本当の意味を朱雀が知っているとでも考えているのだろうか。こんな古くからある童歌の歌詞など、長い時間をかけて人伝いで伝わっているうちに内容がかわっている可能性もあり、その意味などを考察したところで、この場でなぞが解けるはずもなかろう。実際、様々な解釈がされてはいるものの、本当の意味などわかっていないのだから。それなのに、この男はなぜこの歌詞の意味を気にするのだろうか。まさか本当に異国の童謡どうように関心を持ったわけでもあるまい。

「ふうむ。わからんな。外国人の私にはわからないことなのかもしれない。あきらめるべきか。いや、これは今まさに重要なことのはずだ!」

 この男は何をいっているのだろうか? しかし、この様子を見ている朱雀の表情はみるみる険しくなっていくのだった。ひょっとして、朱雀はこの歌について「何か」知っているのだろうか。彼女かのじょはアイスコーヒーに一口もつけず、わなわなとくちびるふるわせたかと思うと、日傘ひがさをワシづかみにして急に立ち上がった。

「失礼するわ。お代はあなたがはらっておいてちょうだい」

「ちょっと待て」

 メロンズが止めるのも聞かず朱雀すざくは歩き出した。

「ふん。貴様らの連絡れんらく手段など我々はすでに把握はあくしておるのだ! 私が今ここにいるということがどういうことなのか、貴様にはわかるだろう! そのことをゆめゆめ忘れぬことだ!」

 朱雀は一瞬いっしゅん足を止めたものの、そのまま何も答えずにカフェを出ていった。


 メロンズ教授は朱雀の後ろ姿を見送ると、カウンターにいる店員に向けて、こっちへ来いとアゴをしゃくって見せた。

「ご注文でしょうか?」

「一つ確認したいことがある。先ほどここで流れていた曲が突然とつぜん変わったであろう?」

「ああ、はい。あれはですね……、私もヘンだと思ったのですよ。あんな歌が流れることなんて今までありませんでしたから」

「あれはなんという歌だ」

「『通りゃんせ』です」

「『通りゃんせ』? 『かごめかごめ』ではないのだな?」

「ええ……。『かごめかごめ』ではありませんでしたね」

 女は質問の意図が読めず、戸惑とまどった表情をかべるほかなかった。

「やはりそうか。歌詞を教えてくれないか?」

「歌詞ですか? そうですね……、承知いたしました。下手な歌でございますが、失礼させていただきます……」

 要領の得ないままであったものの、女は単に歌詞を説明するのではなく、この見知らぬ男に、なんと、歌を歌ってみせたのだ! しかも、バイオリンやチェロのような、静寂せいじゃくの中によく通る歌声で!


 とおりゃんせえ とおりゃんせえ

 こおこはどおこの細道じゃあ

 天神 さまの細道じゃあ

 ちいっと通して下しゃんせえ

 ご用のないもの通しゃせぬ

 この子の七つのお祝いに

 お札を納めにまいります

 行きはよいよい 帰りはこわい

 こわいながらも とおりゃんせ

 とおりゃんせぇ……


 この女には歌の心得があるのにちがいない。実に美しい歌声であった。特に最後の「せぇ……」の部分では、その独特な抑揚よくようを効かせて消え入る様が見事としかいいようのないものだった。

 この歌声を聞いたメロンズ教授は深く考えこみ始めた。

「なるほど。『かごめ かごめ』と『通りゃんせ 通りゃんせ』か。どちらも同じ節を二回繰り返していたから私はだまされてしまったようだな。『かごめ かごめ』の歌詞を聞いた時にはなんの見当もつかなかったが、この歌は読めたぞ。『行きはよいよい 帰りはこわい』という部分の意味がわかる。つまり、帰り道に気をつけろということだ。ということはつまり、私との接触せっしょくを望まなかった何者かが、このホテルから帰るあの女を消そうとしているのに違いない。サンズマッスルか? いや、ヤツらはあの女が今どこにいるか完全に見失っている。するとだれだ?」

 エプロン姿の店員は笑顔を取りつくろいつつも、戸惑とまどった目でメロンズ教授の様子をうかがっていた。しかし、メロンズは考えこんだままである。

「待てよ。ひょっとするとスザンヌか? ふうむ。今までのこと考えれば十分にあり得ることだ。忌々いまいましいことだが私の後をつけられていたのかもしれない。そうだとするとスザクとかいうあの女、生きて帰れまい。私としては我々のメッセージをきちんと持ち帰ってもらいたいのだがな。スザンヌめ。もし私の前に姿を現せば今度こそ必ず息の根を止めてやる。まあ、せいぜいあの女が無事に帰れることをいのることとしようか」

 メロンズ教授は考えるのをやめて店員の顔を見るとこういった。

「見事な歌であった。これはコーヒー代と歌の礼だ。受け取ってくれ」

 そして、一万円札をエプロンの店員に手渡てわたした。これを受け取った店員はニコニコ笑顔でこう答えた。

「ありがとうございます。おつりとレシートをお持ちしますので少々お待ち下さい」

「釣はいらんといったであろう。先ほどの歌は実に見事であった。これは君への敬意なのだよ。受け取りたまえ」

 メロンズ教授は立ち上がると、戸惑とまどった店員をよそにカフェの外に出ていってしまった。そして、エントランスへは向かわず、客室の方へ消えていったのである。(続く)

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