第二十六話 取調室の星たち

 突然とつぜんだが、北風と太陽という話はご存知だろうか。イソップ物語という寓話ぐうわの一つで、子どものころに絵本などで読んだことのある人も多いだろう。今さら説明する必要もないかもしれないが、今回の話のためにどういった内容なのか補足しておきたい。


 あるところに厚手の上着を着た旅人が歩いていて、それを見た北風と太陽は、どちらが旅人の上着をがせることができるか競おうじゃないかと張り合い始めたのが物語の始まりだった。

 ちなみに絵本などの挿絵さしえでは、北風にも太陽にも顔があって、キャラクター化されており言葉をしゃべる。太陽がキャラクター化されていることは説明がなくても容易に想像できるとしても、北風にも顔があって言葉をしゃべるということは、パッと聞いただけでは想像しにくかったかもしれず、念のため補足しておきたい。北風も人格を持った言葉をしゃべるキャラクターなのである。

 さて、北風は冷たい風をかせることが得意なので、かなり自信満々気味でこの挑戦ちょうせんに応じた。なぜなら、北風が強い風を吹かせば、旅人の上着など簡単に吹き飛ばせる見込みこみがあったからだ。

 そういうわけで、まずは北風が挑戦ちょうせんすることになったのだが、北風が冷たい風をかせ始めると、自負するだけあってそのおそるべき風力は容易に上着を吹き飛ばせるかに見えた。しかし、旅人は上着を飛ばされまいとして、前かがみになり、両手でしっかりと上着をつかんで歩くようになったのだ。これを見て北風はよりいっそう強く風を吹かせたのだが、風が強くなればなるほど旅人は上着を吹き飛ばされまいとして必死につかんで離さぬようになってしまったのである。そうしてとうとう北風は力尽ちからつきて、旅人の上着を吹き飛ばすことはできなかったのである。

 続いて太陽の出番になった。太陽の得意とすることは、あらためていうまでもないことであるが陽を照らすことである。昨今では、直射日光をけるために男性でも日傘ひがさを差すことが増えてきたが、直接日光にさらされるということは、日焼けをするだけでなくその表面温度を極端きょくたん上昇じょうしょうさせることでもあるのだ。皆様みなさまも真夏の日差しを経験したことがあるだろうが、それはもう暑くて暑くてたまらない。上着など着ていられたものではない。そう。上着など着ていられないのだ。太陽が全力で光り始めると、あたりの気温はみるみる上昇して、そこへ追い打ちをかけるように容赦ようしゃなく旅人へ直射日光を照らし続ける。すると、旅人はそのあまりの暑さに、なんと、自分から上着をいだのだ。つまり、北風があれほど力まかせに吹き飛ばそうとした旅人の上着を、太陽はいとも簡単に脱がせて見せたのである。こうして北風と太陽の争いは、太陽が勝利をかざって幕を閉じたのであった。


 この有名な寓話ぐうわは次のようにまとめることができるだろうか。つまり、北風が力ずくで上着をがせようとしたのに対し、太陽は旅人自らが上着を脱ぎたくなるように仕向けたのであると。これは他者に何らかの行動を起こさせようする場合、力ずくでやらせようとするよりも、自らそうしたくなるような状況じょうきょうにする方が、はるかに容易いという教訓なのだ。

 たとえば、子どもに勉強をさせようとした時に、おこったりしかったり、ゲームを取り上げてスマホを禁止にするなど、厳罰げんばつを与えるようなことはよく聞く話である。しかし、思い返していただきたいのだが、それで子どものやる気スイッチが入ったことがあっただろうか。おそらくそういったことはないだろう。くだんの旅人のように、怒れど叱れどかたくなに勉強などやらなかったのではないだろうか。そんな厳しい態度でのぞむよりも、むしろ子どもをほめたたえ、おだて上げた方がやる気スイッチも入りやすいというものなのである。知らんけど。


若流わかる君。君のいいたいことはわかった。それでは取引をしようじゃないか」

「なんですか急に。取引って何の話ですか?」

 うつむいていた若流が顔も上げずに答えた。

「取引ってのはだね、君にとって悪い話じゃない。司法取引って話は君も知ってるだろう?」

 司法取引とは、被疑者ひぎしゃが捜査へ協力するかわりに、その罪を軽くしたり起訴を取りやめにしたりする制度のことである。

 宮内先生の件で逮捕たいほされた若流わかるは、窓一つない取調室の中で憔悴しょうすいしきっていた。この美男子はどんな状態でもサマになる。そのたたずまいはなやましくもセクシーで、端正たんせいな顔立ちからは意図せずにメランコリックなフェロモンがかもし出されてしまうのだった。かれが憔悴していたのには、取り調べを受けていたこともあったが、この部屋の異様な雰囲気ふんいきにもあった。というのも、そこはまるでお化け屋敷やしきの一室のような暗い部屋で、何やらあやしげな照明でおぼろげに部屋の中が照らされているだけなのだから。

 この取調室は光合成人間用に作られた特注の取調室で、窓が一つもないだけでなく、光合成に必要となる光の一切を遮断しゃだんすることを目的とした設計になっていた。光合成というものは蛍光灯けいこうとうやLEDでも行うことができる。そのためこの部屋の照明には、光合成ができぬよう、いわゆるブラックライトが使われていたのだ。

 ブラックライトとは、人間の目には見えない紫外線しがいせんを出すライトのことをいう。紫外線は光合成に使われる光ではないため、ブラックライトだけで照らされた部屋では光合成をすることはできないのだ。しかし、そんな部屋では、光合成ができないだけでなく、暗闇くらやみで取り調べもできないのではと思われるかもしれないが、紫外線しがいせんに照らされることによってぼんやりと光りだす物質、すなわち蛍光けいこうする物質が、私たちの身の回りには思いのほかたくさんあって、意外にブラックライトだけでも周りのものが見えるのである。ただ、まるでお化け屋敷やしきにいるような異様な見え方になるのであるが。

 たとえば書類である。紙にはより白く見せるために蛍光物質が使われていることが多く、そういった紙であればブラックライトに照らされると紙自体がぼんやりと光って見える。紙だけではない。この部屋にある机や椅子いすなどの調度品もすべて蛍光物質で塗装とそうされており、暗闇の中であやしく蛍光しているのだった。

 美しい顔立ちの若流わかるは、そんな怪しい密室で取り調べを受けていたのである。


「司法取引だって?」

「ああ。これから君の身の上に何が起きるのか、私の説明を聞いて、実に聡明そうめいな君はよく理解できたはずだ。この話は決して悪い話じゃない。そう思うだろう?」

「司法取引に応じるかわりにおれ無罪放免むざいほうめんになるのか?」

「そうだ。まあ、今すぐってわけじゃないがな。具体的にはこうだ。君には今まで通り二重スパイをやってもらう。今までとちょいとばかりちがうのは、もう少しだね、具体的に探ってもらいたいことが増えるだけなんだ」

「具体的にだって? 何だそれは?」

「内容までは私も知らされていない。追って指示があるそうだ。君は本当に運が良かったよ。これから君がどうなるかはすでに説明した通りなんだからな。司法取引なんて話すらなく刑務所けいむしょ送りになっていただろう。そんなことになったら君にとっては大変な話だ。これは悪い話じゃない。そうだろう?」

「確かに。おれだって好きで二重スパイをやってたんじゃないんだ。それがなんでこんなことになっちまったんだよ。俺は何も悪くねえんだからもちろん取引には応じますよ」

 取調官はだまってうなずいた。暗闇くらやみの中で白いワイシャツがブラックライトに照らされて怪しく蛍光している。その他のもの、顔や手、上着といったものは蛍光けいこう物質ではないため、あたりの暗闇にほとんど同化していて見えない。まるで光るシャツを着た透明とうめい人間のようなのだ。その顔は蛍光するワイシャツの照り返しでぼんやりとライトアップされ、ホログラムのように顔の形がうっすらと見えるだけなのである。その様は、この男が異様にせているからなのか、まるでガイコツのように見えるのだった。

「よろしい。それではこの書類にサインしてもらえるかな?」

 ガイコツのような取調官が不気味に光る書類を差し出した。

「サイン? サインなんてするんですか?」

「もちろんだよ。これは我々と君との約束だからね」

「ちょっと待ってください。サインですか?」

 若流わかる暗闇くらやみの中であやしく蛍光けいこうする書面を見つめていった。

「そうだ」

「ええっとですね、この書面は司法取引に応じるかどうかだけの書面ですよね? 具体的におれが何をやらされるのか書いてないのに同意なんてできるわけないですよね?」

「なんだって? 君は今さっき司法取引に応じるっていったじゃないか」

「そうですけど、この書面には具体的なことは書いてないじゃないですか。実際に何をやらされんのかわからないんですよね」

「ああ、そうだけど……、はあ?」

 取調官にとってこの反応は予想外だった。北風のような厳しい取り調べの後に、太陽のような司法取引の話を切り出したのだ。追いめられた若流はこの話に飛びつくだろうと想定していたのである。しかし、これは一体どういったわけだろう。

 二重スパイをやっていることが判明した若流であったが、二重スパイとは名ばかりで、実は、この時にはすでにかれは完全なサンズマッスル側の人間になっていたのだ。つまり、若流は二重スパイをしているのではなく、単にサンズマッスルの者としてUOKうまるこwのスパイをしているという図式になっていたのである。そのため、司法取引がサンズマッスルにとって良からぬものになるのではないかと警戒けいかいしたのだった。

 なぜそんなことになってしまったのだろうか。普通ふつうに考えればUOKw側の人間でいた方がいいに決まっているではないか。サンズマッスルはあの理事長や太満ふとみつのような者が運営しているNPOなのである。しかも、ヤツらは若流わかるのスマホから極めて機微きびなプライベート情報をきたない手でき取るようなヤツらであった。それが若流にとって弱みになっているということは確かにあったのだが、その他にも、若流にはUOKw内での自分の評価に不満を持っていたということも一つあった。かれにはこれ以上出世できる見込みこみがなかったのである。なぜなら、彼にはATP能力がなかったのだから。


 突然とつぜんだがすっぱいブドウという話をご存知だろうか。この話もイソップ物語の一つなのでご存知の方も多いかもしれないが、なぜ若流がサンズマッスル側の人間になってしまったのか、それを理解する上でこの物語が大変な好例となるため説明をしておきたい。

 あるところに腹を空かせたキツネがいて、そのキツネがたくさん実っているブドウをたまたま見つけたところでこの物語が始まる。見たところ見事に実ったそのブドウは、腹の減ったキツネにはたまらぬものに見えた。食べたい。枝もたわわに実ったこのブドウをお腹いっぱいに食べてみたい。そう思えてならなかったキツネは、ジャンプしてブドウをもぎ取ろうとしたのだが、これがなかなか高いところにあって手が届かない。いや、キツネだから口で取ろうとしていたのかもしれなかったが。いずれにせよ、何度キツネがもぎ取ろうとジャンプしてもブドウに届かないのである。キツネは地団駄踏じたんだふんだ。贅沢ぜいたくに実ったブドウが目の前にあるというのに、なんとうらめしいことか。渾身こんしんの力をふりしぼってジャンプしてみるもその甲斐かいむなしく、空腹にダメしをするかのような徒労感だけを残して、それをあざ笑うかのようにブドウは高いところにあるままなのだ。キツネは腹を空かせていたとはいえどうやっても届かないので、ついにはブドウをあきらめざるをえなくなった。

「あのブドウはすっぱいにちがいない」

 キツネがこの有名な捨てゼリフをはいて、その場を立ち去ったところでこの物語は終わりをむかえたのだった。

 この負けしみをいうキツネの寓話ぐうわは、だれしも身に覚えのある一般的いっぱんてきな人間心理を表したもので、なかなか耳の痛い話であるが、次のようにまとめることができるだろうか。つまり、本当に欲しいものを力不足で取れなかったくせに、自分は欲しくなかったのだとウソをついて、自分のつまらぬプライドをたもったのであると。しかし、自分に対してはそういった言い訳で納得させることはできたとしても、はたから見ればそれは単に言い訳をしているに過ぎないのであって、自分を正当化するために良いものを悪くいうなどとたちの悪いところもあり、このようないははなはだみっともなく、誠に自戒じかいすべきものであると、この物語は教えているのであった。


 ATP能力がないゆえに出世することができず、UOKうまるこw内での評価に不満を持っていた若流わかるは、このキツネようにUOKwをすっぱいブドウと考えていたのである。

「けっ、どうせUOKwウアックウは体育会系で脳筋ばかりの組織だから、そもそも容姿端麗ようしたんれいでライフスタイルも洗練されたおれとはマッチングしてなかったんだよ」

 実際問題UOKwでの花形は、やはりATP能力保持者だった。この組織に所属しているからには、ATP能力保持者以上に出世することは事実上不可能だったのである。ベテラン隊員の太門だもん左衛門ざえもんもそうだった。太門の同期にはサザレさんがいたのだが、サザレさんがトップクラスに出世したのに対して、太門は結局のところ新人の教育係にとどまっていたのである。こういった先輩せんぱいたちの後ろ姿を見て、若流が自身の出世に限界を感じていたことも無理もないことであろう。

 新人の青柱せいちゅう正磨せいまがATP能力保持者であることを知った時には、心の底からねたましく思った。自分より出世することを約束されたヤツには、いやがらせをして出世の邪魔じゃまをしてやりたいと本心でそう思った。それほどまでにATP能力を持っているか持っていないかには大きなちがいがあったのである。

 サンズマッスルのスパイを命じられた時には、出世ルートから外されたのだと思った。自分など使い捨てで、組織にとって重要でない存在だからスパイなど命じられたのだと。

 想像してみてほしい。ATP能力もなく、UOKうまるこwでの出世にも限界が見えていた若流わかるが、スパイ先で光合成ウイルスに感染し、スマホからプライベート情報をき取られて弱みをにぎられてしまったのだ。すっぱいブドウのキツネのような言い訳の一つや二つで、自分を納得させる他なかったことも理解できぬことではないだろう。その上、UOKwの情報を流す若流はあの理事長から重宝され、待遇たいぐうもUOKwよりもよかったのである。

「けっ、どうせ司法取引なんかしたって、それが終わったらUOKwウアックウに居場所なんかなくなっちまうんだろ? サンズマッスルでは働けるんだし、給料だっていいんだ。司法取引なんて何の得にもならねえ。むしろサンズマッスルに捜査そうさのメスが入る方がおれにとって不都合なんじゃねえか」

 完全にサンズマッスル側の人間になっていた若流にとって、司法取引はサンズマッスルの不利益になり、引いては自分にとっても不利益になるのではないかと考えていたのだ。


 暗闇くらやみの中、ワイシャツが蛍光けいこうする取調官に向かって若流はいい放った。

「司法取引には応じられないですね」

「なんだって?」

 取調官の顔はまるでホログラムのガイコツのようであるから表情まで読み取ることはできない。しかし、その口調からは明らかにおどろきが読み取れた。

「お前正気か? 罪が帳消しになるんだぞ?」

「正気ですよ。冷静に考えていってるんです」

「いやいやちがう。違うでしょう。そうじゃないよね? 君は司法取引に応じたいはずだ」

「そんなことぜんぜんないですよ。さっきからいってますけど、正直いって何をやらされるのかわからないと、応じられないですよね。けっこうヤバそうなことをさせようとしてるんじゃないですか?」

 ジャケットから数センチほどはみ出たワイシャツのそでが動くのを見て、取調官が手を口元に運んだことがわかった。

「ふうん。ちょっと意外だったよ。君が司法取引にのってこないなんてね。君にとって悪い話じゃないはずなんだがな。それがどういうわけなのか、私にわかるように説明してくれないかな?」

「いや、おれだって普通ふつうに考えたら司法取引に応じた方がいいだろうってことはわかりますよ? だけど……」

 ここまでいいかけて若流わかるは考えた。

 質問ばかりしてくるヤツってのは、たいてい説明しても納得しない。何か答えても、それに対してさらに質問をしてくる。こういうヤツらは納得したくて質問をしているんじゃない。自分の要求を飲ませるために質問をしているんだ。説明をさせることによって矛盾むじゅん点や何かいいよどんだ点を探しているんだろう? だから次から次へと際限なく質問を続け、それらの説明の中に何か弱点のようなものを見つけたら、今度はそれを執拗しつよう質問攻しつもんぜめにして、相手にとって不都合になりそうな点や矛盾点を暴き出して話をくつがえそうとしているんだ。だけどよ、なんだってそんなことするんだ? コイツにとってはおれ刑務所送けいむしょおくりになろうが、司法取引に応じようが、どっちだって構わないはずだ。それなのに、なぜ司法取引に応じないことを覆そうとするんだ? 普通ふつうに考えておかしい話じないか。ひょっとしてこの取調官は、上からの命令で司法取引を取ってこないとならないのか?

 こう考えて、若流わかるも逆に質問攻めにしてやろうと考えた。

「説明する必要なんてないですよね。ひょっとして司法取引を取らないと、あんた、なんかマズいことでもあるんですか?」

 取調官は何も答えない。服がれる音がして、かれあしを組みかえたことだけがわかった。

「先に同意書へサインさせて、後は何でもやらせるつもりなんでしょう? 俺からしたらリスクしかないですよね」

 取調官は「リスク」という言葉に反応した。

「リスク? 私からすれば司法取引に応じない方がリスクのある選択せんたくだと思うがね。だって、そう思うのが普通ふつうじゃないか。司法取引にどういったリスクがあるというのかね? 私にわかるように説明してくれないか?」

 また説明させて矛盾むじゅん指摘してきする作戦かと若流わかるは思った。間違まちがいない。コイツは司法取引を取らなければならないのだ。

 おそらくだが、コイツらの目的はサンズマッスルの壊滅かいめつで、それでおれにスパイをさせてしようとしているのだ。俺が最初にスパイを命じられた時は、光合成法案への関与に裏がないか調べることだったが、今は一歩進んでいるのかもしらねえ。だまされるかよ。このままサンズマッスルの人間になった方が、俺は勝ち組になれそうなんだからな! サンズマッスルはもともと光合成人間の団体なんだ! たとえ俺が前科持ちになったとしてもなあ、テメェなんかよりも高給取りになって、いい暮らしができんだよ! オメェらみてえに人権の守られた普通の人間なんかとちがって、俺たち光合成人間には人生の選択肢せんたくしが少ねえんだよ! テメェらに何がわかんだ! 俺はこのチャンスを絶対にのがさねえからな!

 若流は決心した。

「その質問には答えません。この同意書にはサインできない、それだけっすよ」

「ほ、ほう。刑務所送けいむしょおくりになってもいいってことか?」

「そうっすよ」

 取調官は若干いいよどんだ返事を期待していたが、あまりにもあっさりときっぱりとした若流わかるの返事を聞いておどろいた。

「なんか、おれがサインしないと困ることでもあるんですか?」

「なんだって? 私に困るなんてことあるわけないじゃないか。あはは、君のためにいってるだけだよ。何をいい出すのかね?」

 言葉尻ことばじりからは動揺どうようが感じられるものの、暗闇くらやみの中でその顔はうっすらとガイコツのように見えるだけで、表情まで推し量ることはできない。

「このまま有罪になる方がリスクのあることだと考えるのが普通ふつうじゃないか。君はまだ若い。君のためにならないよ?」

「なんすかそれ。おどしですか?」

「脅し? あははは、私が脅すわけなんかないじゃないか。何をいってるんだね君? 普通ふつうに考えてだよ? この書類にサインした方が君のためだといってるだけだよ」

「いいや、俺はサインしません」

「ああ? 何いってんのかわかってんのか? 光合成人間ってだけで社会の不適合者なんだぞ? その上、前科持ちになろうってのか! それとも裁判で争って無罪を勝ち取ろうってつもりか? あまいな! 甘い!」

 見た目はガイコツだったとはいえ、これまで紳士的しんしてきっていた取調官の態度が急に変わった。まるでお化け屋敷やしきで人をおどろかすガイコツと、そのまんまなんらかわらぬ言動である。

「うははははは! 笑わせるなよ。いいか。テメェがサンズマッスルにたのんで優秀ゆうしゅうな弁護士をつけてもらったってなあ、テメェの犯した罪は罪なんだ。テメェには二重スパイをの疑いがかかってんだよ。だがなあ、これは疑いってだけじゃ済まされねえ!」

 暗闇くらやみの中で、口をきくシャレコウベは手のひらで発光する机をたたいた。

「テメェが罪を犯したことは間違まちがいないねえんだからなあ! そんなことを放っておく道理ってもんはねえんだよ! それをインチキな弁護士にひっくり返してもらおうってか? そんなのは正義じゃねえ! 絶対に許さんぞ! そんなものはお天道様が許さねえんだよ! おれたちは絶対にオメェを地獄じごくへ落としてやる!」

 若流わかるはドン引きした。なんだこの豹変ひょうへんのしかたは?

「なんだよ? 俺が司法取引に応じないのがそんなにかんにさわることなのか? お前にとってそんなに困ることなのかよ?」

「あっははははは! 何いってんだテメェ? 俺は困ってなんかねえよ! オメェには選択肢せんたくしはねえんだ! だまっておとなしくこれにサインすればいいんだよ!」

 そういって、同意書を手のひらでバンバンとたたいた。

 若流が司法取引に応じないことも奇妙きみょうだったが、取調官が司法取引にこだわることも奇妙だった。普通ふつうに考えれば、取調官にとっては若流わかるが起訴されても一向に構わないはずなのである。むしろ、その方が職責を全うしているといえるものではないだろうか。それがなぜ司法取引にこだわるのだろうか。やはり、この男は司法取引を取ってくることを、任務として命じられているのだろうか。

「テメェ、ひょっとして刑務所けいむしょから出てきてからもサンズマッスルが雇ってくれるとでも思ってんのか? 知ってるぞ! オメェがサンズマッスルからいくらもらってるのかもなあ! 確かにサンズマッスルが前科持ちの光合成人間だろうが就労支援しゅうろうしえんをやってることは知ってるよ? テメェら光合成人間は犯罪者ばっかだからなあ! けどなあ、それはテメェが刑務所から出てきてからもサンズマッスルがあればの話だよなあ? いってる意味わかるか? サンズマッスルがこれからもずっとあるだなんて思うなよ! うははははは!」

 ガイコツの男は勝ちほこって、相手を愚弄ぐろうするように高笑いした。

「な、なんだって?」

 若流はこれを聞いて動揺どうようした。確かに、若流はたとえ刑務所送りになってもサンズマッスルにはいられそうだと考えていた。だから司法取引に応じないのである。さらにサンズマッスルを売らなかったことで、恩を売ってのし上がってやろうとも考えていたのだ。

「おい、ちょっと待て? ということは、おれが司法取引に応じなくても、サンズマッスルを立件できるだけのネタを持ってるっていうのか?」

「あっははははは! 笑わせるんじゃない! お前もあの理事長のことは知っているだろう? ああいう男は、はたけばいくらでもホコリが出てくるというものなのだ! 逮捕たいほできるネタなどいくらでもあるのだよ!」

「なんだって? だとしたら、なんで俺に司法取引なんか持ちかけるんだよ? すでにネタを持ってるんだろう?」

 ガイコツの動きがピタリと止まった。

「さあな。お前に答える必要はない。いいか。お前が刑務所送けいむしょおくりになってサンズマッスルもなくなくるか、サンズマッスルを売ってお前は無罪放免むざいほうめんになるかだけだ! お前に選択肢せんたくしはない! どっちにしたってサンズマッスルはもうおしまいなんだよ!」

「な、なんだって……」

 これを聞いた若流わかるは絶句して満天の星空を見上げた。


 満天の星空とはこれいかに。ここは取調室ではなかったのか? たとえ夜であっても星空など見えるはずもない。取り調べにつかれ果てた若流は、絶望のあまり、ついに幻覚げんかくまで見えてくるようになったのだろうか。いいや、これは幻覚などではない。私が説明していなくて申し訳なかったのだが、この取調室のかべ天井てんじょうには、雲一つない星空がえがかれていたのだ!


 光合成人間用の取調室を作るには、いかに光合成のできない部屋を作れるかが重要だった。光合成は蛍光灯けいこうとうやLEDでもできてしまう。かつて、取り調べ中に静止をり切って全裸ぜんらになった光合成人間の被疑者ひぎしゃが、取調官を素手で殺害し、ドアをぶち破って逃走とうそうしたことがあった。つまり、光合成人間の取り調べは、場合によっては極めて危険なのである。

 光がなければ光合成はできない。とはいえ、暗闇くらやみではさすがに取り調べもできず、その妙案みょうあんとしてブラックライトの利用が考案されたのだった。しかし、この案はすぐに人権問題として糾弾きゅうだんされることになる。ただでさえ取り調べは精神的な圧迫あっぱくがあるところに、お化け屋敷やしきのような一室となればなおさらのことだったのだ。さる事件において弁護人によって公表された取り調べのビデオでは、その様子はまるで悪夢のようなあり様で、報道や動画共有サイトでこの事実を知った国民の反感を買うことになってしまったのだった。

 しかし、ブラックライトの利用は取調室の安全という意味では極めて有効だった。そのため、ブラックライトを利用しつつも精神的に圧迫感あっぱくかんのないものにする方向で検討が進められ、セラピーなど心理療法しんりりょうほうくわしい専門家たちもふくめた委員会が作られた。その検討の結果、精神的な安らぎを得られるデザインというものを折衷案せっちゅうあんとする答申が出され、それがこの星空だったのである。

 一度国民からの反感を買ったことがあったため、新しい取調室の計画は入念に進められた。万が一この案も反感を買うようなことはあってはならない。そのため、星空のデザインには世界的に高名な芸術家が選ばれたのだった。

 この芸術家は一流の芸術家だけあって、そのこだわりようは並々ならぬものであった。

 星のかがやきというものは表面温度によって色が異なることが知られている。たとえば太陽であれば表面温度が約六千度あるといわれ、その光の色は黄色なのである。さらに温度の低いオリオン座の右肩みぎかたを担うベテルギウスでは、その色は赤色であり、表面温度は太陽の約半分の約3千度程度であるとか。シリウスはオリオン座のすぐそばにあるおおいぬ座の星であるが、この星の温度はめちゃくちゃ高くて一万度以上もあり、その光は青白くかがやいているのであった。この芸術家は星一つ一つの表面温度と光の色を調べ上げ、それぞれ塗料をかえ、それらのちがいを芸術的なセンスで誇張こちょうし再現することに病的なほどこだわっていたのだ。

 星の色だけではない。その星たちの位置は北半球で見える星々を忠実に再現しており、その上前述の通り一つ一つのかがやきと色合いに変化をあたえた結果、それはおどろくべきほど見事な星座のある天体を形作っていたのである。この丁寧ていねいな仕事はあわ塗料とりょう緻密ちみつ点描てんびょうされた天の川にいたって、この作品を比類なき芸術作品に仕上げていたのだった。

 絶句した若流わかるはこの星空を見上げていたのである。


「あそこに星が並んでいるのが北斗七星ほくとしちせいだよな。そして、あそこにあるのは……、あれは死兆星しちょうせいじゃないのか? あれが見えたら一年以内に死ぬっていう。なんだって死兆星までいてあんだよ? 不吉過ふきつすぎんじゃねえか。確か本当は死期がせまって見える星じゃなくて、光が弱くて視力が低いと見えないって星だったよな。なんでそんな星まで描いてあんだよ。てゆうかさ、これ星多すぎねえか? 星ってこんなにあんだっけ? この星空描いたヤツは一体どんだけ時間かけて描いたんだよ。病んでんじゃねえのか? 普通ふつう、星座に見える星だけで良くねえ? これ何個あんだよ。星の数ほどってよくいうけど、めちゃくちゃ多くねえか? しかも、かがやき方が全部違うんだけど。そのせいで星座がはっきりわかるけどさ。あそこでM字に見えるのがカシオペア座だろ? カシオペア座の両辺をばして交差したとろから真ん中の星を通るように伸ばした先と、北斗七星のコの字の先端せんたんからばした先で交差するところにあるのが、あれが確か北極星だったよな」

 ブラックライトの密室の中、若流はおそろしいほど精密で芸術性の高い星空を見上げながら、しばし我を忘れ思いをめぐらせた。

「北極星って地球の自転軸じてんじくの先にたまたまあったから動かないわけで、宇宙全体で見たら別に特別な星でもなんでもないよな。動かないっていったって、地球から見た時だけの話でしょ? このだだっ広い宇宙の中でほんの一粒ひとつぶでしかない地球から見た時だけの話で、そこにいるおれたち人間だけが、せまい視点で勝手に特別だと思ってるだけだよね……って、いいや、そういうことじゃねえ、そうじゃねえだろ!」

 一瞬いっしゅん感傷的になっていた若流わかるが我に返った。

ちがう違う、そうじゃねえ! サンズマッスルが終わりってことは俺もおしまいってことだぞ! 絶体絶命じゃねえか! だがよ、よく考えてみろ。わからねえことが多くねえか? サンズマッスルを立件できるだけのネタがあるってのに、なんで俺と二重スパイの司法取引をしたがるんだよ? サンズマッスルの壊滅かいめつ以外に何か目的があんのか? なんだそれは? なんで俺が逮捕たいほされたのか、それにこの司法取引のヒントがかくされているんじゃないのか? よく考えてみろ! なんで俺は逮捕されたんだ?」

 若流が二重スパイの疑いで逮捕されたのは、宮内先生が亡くなった件でかれ捜査線上そうさせんじょうにあがり、その中で二重スパイが判明したからだった。

UOKwウアックウと警察は宮内先生の死を他殺の線で捜査していた。宮内先生が山で滑落かつらくしたってことには何も不審ふしんな点がねえ。なのに、なんでヤツらは他殺だって考えてんだ? 宮内先生がだれかに命をねらわれているようなことがあったのか? くそ! これは宮内先生について何も知らねえおれが考えてもらちが明かねえ! 次だ。次を考えよう。そもそも俺が捜査線上そうさせんじょうに上がってきたのはなんでだ? 他殺だったとしても、俺は何も知らねえし関係もねえ。俺と宮内先生との間に何かあったか?」

 明智あけち大臣とUOKうまるこw長官が宮内先生と会う予定だったあの日、大臣と長官は途中とちゅうでうどん店に立ち寄っていた。この店を予約したのは、実は若流わかるだったのである。

「思い当たるとすればあれか。長官の昼食にどこかいい店を予約しておいてくれって、マホちゃんが上司からいわれてたあれか。それで俺にいい店知らないかってマホちゃんから相談されたんだ。なんでも長官と明智大臣が宮内先生と会うから、宮内先生の自宅へ向かう途中にある店がいいっていう話だった。それで俺は自分の評価を上げようと思って、マホちゃんには代わってあげるよっていって、ちょうど宮内先生の自宅へ向かう途中にあった、あのくっそうめえうどん店を予約してから、マホちゃんの上司に俺の手柄てがらとして伝えたんだ。そうしたらあの日、宮内先生が滑落かつらくして亡くなったんだよな。けどよ、現場は山だぜ? 俺は宮内先生が山に行ってるってことすら知らなかったし、うどん店の予約なんてなおさら関係なんてねえよな?」

 若流は考えをまとめようとして、糸をたぐるようにあの時のことを思い返した。

「待てよ? 確か、おれがうどん店の予約をしたのはサンズマッスルの事務所にいた時だった。その時に雑談ベースで太満ふとみつにそのことを話したんだった。太満の反応がうすかったから忘れていたが、アイツはひょっとしてこっそりだれか理事長とかに報告していたのか? ちょっと待てよ? そうか、そうだったのか! UOKwウアックウと警察は、サンズマッスルが宮内先生を殺したと考えていたのか!」

 若流わかるは満天の星空を見上げた。

「なんてこった……。ということは、明智あけち大臣と長官が宮内先生に会うことを、俺がサンズマッスルにもらしちまったってことになる。もしサンズマッスルが宮内先生を殺していたとしたら、その手助けをしたかどで俺も無実ではないってわけか」

 殺人の手助けをすること、すなわち殺人幇助さつじんほうじょは六ヶ月から七年以下の懲役ちょうえきまたは禁錮きんこの罪である。

「なんてこった。マジかよ。どう転んだって、俺はおしまいってことか……」

 若流は暗闇くらやみの中、ブラックライトに照らされ、様々な色に光るこのあやしげな星々をながめながら思った。


 なんだってこんなところに星空がかれているんだ? しかもブラックライトでよ。頭おかしいんじゃねえのか? 普通ふつうに考えてみろよ。こんなあやしげな密室で取り調べなんか受けて、まともな精神状態でいられるわけなんかねえよな? なんなんだこの取調室は? 正気じゃねえよ。だれがこんなイカれたデザインを考えたんだ? 自白を強要するためのデザインだったら最強だよ。もうおれはまともな思考なんてできやしねえ。ああ、くそう。どう転んだってサンズマッスルでのし上がることもできねえのか。金さえあれば女に苦労しねえと思ったのによう。夜の街にり出せば、イケメンの俺だったらいくらでもモテんだよ。それが、それが、ちっくしょう……。司法取引に応じたとしたって、一段落したらどうせ左遷させんされんだろう? 一度UOKwウアックウを売った男なんだからな。同僚どうりょうの女子たちからもそんな目で見られんだ、モテるわけがねえ。一体どうすりゃいいんだよ? くっそお。俺の人生、今までもついてなかったが、それもこれも光合成人間なんかに生まれてきたからだよ。俺はどうして光合成人間なんかに生まれてきちまったんだ? 普通の人間だったら、普通の人間のイケメンだったら、俺の人生は楽しかったはずなのによ……。


 若流わかるの外見の美しさは顔が整っているだけではなかった。背が高くて足も長いし、ほとんど体脂肪たいしぼうのない引きまった肉体に、その髪質かみしつはだツヤ、手の大きさやつめの長さにいたるまですべてが整っていた。さらに、この男からはいいにおいがするのである。勾留こうりゅうされた身であるから香水こうすいやデオドラントといったものではない。何かこの色男がかもし出す空気感というか雰囲気ふんいきというか、そういったものに近しいかおりがするのだった。そして、この男が絶望するあり様は、病的なほど精密で芸術的な星空とあいまって、悲劇的な舞台芸術ぶたいげいじゅつのようでもあったのだ。


「どうしたのかね? だまっていたのでは意思表示とはいえんよ? どっちにしたってサンズマッスルはもうおしまいなんだ! そろそろ観念したらどうなのかね? なあ!」

 机をたたく音がした。若流わかるの目の前にいるガイコツの男は、雄大ゆうだいな星空を背景に、まるで地獄じごくからつかわされた使者か、死を宣告しに来た死神しにがみのようであった。

「さあ! 君はこの書類にサインをすればいいだけなんだよ! いい加減に決心したらどうなんだ! ええ? 何をぐずぐずしてるんだよ! 貴様に選択肢せんたくしなどはじめからなかったんだ! さっさとこの書類にサインしたまえ!」

 死神が何度となく机を叩いた。司法取引に応じた後に何をやらされるのか説明されることはなく、ただひたすらサインを強要されるばかりだった。若流は発光する同意書をながめながら一通りの罵声ばせいを浴びた後、絶望に打ちひしがれながら同意書にサインをしたのだった。なぜ取調官がここまで司法取引をせまったのか最後までわからなかったが、結局のところ、この取り調べは満天の星空に北風がいて終わったのである。(続く)

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