第二十四話 宮内先生の水筒

 明智あけち大臣と長官を乗せた車は、うどん店を出て宮内先生の自宅へ向かっているところだった。先ほどまであんなに晴れていた空が急に暗い雲におおわれ、今にも雨が降り出しそうな雲行きである。

「見てください。これは一雨ありそうですな」

 長官がこういうと、明智大臣も外をのぞきこんだ。

「ああ、これは空が真っ暗ですね」

「まいったな。かさを持ってくるのを失念しておりました」

大丈夫だいじょうぶですよ。傘は車にいくつかあるのでお使いください」

 運転手さんがこういったので、長官はお礼をいった。

「いやあ、かたじけない。それでは、もし降り出したらお借りしてよろしいですかな」

「もちろんですよ」

 最近では突然とつぜんゲリラ豪雨ごうう見舞みまわれることもめずらしいことではない。明智大臣の秘書が、気象庁の提供する高解像度の短時間降水予報をスマートフォンで開いて見たところ、もうじき現在地点は雨の範囲はんいに入りそうであった。

 宮内先生の家は郊外こうがい閑静かんせいな住宅街にある。不吉ふきつな空模様の下、明智大臣たちが乗った車が宮内先生の自宅前に到着とうちゃくすると、門の前で停められた。

「まだ降ってないようですな。すみませんが、お二人はここで待機してもらえますか。さあ、大臣。行きましょうか」

 そういって長官は車を降り、明智あけち大臣がそれに続いた。


 もし、この場に私と光成がいたら、宮内先生の自宅周辺を取り囲むように、UOKうまるこwの隊員が何人もかくれていることに気づいていたであろう。もちろん長官はこのことを承知していたはずである。しかし、明智大臣には知らされていなかった。

 なぜだろう。明智大臣には秘密の理由で、UOKwは何か不測の事態にそなえているのだろうか。


 車から降りて家の門を目の前にすると、明智大臣はおどろきの声を上げた。

「これは……、すごいご自宅ですね」

 明智大臣が驚くのも無理もない。宮内先生の自宅はとてつもない豪邸ごうていだったのだ。元官僚もとかんりょうとはいえ、それだけでこれほどの財を成すことなどできるのだろうか。

「私も最初は驚きました。宮内先生は資産家としても知られているのですよ」

 明智大臣と長官が話していると、目の前にある木製の重そうな門が静かに開き、やたら体格のいい男がこちらをのぞきこんできた。

 この男は名を関谷という。元力士の大男だった。

「やあ、関谷さん。ご無沙汰ぶさたしております」

「どうも、お世話になっております。あの、せっかくおしいただいたところ大変申し訳ないのですが、宮内がまだ帰ってきていないのですよ」

「なんと。そうでしたか。昼過ぎにお会いする約束だったのですが、何かあったのですか?」

「それが、ご存知の通り宮内は携帯けいたい電話を持っていないものですから、私どもも連絡れんらくが取れていないのです」

「そうですか。ちょっとですね、大切なお話をする約束でしたので、お邪魔じゃまでなければ少し待たせてもらってもよろしいですか。明日にはまた出かけられてしまうのですよね?」

「そうなのです。すぐに帰ってくればいいのですが。それでは中にどうぞ」


 明智あけち大臣と長官は関谷さんに案内されて応接用の部屋に通された。

「それではこちらで少々お待ちください」

 関谷さんはそういうとおくへと姿を消していった。

 この部屋は和洋折衷わようせっちゅうといったたたずまいで、かべには宮内先生がった山の写真がいくつもかざられていた。いや、宮内先生が撮ったというのは間違まちがいか。山頂で撮られたそれらの写真には、すべて宮内先生が写っていたのだから。宮内先生はスマートフォンだけでなくカメラも持っていなかったのである。先生は山登りほど好きなものはないのだが、写真をることについては一切関心がなかったのだ。ただ、家には記念にかざっておきたいと思うようで、同行した人から写真をもらっては飾っていたのだった。しかし、家族はだれもこの写真を見ようともしない。関谷さんだけが先生からの説明を聞かされて、「はあ」とか「ほう」とかうなずいていたのだった。

 ほどなくすると、中肉中背の中年女性が入ってきて、紅茶の入ったティーカップを大臣と長官の前に置くと、お辞儀じぎをして出ていった。

 この女は名を北島という。近所に住む女で、宮内先生がほとんど家にいなかったことから、こんなに大きな屋敷やしき奥様おくさまが一人で暮らすのも大変だろうということで、自身の子どもが社会人になって子育てが終わったこともあり、特にやることもなくなったので、お手伝いに来ていたのだった。もちろん、十分すぎるくらいの謝礼ももらっている。

 北島さんが出ていったかと思うと、今度は白髪しらが交じりの別の女が入ってきた。明智あけち大臣は、一体この家には何人のお手伝いさんがいるのかと思ったのだが、この女性を見るやいなや長官が突然とつぜん立ち上がり、「これはこれは、ご自宅にまでお邪魔じゃまして誠におそれ入ります」といったので、明智あけち大臣も立ち上がった。

「ああ、どうぞおかけになったままで結構ですよ。せっかくおしいただいたのにごめんなさいね。うちの主人たらぜんぜん帰ってこないのよ」

 この女性は宮内先生のおくさまだったのだ。そして、明智あけち大臣の顔を見てこういった。

「こちらの方はお役者さん? それとも歌手だったかしら。テレビか何かで見たような顔ですわね」

「申しおくれました。私は光合成法案で担当大臣をしております明智と申します」

「ああ、そちらの方でいらしたのね。さあ、どうぞどうぞ、おかけください」

 そういわれて明智大臣と長官はこしをおろした。

「宮内先生はどうされたのですか?」

「それが連絡れんらくも何もないのよ。あの人、携帯けいたい電話を持っていないでしょう? こっちから連絡したくてもできないのよ。私も本当に困っているんです。携帯くらい持ちなさいって、私がいくらいっても聞かないのですよ。あなたたちもお困りでしょう? 今どき何を考えているのかしら。あなたたちからもいっていただけません?」

「ええ、まあ、そうですね……」

 長官は肯定こうていとも否定ともとれない返事をした。

「さあ、どうぞ、紅茶が冷めてしまいます。熱いうちにし上がってください」

「ああ、すみません。いただきます」

 そういって、長官と明智あけち大臣は紅茶に口をつけた。

「それで?」

 二人が紅茶を飲む様子を凝視ぎょうししていた奥様おくさまは話をうながした。

「ああ、失礼いたしました。本日は先生と大切な約束がございまして……」

ちがいます。紅茶のことを聞いているのです」

「あ、なるほど、失礼いたしました。実に美味しい紅茶でございます」

「そうですか。どうして主人のお客様はいつもこうなのかしら。紅茶の感想もなければ、ティーカップについても何もお気づきになりません」

「おお、確かに素敵なティーカップですね。実にエレガントです」

「もう結構です。だから北島さんにいったのよ。どうせ主人のお客様にはちがいなんてわからないんだから、コップに入れた麦茶でいいのよって。あなたたちも暑いから麦茶の方がよかったんじゃありません? うちの主人なんて、紅茶を出そうが麦茶を出そうが何もかわりませんのよ。あの人、山登りが好きでしょう? 山頂で紅茶をし上がったら美味しいんじゃありませんかって、私がイギリスから取り寄せた茶葉を持たせようとしたことがあったのです。それがあの人ったら、『熱中症ねっちゅうしょう対策にもなるから、山登りには麦茶がいいんだ』っていって聞かないのですよ」

「は、はあ」

「それにあの人ったら、スーパーで売ってる麦茶のパックがあるでしょう? 水に入れておくだけで麦茶になるパック。あれを直接水筒すいとうに入れてるのよ。信じられないでしょう? 飲み干してもまた水を入れれば麦茶になるから便利だなんていって。そんなみっともないこと、きたないし、本当にやめてくださいって、私がいってもまったく聞かないんです。しかもね? うちの主人たら、子ども用の水筒すいとうを使ってるんですのよ? 男の子がかたから下げているスポーツ用の水筒があるでしょう? 黒に蛍光けいこう黄色のラインが入った男の子が好きそうなデザインの水筒です。ある時、知り合いから聞いたって、突然とつぜん買ってきたんですよ。子どもが乱暴にあつかってもこわれない上に、本体を太く作ってあるから、フタを開けると手を入れられて中も洗えるんですって。でもね、デザインは本当に子ども向けなんですよ? あなたもいい歳したおじいさんなんだから、歳相応のものを持ちなさいって私がいったら、『消費者の意見を聞いて改善している企業きぎょう努力をお前は否定するのか!』なんていうのよ。もう、ずかしいからやめてくださいって話なのに、私がいっても聞かないのですよ。あら、電話かしら?」

 遠くで電話が鳴っているのが聞こえた。

「主人かしら? ちょっと失礼しますね」

 そういって奥様おくさまが部屋を出ていくと、それとすれ違うように北島さんがお茶菓子ちゃがしを持って入ってきた。

「ごめんなさいね。奥様が不機嫌ふきげんなのは、明日から夫婦水入らずで旅行に行く予定だったのですよ。それが、旦那様だんなさまが帰ってこないので機嫌を悪くされてしまったんです」

「ああ、そうだったんですね。今の電話は先生からなのですか?」

「電話は関谷さんが出ていましたが、旦那様相手の口調ではなさそうでしたね」

「はあ、そうでしたか」

「それとですね、水筒すいとうの話も、奥様は何もあのようなデザインがきらいなのではないのですよ。奥様おくさまは子どもが好きでいらっしゃって、特に男の子ですね。奥様の子どもは三人ともむすめさんでしたから、本当は男の子が欲しかったのかもしれません。私と買い物なんかに出かけると、男の子を見ては目を細めていたものです。最近の子はみんな水筒を下げてるでしょう? それを見ると『子どもはかわいいわね』とおっしゃるんですけども、すぐに旦那様を思い出すようで、『子どもが持ってればかわいいけど、うちの人がああいうのを持ってるのは、北島さんもおかしいと思いません?』とおっしゃるのです」

 そういって、北島さんはくすくすとひかえめに笑うのだった。

「しかし、明日から旅行だというのに、連絡れんらくもないと心配ですよね。こういったことはよくあるのですか?」

「まあ、帰りの電車が止まってしまうこともあるでしょうから、予定通りにはならないこともあると思いますけど、それでも連絡はあったように思います……。ああ、降り始めたようですね」

 窓からのぞく空は重々しい雲でおおわれ、ぽつりぽつりと降り始めたかと思うと、またたく間に土砂降りになっていった。午前中まで晴れていたのがウソのようである。

 そこに突然とつぜん、青い顔をした関谷さんが入ってきた。

「どうしたの? 関谷さん。そんなに青い顔をして」

「突然ですが……、あの……」

 関谷さんは息を飲みこんで続けた。

「たった今、警察から電話がありまして、あの……、旦那様だんなさまが……、旦那様が亡くなられました」

「え……、ええ?」

「なんだって? それは事故なのか事件なのか、どっちなのかね!」

 こういったのは長官だった。

「じ、事故だそうです!」

「事故?」

 明智あけち大臣も間に割って入った。

奥様おくさまは? 奥様は大丈夫だいじょうぶなのですか?」

「それが、かなり取り乱されていて、せっかくお二人がお見えになっているところ申し訳ないのですが、おくで休んでいただきました」


 今回、宮内先生は若い登山グループに同行して山登りに出かけていた。予定していたスケジュールでは、前日に登頂を終え、山小屋に一泊いっぱくの後、早朝から下山して電車に乗り、昼前には自宅に到着とうちゃくできる予定だった。確かにタイトなスケジュールではあったものの、たとえ電車に間に合わなくても、駅で自宅に連絡れんらくすることもできた。いつもだったらそうしていたのだろう。しかし、駅へ到着する前の下山中にその事故が起きたのだった。

 朝五時前から山小屋を出て二時間ほど歩いたところだった。あと小一時間程度で下山できるところだったが、宮内先生はキジちに行くといって、グループからはなれていったのだ。

 ちなみに、「キジ撃ちに行く」というのは、「ちょっとお手洗いをお借りします」といった趣旨しゅしの言葉で、大なり小なりの用を足しに行くことを指す。つまり、山にはお手洗いやトイレといったものがないため、このようないい方をするのだ。

 グループのメンバーはその場で休憩きゅうけいして待っていたのだが、いつまでたっても宮内先生がもどってこない。大きい方の場合はそれなりに時間もかかるだろうから、気を使ってしばらく待っていたのだが、一向に戻ってくる気配がないので、さすがにこれはおかしいということになり、二名が宮内先生の行った方へ探しに行くことになったのだ。しかし、すぐには見つからない。大声で呼んでみたものの返事はなく、地形図を確認すると近くにがけのような急斜面きゅうしゃめんがあることがわかり、まさかとは思いつつも念のためそこへ行ってみると、急斜面のはるか下方に、宮内先生が着ていた服やリュックサックのようなものが見えたのだった。大声で声をかけてみたが返事はない。これは大変なことになったと二人は思ったが、この斜面はまるで崖のようで、このまま降りていくのは極めて危険であることと、たとえ降りることができたとしても、今度はもどることができそうもない。ましてや宮内先生をきかかえてなど危険すぎて無理だと思われた。まずは地形図に先生がたおれている場所をマークして、みなのところへ合流することにした。皆と合流したところで、全員で話し合い、まずは警察へ連絡れんらくしようという話になった。そうして救助要請きゅうじょようせいをしてから、崖を迂回うかいして宮内先生が滑落かつらくした現場へ向かったのだった。

 警察へ正確な場所を伝えることができていたため、救助隊員の到着とうちゃくも早かった。しかし、皆が現場に到着した時にはすでに宮内先生の意識はなく、必死に蘇生術そせいじゅつをこころみるも、その甲斐かいむなしく、搬送先はんそうさきの病院で死亡が確認されたのだった。


 窓を閉め切った室内でも激しい雨足が聞こえてくる。まるで名瀑めいばくたきのように激しい雨量だった。おもてでは何度か稲光いなびかりが光ったかと思うと、地響じひびきのような轟音ごうおんが鳴り響いて、ガラス窓がガタガタと小刻みにれる。近くに落ちたのだろうか。すさまじい閃光せんこう爆音ばくおんであった。

 奥様おくさま衝撃しょうげきたるやどれ程のものであっただろうか。先ほどは小言をいっていたとはいえ、数十年連れった夫婦である。取り乱してしまうのも無理もない。その上この雷雨らいうだ。一人、部屋でふるえるその心細さを推し量るすべもなかった。

 話は少しそれるが、後日、宮内先生の遺品が自宅へもどってくることになる。先生が身につけていたウェアはところどころ破れていて、転落する際、やぶや木の枝に引っかかってけてしまったのだろう。がけのような急斜面きゅうしゃめんから滑落かつらくするその壮絶そうぜつさがうかがえた。

 奥様は北島さんに支えてもらいながら力なくよろよろとその遺品に近づき、嗚咽おえつをもらしながらそれらにれた。リュックサックを開いて中身を確認してみると、中から突然とつぜん、子ども用の水筒すいとうが出てきたのだ。

 それは、まるで突然に起きた交通事故のような、散乱するランドセルや帽子ぼうし、あらぬところに飛ばされた小さなくつ、水筒といった、子どものかわいくて愛しい遺品のようであったのだ。

 それを見た奥様は、聞いたこともないような悲鳴と身もだえするような嗚咽をもらして、水筒をゆかに落とし、その場で泣きくずれたのだった。


 さて、話を元にもどすと、長官は宮内先生の訃報ふほうを受け、いろんなところに電話をしていた。長官にとってはよほど想定外なことだったようで、かなりあわてた様子だった。それもそうだろう。宮内先生が亡くなったのだから。

 それにしても、宮内先生の自宅周辺に隊員を配備するなど、UOKうまるこwは様々なことを想定していたようだった。前日から自宅への人の出入りも監視かんししていたほどである。うどん店を出る時点で、宮内先生が戻っていないことを把握していたのもそのためだった。しかし、一体何を想定していたのだろう。隊員を大勢配備するなど大ごとである。何か大変な事件が起きそうなことを、あらかじめ想定していたのではないだろうか。

 なぜ、そんな想定をしていたのだろう。アカシックレコードD.E.大学とメロンズ教授について、UOKwの創設者の一人であり初代副長官だった人物から話を聞くことが、それほど様々なことを想定しなければならなかったことなのだろうか。

 あのうどん店で、長官がすべてのことを明智あけち大臣に伝えていたかといえば、もちろんそうではない。明智大臣には秘密にしていたことであるが、実のところUOKwは、宮内先生がアカシックレコードD.E.大学の卒業生なのではないかと考えていたのだった。(続く)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る