第二十三話 アカシックレコードD.E.大学

 明智あけち大臣とUOKうまるこw長官が車で向かった先は、宮内先生というUOKwを創設した主要人物の自宅であった。

 宮内先生はUOKwの創設時に副長官を務めたほどの人物であったが、現在では引退して、趣味しゅみの山登りに精を出しているそうである。先生はヒマさえあれば山登りに出かけていて、その上携帯けいたい電話を持っていないものだから、なかなかつかまらないのだとか。UOKwがなんとかアポ取りに成功して、やっとのことこの日に会えることになったというのに、明日にはまた山登りに出かけてしまうのだという。なんでも副長官時代よりも生き生きとしているとのことだった。

 車は途中とちゅうで国道沿いにあるうどん店の駐車場ちゅうしゃじょうに入っていった。約束には少し時間があったため昼食に立ち寄ったのである。

 車が停められると長官が口を開いた。

「個室とテーブル席を予約してあります。すみませんが、お二人はテーブル席でもよろしいですか」

 お二人というのは、明智大臣の秘書と運転手のことである。これに秘書はすぐに答えた。

「承知いたしました。私たちの分までご予約いただいておそれ入ります」


 話は少しそれるが、明智あけち大臣の秘書は海外の名門大学を卒業して数カ国語を操るだけでなく、気配りの行き届いたおそろしく聡明そうめい優秀ゆうしゅう元官僚もとかんりょうの女であった。明智大臣もなぜこんな優秀な女が自分のところで働いているのかと、時々不思議に思うこともあるほどなのだが、将来は政治家になるべく、現在は大臣職についている明智大臣の秘書を務めているのだった。


 さて、明智大臣と長官がうどん店に入り、店員に案内されて個室に向かうと、個室の中では黒いスーツを着た男がしゃがんでテーブルの下をのぞいているところだった。

 この男はUOKうまるこwの職員で、個室に盗聴器とうちょうき仕掛しかけられていないか事前に確認をしていたのである。

 男は明智大臣と長官の到着に気がつくと、大臣に会釈えしゃくをしてから長官のそばに近寄って何かを耳打ちした。おそらく盗聴器が仕掛けられていなかったことを報告したのだろう。明智大臣は近くに立っていたので男がなんといったかギリギリ聞こえていたのだが、ささやき声であったためはっきりとは聞こえていなかった。しかし、男は確かにこう耳打ちしていたように聞こえたのである。

「長官、チャック開いてますよ」

 これを聞いた長官は、男がせっかく小さい声で耳打ちしたにもかかわらず大きなリアクションをした。

「なに? おおっ、すまん、すまん」

 そして、その場で何もはばからずにチャックを閉めたのだった。

「さっき総理官邸そうりかんていで用を足した時か。いやあ、おずかしい」

 これを聞いて明智あけち大臣は、長官が自分と合流する前に総理と会っていたのだと察した。


 実は、明智大臣の秘書はそのけ目のない観察眼によって、初めから長官のチャックが開いていることに気づいていたのだった。しかし、長官が目上の立場であることや自身が年下の異性であること、チャックの開いた場所がセンシティブな性質を持っていることなどを総合的に勘案かんあんして、自分は気づかなかったことにしていたのである。しかし、そのせいで長官のチャックは開いたままになっていたのだ。それが男性の部下から指摘してきされたのだから、丸く収まったといえよう。


 席につくとすぐに恰幅かっぷくのいい中年の女性が冷たいお茶を持って注文を取りに来た。

「いやっしゃいませ。ご注文はどうします? 後にしますか?」

「いや、今注文します。おすすめは?」

「ええっとですね、夏限定の冷たいおうどんに、トッピングで季節の山菜天ぷらなんかどうですか」

 店員の女は明智あけち大臣の顔を失礼なほどジロジロ見つめた。最近では光合成基本法のニュースがテレビでも連日報道されているので、明智大臣も有名人になっていたのである。

「ああ、じゃあ私はそれにします。明智さんはどうされますか?」

「私もそれで」

「冷やしうどんに山菜天ぷらを二人前ですね。ありがとうございます。デザートやお飲み物はどうされますか? 冷たいビールもご用意できますよ」

「いや、結構。これから人と会う約束があってね。また今度にするよ。あまり時間がなくてすまんね」

「ああ、わかりました。それでは少々お待ちください」

 注文を聞き終えた女はすたすたと去っていった。


「いやあ、先日は例のグランピング施設しせつで大変失礼いたしました。ウチの者が見張っていたにもかかわらず、危うくご子息にケガをさせてしまうところでした」

 店員がいなくなると、長官はおしぼりで手をふきながらこう話し始めた。

「いえいえ、迅速じんそくにご対応いただいたと聞いております。こちらこそありがとうございました」

「それにしても、光成くんは光合成人間を前にしても勇敢ゆうかんだったそうですよ。さすがは大臣のご子息です」

「いやいや、そのうち痛い目にあうぞと注意しておきました。世の中にはおそろしい者がいますからね」

「まったくです……」

 こういうと長官は小さな声話し始めた。

「さっそくで恐れ入りますが、光合成法案につきましてはご存知の通り国外勢力の関与かんよが疑われています。これは我が国の国益にとって深刻な脅威きょういであり、今回、総理からの指示で大臣と私が宮内先生とお会いすることになっています。それで、宮内先生にお会いする前に、アカシックレコードD.E.大学について、我々が把握はあくしていることを共有させていただきます」

 長官は冷たいお茶を一口飲んで続けた。

「失礼ですが、この大学についてどの程度ご存知ですか?」

 長官がこんな事を聞いてくるということは、大臣の耳に入れる内容は最小限にしたいと考えているのだろう。明智あけち大臣の方でもそのつもりであった。大臣にとって重要なことは光合成人間が活躍かつやくできる社会作りであって、興味本位で陰謀論いんぼうろんのようなことに足をみ入れることではなかったのである。

「ほぼ知りません。ご存知の通り、先日初めて総理から聞かされた程度です」

おそれ入りますが、具体的にお聞きできますか?」

「その大学の関係者が来日していて、サンズマッスルを通して光合成法案への関与かんよが疑われている、ということですね」

「大学については?」

陰謀論いんぼうろんのような話で、その大学の卒業生が世界を牛耳っているという話でした。総理も半信半疑のようないい方でしたが」

「総理は他にも何かおっしゃってましたか?」

「後はそうですね……、ご存知の通り、私の息子がその大学関係者に尾行びこうされていたということです」

「以上ですか?」

「そうですね……」


 明智あけち大臣はこの話をすると、どうしてもスザンヌのことを思い出してしまう。彼女かのじょが来日しているのは、何かこの件と関係があるのではないかと。あるいはこの場でUOKwウアックウ長官に打ち明けて、スザンヌが日本で何をしているのか調べてもらってもいいかもしれない。しかし、こんな予感めいたことだけでUOKwに相談することなどいかがなものか。まずは、長官の話を聞いてから考えてみた方がよいかもしれない。


「他には何も聞いていませんね。会合の後に呼び止められて小耳にした程度なんです」

「そうですか。承知いたしました。まず大学に関してですが、実は我々もほとんど情報を持っていないのです。私がこの大学の名前を初めて聞いた時にパッと思ったのは、アメリカの首都であるワシントンD.C.ですね。『D.C.』と『D.E.』が似ているなと。ワシントンD.C.の『D.C.』は、ご存知の通りDistrict of Columbiaの略で、日本語訳はコロンビア特別区です。アメリカのどの州にも属していない独立した首都であることなど、あらためてご説明する必要もないと思います。それに対してアカシックレコードD.E.大学の『D.E.』は、District of the Earthの略だそうです。これに日本語訳があるわけではありませんが、コロンビア特別区という日本語訳にならっていえば、地球特別区とでもいうのでしょうか。地球上のあらゆる国に属していない首都を自称じしょうしているということですかね。実際問題、この大学の所在を認めている国はどこにもありません。信じられないかもしれませんが、実は、この大学がどこにあるのかわかっていないのです」

「なんですって? そんな情報でUOKwウアックウが動いているのですか?」

「ええ。ですが今現在、実際にその関係者が来日しているのですよ。さらに、過去にも来日していたという情報もあるのです」

 ここで店員がうどんを配膳はいぜんしに来た。

「お待たせしました。冷やしうどんと山菜の天ぷらです。注文は以上でよろしかったですか?」

「はい。おお、うまそうですな」

「ではごゆっくりどうぞ」

 店員は明智あけち大臣の顔をぬすみ見すると去っていった。明智大臣は割りばしを割りながら長官に聞いた。

「以前にも来日していたというのは?」

「それはですね、私が宮内先生の下で働いていた時代に聞いた話なんですが、メロンズ教授という人物を先生が目撃もくげきしていたらしいのですよ」

「メロンズ教授?」

「ええ、今来日している大学の関係者もメロンズ教授と名乗っているのです」

「メロンのような服を着ているという人物ですか」

「そうです。ですが、宮内先生から聞いていた人物と、今来ている人物の特徴とくちょう一致いっちしないのですよ。宮内先生が目撃した人物は、確か、車椅子くるまいすに乗った老人だったと聞いていたはずなんですね。ただ、何年も前のことで、私の記憶きおく曖昧あいまいなので、それで今回、当時のお話を先生におうかがいしに行く訳です」

「記録は残っていないのですか?」

「記録はありません。我々も色々調べてみたのですが、宮内先生の記憶きおくにしか残ってなさそうなんです」

「なるほど。承知しました」

「それと、現在来日しているメロンズ教授の目的ですが、我々は光合成人間を目的としていると考えています」

「法案ではなくてですか?」

「そうです。法案については、かれらにとって都合の悪い内容にならないよう関与かんよしているに過ぎません。彼らの関心は世界の利権なのですよ。光合成人間が諸外国の注目を集めていることはご存知のことと思いますが、世界中の利権をめぐって国際的な格差が生まれていることは、残念ながら事実いわざるをえません。そして、こういった格差の裏には彼らが深く関わっているのです。光合成人間に関していえば、以前から水面下で闇取引やみとりひきが行われていたのですが、今回の法案で何らかの規制が入りそうなので、ヤツらも関与を始めたのでしょう」

「ちょっと待ってください。光合成人間は人間ですよ? 人間を利権の対象だとお考えなのですか?」

「彼らがです。つまり、アカシックレコードD.E.大学の卒業生たちがですね。彼らは自分たちとそれ以外という考え方をしていて、自分たち以外の人間を同じ人間などとは考えていません。彼らは極めて利己的です。自分たちが利益をほしいままにできれば、他者の権利など考慮こうりょしません。平等であってはならないとすら考えているのです」

「な、なんですって?」

「公平であればかれらは富まない。不公平でなおかつ自分たちに有利であることこそが、彼らにとって何よりも優先されることなのです」

「そんな馬鹿ばかな! 今どきそんな考え方は許されることではありませんよ!」

「その通りです。ですが、我が国でもこれを国益の脅威きょういとらえていることもまた事実なのです」

「確かにそうですが……」

「彼らはそうやって世界を裏で牛耳っているのです。彼らは不公平さについて一切の妥協だきょうを許しません」

「そんな覇権はけん主義的なことを……、しかし、国家ならいざ知らず、大学なのですよね? 大学がなぜそんなことを」

「正確にはその卒業生たちです」

「卒業生たちの集まり、つまり、校友会がそんな利己的で覇権主義的な考えの集団だというのですか?」

「いいえ、校友会といった事務局や会計を持つ団体が彼らの本体なのではありません。彼らの本質は『人脈』であると我々は考えています。秘密の大学の卒業生同士がつながる『人脈』ですね。だから正体がわからないのです」

「秘密の人脈ですか……」

「そうです。かれらは世界中にいます。世界中のあらゆる情報を収集していて、常に利益になりそうなものを探し、共有してつながっているのですよ。アカシックレコードを名乗っているのはそういった趣旨しゅしなのでしょう。失礼ですが、アカシックレコードというものについてはご存知ですか?」

「ええ。でもまあ、総理から聞くまで存じておりませんでしたが。その後にネットで調べた程度です。この宇宙が誕生してから起こったあらゆることが記録されているというライブラリか何かのようなものでしょうか。オカルトやスピリチュアルなもののような印象を持ちましたが」

「その通りです。ですが彼らはオカルトやスピリチュアルといった集団なのではありません。彼らは現実的で合理的に世界中のあらゆる膨大ぼうだいな情報を収集しているのです。利権というものは、実際問題早い者勝ちですから、彼らはだれよりも先にもうかりそうなことを見つけることに注力しているのです。慢心まんしんなど絶対にしません。出遅でおくれることにもっとも危機感を持っているのです」

「しかし、それにしても、どうやってそんな情報の収集ができるのですか」

「彼らは世界中の事業者や様々な要職についている者が多く、それ故、いろんな秘密をふくむ情報が彼らのもとに集まってきているのです。それだけではなくて、彼らの中には量子コンピューターの実用化に成功している者もいるのではないかとも考えられているのです」

「量子コンピューター?」

「ええ、今のコンピューターとはそもそもちがった仕組みで、桁違けたちがいに処理速度の速いコンピューターです」

「処理速度が速い……。今よりも動画や音声といった情報がクリアになるということですか?」

「いや、暗号が解読されてしまうのです。明智あけち大臣もパソコンで仕事の書類をご覧になりますよね? あれ、実は通信自体が暗号化されているのですよ。現在世界中で使われている暗号は、スーパーコンピューターで解読しても何十年から何百年かかるといわれているのですが、量子コンピューターにかかれば、暗号化する前の元の文書を我々人間が読むのにかかる時間よりも、はるかに速く暗号を解読してしまうのです」

「なんですって!」

「つまり、かれらの前では暗号化した通信でも筒抜つつぬけなのです」

「世界中の通信を傍受ぼうじゅしているというわけですか……」

「まあ、どこまでやっているかはわかりませんがね。ただ、アカシックレコードを名乗っていることについては、あながちウソでもなさそうなわけです」


 ここまで聞いて、明智あけち大臣はやはりスザンヌを思い出した。彼女かのじょが本当はどんな仕事をしているのか、明智大臣は知らない。しかし、今現在、彼女が日本に来ていることは間違まちがいなさそうなのだ。

 ひょっとして、お前はこのような者たちを相手にたたかっているのか?

 今、この席でUOKwウアックウ長官に相談してみた方がいいかもしれない。しかし、スザンヌが何をしているのかもわからないというのに、こんな荒唐無稽こうとうむけい陰謀論いんぼうろんと結びつけることなど、余計に意味がわからない話であろう。それに、なぜ相談するのか説明するには、スザンヌが光合成人間であることを伝えなければならないのだ。そうなれば、光成だって光合成人間だとバレてしまうだろう。

 今までのところ、明智あけち大臣の第六感のようなものがあるだけで、スザンヌとアカシックレコードD.E.大学との関係性を示す情報や証拠しょうこは一切ない。悪い予感がするだけで、光成の将来に影響えいきょうあたえそうなことなど、この場で相談できるはずもない。

 しかしながら、この話を聞いて明智大臣はいきどおりをかくせなかった。


「今の話が本当だとすると、私はその大学と卒業生たちを許せません。そんな者たちが世界を不平等にして富を得ているなんて、想像するだけでも我慢がまんできませんよ! そんな者たちが我が国へ関与かんよするなど、絶対に防がねばなりません!」

「おっしゃる通りです。ですから我々も全力を上げて調べているのです。ですが、現状、情報がとぼしく、実際に我々の前にあるのは例のメロンズ教授という人物だけなのです」

拘束こうそくはできないのですか」

「なんとか拘束したいと考えています。ですからヤツを見張っているのですが、なかなかどうして、交通違反こうつういはんもしなければ、職質したところで何ら不審ふしんな点も見つけることすらできないのですよ。実は、かなりきたない手も使ったのですが、代わりにウチの隊員が二名行方不明になりました。しかも、ATP能力持ちの隊員二名がです」

「なんですって? そんなことになっても逮捕たいほできないのですか?」

証拠しょうこがないのです。そして、隊員二名は今もなお行方がわかっておりません。ヤツは何も残さないのです」

 やはり明智あけち大臣は、スザンヌがこのメロンズという男とたたかっているように思えてならなかった。彼女かのじょだったらこの男と対等にわたり合えるかもしれない。それに、彼女は絶対にこのような男を許せないはずなのだ。

「生きているのか殺されてしまったのか、我々としては生きていることを願うばかりですが、ヤツは何も残さないのです。自分の痕跡こんせきだけでなく直接関わった者もみんな消してしまいます。おそろしいことですが、死体すら残さないのですよ。おそらく、あのサンズマッスルというNPO、かれらもなんらかの取り引きをしているでしょうから、いずれ消されるでしょうな」

「ぐぐ……、あの理事長は確かに信用できない人物です。ですが、あのNPOの事業自体は立派なものですよ! あの事業はこれからの日本に必要です! 残さなければなりません! くそ! それが、そんな者たちにつぶされてなるものですか!」

「おっしゃる通りです。あのNPOが生き残るかどうかは、それこそ明智あけち大臣の仕事なのではないでしょうか」

「…………。確かに、その通りですね。なるほど。承知しました」

「我々はあの男を追います。ですが、正直申し上げて今のところヤツの方が上手です。そこで、まずはヤツの正体をもっと知りたいと考えているのですよ。ところが我々が持っている情報といえば、私がだいぶ前に宮内先生からその名を聞いただけで、しかも、特徴とくちょうがまったく合わない。私の記憶きおくでは、車椅子くるまいすに乗ったかなり高齢こうれいの人物だったと聞いていたはずなのですが、今、日本に来ているメロンズ教授は何の不自由もなくスタスタと歩いていますし、年齢ねんれいだって四十代くらいに見えるのです。人が若返る、これは絶対にあり得ないことです。だから別人かもしれない。ただ、私の記憶は大変申し訳ないのですがかなり曖昧あいまいなのですよ。それで、ぜひとも宮内先生にお話をうかがいたい、そう考えているのです」

「宮内先生は、その人物や大学のことを記録として残していないのですか?」

「一切残していないのです」

「私はそういうこともあってはならないと思っているのですよ。こういったことは、たとえ機密性がどんなに高くても、もみ消すべきではありません! だれも納得ができませんよ!」

「おっしゃる通りです」

「宮内先生はこの大学と例の人物についてよくご存知なのですね?」

「おそらく私よりは知っているものと考えております」

 ここまでいうと、長官ははしを置いた。

「と、まあ、以上になりますが、いやあ、このうどん。なかなかうまいですな」

 明智あけち大臣は少し早く食べ終わっていたのだが、長官はずっと話していたので今ちょうど食べ終えたところだった。

「コシがあって、天ぷらも新鮮しんせんな山菜がカラッとがっていて実にうまい。しるもいいダシが出てましたな」

「ええ、おいしいお店ですよ。長官はここへよく食べにくるのですか?」

「いえいえ、初めてです。ウチの若い者が予約したんですが、あいつは何といったかな、そうだ、確か若流わかるといったか。いい店を予約してくれて大臣も喜んでいたと伝えておきますよ。それでは行きましょうか。ちょっと私はトイレに行ってきますので、大臣は先に出ててください」

 長官はチラッとうで時計を見ると立ち上がった。


 明智あけち大臣が店の外に出ると、先ほどいた黒いスーツの男と大臣の秘書が外で待っているところだった。

「車が店の前まで来ますので少々お待ち下さい」

 秘書がそういってからほどなくすると、車が来て店の前に停められた。

「あの、長官は?」

「ああ、もうすぐ来る」

 ちょうどそのタイミングで、長官が店のとびらを開けて外に出て来たところだった。そして、その様子を見た明智大臣の秘書は絶句した。チャックが全開だったのである。

 即座そくざに黒いスーツの男が長官に近寄って何やら耳打ちをした。長官は「なに?」といって怪訝けげんな顔で男の顔を見る。そして、明智大臣に近寄ってこういった。

「大臣。どうも宮内先生がまだ家に帰っていないようなのです。今日の午前中にはもどっている予定だったのですが」

「なんですって?」

おくれているのかもしれません。ですが、約束なのでご自宅には向かいましょう。家に戻られていない場合は、私が直接奥様おくさまに話を聞いてみます」

「承知いたしました」

「それでは参りましょう」


 UOKうまるこwの男はチャックが開いていることを伝えたのだと思われたのだが、そうではなかった。

 明智あけち大臣の秘書は思った。確かに宮内先生が約束におくれていることは意外なことであろう。しかし、この男どもはなぜこれに気づかないのか。明智大臣と合流する前からずっとチャックが開いていて、それに気づかない長官も長官だが、この男二人もそろいもそろって気づかないとはどういうことなのかと。いきどおりすら感じた彼女は、意を決して長官に歩み寄った。そして、長官の耳元でこうささやいたのだ。

「長官、チャック開いてますよ」

 これを聞いて長官は、これだけ彼女かのじょに気を使わせたにもかかわらず大きなリアクションをした。

「なに? おおっ! すまん、すまん!」

 そして、その場で何もはばからずにチャックを閉めたのだった。


 これを見ていた明智大臣は、長官に対してそこはかとなく違和感いわかんを覚えた。明智大臣の知る限り、この長官はここまでだらしのない人間ではない。それがこの短時間で一度ならず二度までもチャックを閉め忘れていたのだ。長官は平静をよそおってはいるものの、何かに気を取られ、気もそぞろなのかもしれない。何か別件で大事件が起きているのか、それとも宮内先生に会いにいくことがそんなに大ごとなのか、現時点では明智大臣の知るところではなかった。(続く)

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