第二十一話 黄金の価値体験

 私は芸術や音楽の書籍しょせきが立ち並ぶカフェにて、店に流れるラテン音楽を聞きながら朝食にクロワッサンを食べているところだった。この店のクロワッサンは実にうまい。外はサクサクとしていながら中はもっちりとしていて、そこに見事なで加減の玉子とチーズがはさんであるのだから絶品この上ないのだ。そのため、私はこの店に足しげく通っていたのだが、この日は朝食をとりながら『黄金の価値体験』という論文をちょうど読み終えたところだった。

 この論文は、稲荷香十子いなりかそこという私が通った小学校の校長先生が書いた教育学の論文で、私が要約することはいささか不適切かもしれないところをあえて簡潔に説明してみれば、幼少期に経験したことというものは、その後の人生における様々な選択せんたくに大きな影響えいきょうあたえ、その人の人生を左右しうる極めて重要な要因となり、つまるところ、幼少期に素晴らしい体験をさせることが最良の教育につながる、という内容のものであった。

 この幼少期の記憶きおくや体験、価値観というものは、人生が終わるその時まで決して色褪いろあせることがなく、高齢こうれいになればなるほどよりいっそう鮮明せんめいになっていく。論文ではこれらを何よりも重くびることのない金になぞらえ、『黄金の価値体験』と命名しているのだった。

 私は食後のコーヒーを楽しみながら、あのサマーキャンプを思い出していた。私が通っていた小学校では、自国をより深く学ぶために四季折々の自然体験学習があったが、私が覚えているものといえば、夜ふかししておそくまで友だちと話していたことや、私のギャグがめちゃくちゃウケたこと、友だちがハメを外して椅子いすこわしてしまい先生におこられたことなどであった。私の思い出など、かようにくだらぬものばかりであったが、確かにこの論文がいう通り、今もなおまばゆく光りかがやいた思い出ばかりであった。

 コーヒーを飲み終えた私は、この論文に影響えいきょうを受けていたという主月先生を思い出した。そして、店内の本棚ほんだなをぼんやりとながめながら、しばしその思いをめぐらせたのだった。


 主月先生はサマーキャンプの報告書を書き終え、先ほど校長先生に提出したところだった。

 昨日はサマーキャンプの反省会いう飲み会がよるおそくまであり、校長先生は早々に帰ったのに対し、教頭先生はあの明智光成あけちみつなりを打ち負かしたことがよほどうれしかったのか、大人としてずかしいほどいつまでもご機嫌きげんだった。とはいえ、日中はちゃんとしたり返りの会議を開いた上での話ではある。

 今回のキャンプでは色々なことがあった。まず、テレビ取材の件であるが、校長先生は相当にあの取材班が気に入らなかったらしく、大部分が恥ずべき内容だったとして、おそらくほとんどがカットされることになるだろうとのことだった。キャンプ期間中、すでに他の教員たちはあのカメラマンから映像を見せてもらっていたのだが、それはそれは素晴らしい出来栄えだったそうで、まるで映画のようであったと後に述懐じゅっかいしている。みな、このような映像で我が校がテレビで紹介しょうかいされることを楽しみにしていたところを、校長先生からの言葉を聞いて、残念で心の底から落胆らくたんしたそうだった。後に映像を見せてもらった先生から聞いた話では、私のインタビューは特に傑作けっさくだったという。そう考えると、あのカメラマンのATP能力はおどろくべきものだったといえよう。ちなみに村長挨拶そんちょうあいさつはいまいちだったそうだ。

 続いて児童にケチャップがかけられた件については、各クラスの担任から保護者へ連絡れんらくと謝罪をし、どの保護者からも了解りょうかいを得られたが、ニュースにもなっていたこともあって、むしろ「大変でしたね」とねぎらいの言葉をいただいたことが報告された。

 そして、ネバーウェア逮捕たいほの件である。教頭先生は積極的に捜査そうさへ協力する姿勢を見せていたのだが、警察の方では、教頭先生がオリエンテーリング中はずっとギリースーツでかくれていたことをつかむと、たいして事件の目撃もくげきをしていないことがわかって、早々に教頭先生を捜査対象から外していた。そのため、ほとんどの事情聴取じじょうちょうしゅを主月先生が対応したのである。この件については主月先生から報告された。

 最後に、あの現場になぜUOKうまるこw隊員がいたのかということについては、やはり教員の中でも疑問の声があったが、警察にも知らされていなかったそうで、こういった場合、おそらくは機密事項きみつじこうのある捜査そうさで張りんでいたのではないかとのことで、明確な回答は差しひかえさせてほしいとのことだったことが報告された。


 報告書の提出を終えて一息ついていた主月しゅげつ先生は、給湯室でお茶をいれ、席にもどってからぼんやりと刑事けいじさんから聞いた話を思い返していた。刑事さんの話では、あの容疑者は付近に住む住人で、以前からグランピング施設しせつに度々不法侵入ふほうしんにゅうしていたのだという。

 容疑者が少年だったころにはまだグランピング施設など存在すらしておらず、あの辺りは本当に何もないただの野原で、近所の子どもたちとよく遊んでいた場所だったのだとか。

 そのうち容疑者も成長して大人になり、それ以降はあの場所に関心など持っていなかったのだが、気がついてみればいつの間にか工事が始まっていて、きれいな門構えの施設が出来上がっており、外から中をのぞいてみると、都市公園のようなものや、今まで見たこともない未来的な小さい家のようなものが遠巻きにみえるのだった。

 容疑者の父や近所の人から聞いた話では、それは都会の人が利用するキャンプ施設しせつなのだという。父は農家をやっていたので野菜を納品していたそうだ。

 容疑者は初めから不法侵入ふほうしんにゅうをしていたわけではない。自分もまってみたいと思って宿泊しゅくはく料金を調べたこともあったそうだが、その料金のあまりの高さにとても自分がまれる場所ではないことを知ったのだという。かれにはATP能力があったので、勝手に侵入してみたところで見つからないだろうと思い、どんな場所なのか見物するためにこっそりしのんだのが不法侵入を始めたきっかけだった。

 そこで見たものは、自分が遊んでいた野山とはまるで違う、旅行パンフレットでしか見られないような美しい自然風景だった。彼が遊んでいた野山は無秩序むちつじょに草むらや木がぼうぼうと生え、ぬかるみがあったり、草や枝に服がひっかかったり、本当にただ自然のままの野山だった。それが、歩道やさくがあって歩きやすく、それでいて草木や水辺などをたくみに整備したビオトープの美しさを目の当たりにして、完全に魅了みりょうされてしまったのだという。そうして、この場所はすっかり彼のお気に入りの場所になって、足しげく通うようになったのだ。

 この施設は非常に広い。初めのうちは人がいない場所で過ごしていたのだが、次第に彼は大胆だいたんになっていって、利用客や従業員がいてもかくれなくなった。彼はATP能力のおかけでまったく見つからず、そのうち利用客を間近で観察するようにもなっていった。それで気づいたのだが、ここの利用客には家族連れやカップルしかおらず、かれのような一人者はいないのだ。さらに彼らがただの家族連れやカップルではないことにも気がついた。彼らは極めて裕福ゆうふくだったのだ。持ち物や服装が高そうなだけでない。髪質かみしつはだツヤやまでもが高級品のように上質なのだ。彼らはまるで自分とちがう。彼らに対して自分はどうしてこんなに貧相なのかと疑問に思うようにもなっていった。

 そして、もっと重大なことにも気づいてしまう。この場所は彼らのものであって、自分の場所ではないということを。このことに気づいた彼の心にはねたみとにくしみの感情が芽生え始めた。なぜ自分はお気に入りの場所でコソコソとしなければならないのに、ヤツらはこの素晴らしい自然を独占どくせんして自由に楽しめるのだと。まったくもって不公平ではないか。これが貧富の差というものなのかと不満がつのっていく。自分は光合成人間だ。ヤツらよりもはるかに能力が高い。しかもATP能力まであるのだ。この不公平を正すために、自分は裕福なヤツらをらしめなければならなかったのだと、彼は警察の取り調べでそう自供したのだという。

 刑事けいじさんはこの自供内容について身勝手極まりない動機だといっていたが、別のタイミングではビオトープをながめながらこうもいっていた。

「それにしても見事な施設しせつですね。でもまあ、私の給料ではまれそうにもありませんが」


 突然とつぜん主月しゅげつ先生の内線が鳴った。

「はい、主月です」

「あら、おいそがしいところごめんなさい?」

 校長先生からだった。

「報告書の作成ご苦労さまでした。その件で二三確認したいことがありまして、今少しお時間いいかしら?」

「はい。大丈夫だいじょうぶです」

「校長室でお話聞かせてもらっていい? お忙しいところごめんなさいね?」

「承知いたしました。今おうかがいします」

 主月先生は緊張きんちょうした。報告書の内容はすでに会議で共有済みの合意されたことしか書いていない。教頭先生にも入念に確認してもらってもいる。今更いまさら自分だけに、しかも密室で何を聞くのかと。


 主月先生は校長室の前に着くとノックをした。

「主月です」

「あら、ごめんなさい? 少々お待ちになって?」

 主月先生は呼び出されたにもかかわらず待たされることになった。しかし、今回はいつもとちがって例の機械音は聞こえない。しばらく待っていると中から声がかかった。

主月しゅげつ先生、どうぞ?」

 ドアが開くと部屋からみょうにおいがただよってきた。これは何であろう。香水こうすいだろうか。主月先生がたった今待たされていたのは、校長先生が香水をつけていたからなのだろうか。

 この日、校長先生は緑色のジャケットを着ていた。私がテストで0点を取った時と同じあの緑色のジャケットである。そして、いつものように微笑ほほえみをたたえて主月先生を招き入れたのだった。

「おいそがしいところにごめんなさいね? どうぞ、おかけになって?」

 そううながされたのは、以前に明智光成あけちみつなりも座ったソファーだ。

「今回の主月先生はキャンプの主担当でしたから大変だったんじゃありませんか? ご苦労さまでした。さあ、どうぞ、おかけになって?」

「それでは失礼いたします」

 主月先生はソファーにこしをおろした。それに対して校長先生は、光成の時と同じように日の当たる窓際の自分の席へ座った。このソファーからだと校長先生の顔は逆光で見えなくなる。この日もよく晴れた日だった。室内からだと外がまぶしい。まさに光合成日和である。

「報告書の作成ありがとうございました。あんな事件があって主月先生もおどろいたでしょう?」

「ええ、でも、去年から続いていた事件だったと考えると、解決してよかったと思います」

 主月しゅげつ先生は机の上に手さげカバンが置いてあることに気がついた。このカバンは以前にも見たことがある。これはリンちゃんがトイレの水栓すいせんタンクにかくした時の、稲荷いなりの手さげカバンだった。

「そうね。それにUOKwウアックウがいたことにもおどろきました」

「その件につきましてはご報告申し上げた通り、警察にも知らされていないそうで、みだりに口外しないで欲しいとのことでございました。ただ、UOKwは今回の容疑者を以前からマークしていたのではないかとのことではございましたが」

「そうね。警察のいう通り、あの容疑者をマークしていたのかもしれませんね。ただ、一つ気になっていることがありましてね? あの光合成人間が逮捕たいほされた時にそこにいたのは、学校の関係者では明智あけちさんのチームだけだったのですよね?」

「教頭先生からそう聞いております。会議で教頭先生からもご報告していると思いますが」

「もちろん聞いておりますよ? 報告では、教頭先生が到着とうちゃくした時には、光合成人間がげているところをUOKw隊員が追いかけていたそうですね? その直前には何があったのか、主月先生はお聞きになったでしょうか」

「ご報告で申し上げている通り、明智あけちさんの話では、モミジの木の下で突然とつぜんケチャップをかけられ、とっさにかわした明智さんが光合成人間におそわれたところで、UOKwウアックウ隊員が現れ、撃退げきたいしたとのことです」

「このあたりが曖昧あいまいなのですよね」

「そうですか? 何も曖昧な点はないように思いますが」

「この事件は昨年から続いていて、だれも光合成人間の存在に気づいていなかったのですよね? それなのに、明智あけちさんはなぜ光合成人間の存在に気づいたのでしょう? ケチャップをかわしたということは、光合成人間に気づいたということですよね?」

「さあ。光合成人間は教頭先生のように自然に擬態ぎたいしていて、観察力の高い明智さんがそれに気づいたのではないでしょうか」

「でも、あの光合成人間は教頭先生とちがって何も身につけていなかったのですよね? 警察からの話でもありましたでしょう。あの光合成人間はATP能力持ちで、姿をかくせたのだと。だから今まで光合成人間の存在にだれも気づかなかったのです」

「ぞうですね」

「それでね? 疑問なのですけど、ATP能力で存在をかくしていた光合成人間に、なぜ明智さんは気づいたのでしょうか」

「すみません。正直いって私にはわかりません。また明智さんが光合成人間なのではないかという話ですか? たとえ明智あけちさんが光合成人間であっても何も変わりませんよ!」

 主月しゅげつ先生は校長先生が相手だというのにめずらしく語尾ごびあらげた。

 校長先生は一瞬黙いっしゅんだまった。しかし、逆光のためにどんな表情をしているのかまではわからない。主月先生は強い緊張きんちょうを覚えながら、何かの異変を感じ取った。この部屋に立ちこめているにおいが変わったような気がするのである。

「そう。この話はもう済んでいますので良しとしましょうか。これと合わせてもう一つあってね? 報告ではうちの静香しずかがひどく泣いていたというでしょう? 静香は過敏かびんなところもありますが、報告の内容だけ聞くと、そこまで泣くようなことかどうか、人前でですよ? 今ひとつ納得ができていないのですよね。まあ、こわいことだったとは思うのですが」

 これについては主月先生も気になっているところだった。主月先生が到着とうちゃくした時にはだいぶ落ち着いていたが、その目はかなり泣きはらしていたように見えていたからだ。

「確かに、おっしゃる通りに私も思いましたが、静香さんからは、ネバーウェアにおどろいてしまったのだと聞いております……」

 主月先生はなんだか意識が遠のいていくのを感じた。お酒にっていくような感じがするのである。校長先生の声が夢現ゆめうつつのように曖昧あいまいになっていく。

「教頭先生が到着する前、何があったのか静香から聞いていませんか?」

「はい。聞きいております。ですが……、明智あけちさんと同じ内容でした……」

「明智さんと同じかどうかではなく、静香しずかがいったことをあらためて教えていただけません?」

「そうですね。突然とつぜんケチャップをかけられ、明智さんがそれをかわして、光合成人間がおそってきたところに、UOKwウアックウの隊員が現れて、赤紫色あかむらさきいろのスライムをかけて、げ出したところをつかまえた……、とのことでした」

「そう。その光合成人間はどんな姿でしたの?」

「さあ……。それは聞いていません。はだかだったのではないでしょうか……。おそろしいものを見たのだと思います。かわいそうでなりません……」

「その時、明智さんが何をしていたのか静香はいっていましたか?」

「さあ……。ケチャップをかわしたとのことです」

「本当かしら? 本当は他にもあったんじゃないのですか?」

 校長先生は何もいわず、しばらく主月しゅげつ先生を凝視ぎょうしし続けた。

「あの光合成人間か、明智さんか、いずれかにせよ私の静香に何かをしたのでしたら、私はだれであろうとも絶対に許しません。私はあの子の母親ですからわかるのです。絶対に何かあったのだと。本当は何かをあなたに話しているんじゃありませんの?」

 主月先生から何かを聞き出そうとしているのだろうか? それとも何かをいわせようとでも? これを聞いた主月先生の中に校長先生に対するいかりの感情がこみ上げてきた。

「母親だからわかるですって? だったらなぜ私に聞くのですか! 静香しずかさんご本人に聞いてみればいいじゃないですか!」

 おどろきである。主月しゅげつ先生はこんないい方をする人ではない。それが校長先生相手になぜこんな言葉を口走ったのか。主月先生自身、自分で自分に驚いていた。

「もちろん静香から話は聞いていますよ? ただね? ひょっとすると、私にはいってないことを、あなたには話しているかもしれないと思っているのです。あなた、たいそう静香に近づいているそうじゃない」

「いえ、これ以上は何も聞いていません……」

「本当ですか? 私はあなたを疑っているのですよ!」

「疑う? 私が疑われるようなことをしましたでしょうか」

「大ありですよ! あなた、私にかくし事がありますよね!」

「なんのことでしょう?」

「しらばっくれる気ですか! そうね……、まずはこれ、このカバンですよ。このカバンに見覚えがあるでしょう?」

「はい」

「そういえば、このカバンはあなたが洗ってかわかしてくれたのでしたよね。ありがとうございました。お礼がおそくなってごめんなさい?」

「いえ。とんでもありません」

「けどね。主月しゅげつ先生? このカバンはね、あなたのような素人が洗濯機せんたくきで洗っていいような代物ではないのですよ? ご覧なさい? 形がくずれてしまったでしょう?」

「申し訳ありません。ですが、ひどい状態でしたので、あのままお返しするわけにもいきませんでした。念のため補足ですが、私は洗濯機などで洗っていません。クリーニングにお出ししました。それにこれは昨年の話ですよね? この件もすでにご報告申し上げたはずです。かくし事なんてありません」

うそおっしゃいなさい! あなたはこの件以降、こそこそと静香しずかに接近していますよね! 静香から聞きましたよ? 休みの日に河川敷かせんしきで静香と会っているのですよね? そこで何を話しているのですか!」

「それは私がジョギング中に会うことがたまたま多かったからで、あの件とは関係ありません!」

「私はそこで静香と何を話しているのかと聞いているのです!」

「別に、なんてこともないただの挨拶あいさつみたいな会話です」

「挨拶みたいな会話ですって? あっははははは! あの子がそんなことをするはずがありません! あなたが声をかけているのですよね? なぜ、あなたは静香に近づこうとするのですか!」

 ここで主月先生は先ほどいった理由、たまたまジョギング中に何度か会うことがあったという理由を、いつもだったらそうり返していたはずのところを、どういうわけかこの時は感情をおさえることができず、思ったことがそのまま口に出てしまうのだった。

「あの子のために決まっているじゃありませんか! 私は彼女かのじょの担任ですよ! あの子には人との肯定的こうていてきなコミュニケーションが必要なんです!」

「いうわね。それじゃまるで家庭でコミュニケーションが不足しているようないいっぷりじゃない! あなた! 何様のつもりですか! 私は静香しずかの母親なのですよ! あなたなんかよりも十分にコミュニケーションは取れています!」

「いいえ! そんなことありません! 校長先生も教育者だったらわかりますよね! 静香さんが自分自身のことを極めて否定的に見ていることを! あそこまでの自己否定には、家庭環境かていかんきょうに問題があることは明白です!」

 なんというあからさまないい方であろうか。こんなことはたとえ本当だったとしても面と向かっていうべきではない。しかし、今の主月しゅげつ先生はどういうわけか思ったことが口に出てしまうのだった。

「我が家に問題などありません! 何を根拠こんきょにそんなことをいうのですか!」

「ご両親の不破ふわ人柄ひとがらです!」

 校長先生はATP能力を使って主月先生の本心を引き出すつもりであったが、その本心を目の前にして、逆に自分の感情がむき出しになってしまうのをおさえきれなくなっていた。

「だまらっしゃい! 何を小娘こむすめが! 確かにあの父親は正真正銘しょうしんしょうめいの人間のクズです! それは認めましょう! ですが、私をあのように不浄ふじょうな者と同じにするとは断じて容認できません! あなたに何がわかるというのですか! 私ほどの静香しずかの理解者はいません!」

「あなたは何も理解していません! 静香さんが学校でいじめられていることも認めようとしないんですからね!」

「あっははははは! あなた、静香がいじめられているとお考えなの?」

「その通りですよ! あの子がクラスメイトからいじめを受けていたのは明らかです!」

「静香はいじめなど受けていません!」

「なんですって? そのカバンがどこでみつかったか報告しましたよね! トイレの水栓すいせんタンクの中で水にしずめられていたのですよ! これはいじめではないのですか!」

「我が校にいじめなどありません!」

 これを聞いた主月しゅげつ先生は一瞬いっしゅん絶句した。

「ああ、なるほど! そういうことですか! 確かに学校にとってはいじめがあったことなんて不都合な事実でしょうね! なんてかわいそうなの! 静香さんがあまりにもかわいそうです!」

 そして、その目からなみだがとめどなくあふれ出てきた。どういうわけなのか、主月しゅげつ先生は感情をおさえることができない。

「あなた! よくもまあぬけぬけと! あなたのような年端としはも行かぬ小娘こむすめに、親の気持ちなどわかるものですか!」

 校長先生は手のひらで机をバンとたたいた。

「私は静香しずかに何かした者はだれであろうとも絶対に許しません! いいですか! 絶対にですよ! 我が校にいじめがあったかどうかは関係ありません! あなたもゆめゆめ忘れぬことです! 気をつけなさい!」

 校長先生はここまでいうと、一旦沈黙いったんちんもくした。感情を落ち着かせようとしていたのだろうか。しかし、逆光のせいでその表情を推し量ることはできない。そして、再び口を開くとこういった。

「最後にもう一つだけ確認させてください? 明智あけちさんに何かされたと、静香からは聞いていないのですね?」

「ええ。私は聞いていません」

「そう。わかりました。報告書の内容はこれで結構です。本当に今回のキャンプは大変なことがあってご苦労さまでした」

 そういうと校長先生は立ち上がり、意識が朦朧もうろうとしている主月先生のわきを通りすぎてドアの前に立った。

「今日はこれでよくってよ? ご報告ありがとうございました」

 そういってドアを開ける校長先生の表情は、いつも通りのあのこおりつくような微笑ほほえみをたたえていたのだった。

 主月しゅげつ先生は立ち上がろうとすると、立ちくらみのようなめまいにおそわれた。

「あら、大丈夫だいじょうぶかしら? 気分がすぐれませんの?」

「いえ、大丈夫です。少し頭がぼうっとしてしまって……」

「おつかれのようね? 今回のキャンプは大変でしたものね。今日はゆっくりお休みなさい。連日暑いですから、熱中症ねっちゅうしょうにもお気をつけください?」

「はい。それでは失礼いたします」

 校長先生は満面に微笑みをたたえ、主月先生が出ていくのを見送るとドアを閉めた。


 校長先生は主月先生の足音が聞こえなくなるのを確認すると、窓の前に立って外をのぞきんだ。桜の緑はすっかり色濃いろこくなっていて、窓越まどごしにセミの鳴き声も聞こえてくる。

「あなたにいわれなくたってわかってるわよ。あのカバンをトイレにかくしたのはリンちゃんだったわね。学校としてはもみ消しましたが、私が許すわけがないでしょう?」

 校長先生は暑そうな窓の外から顔をそむけ、自分の椅子いすこしをおろした。

「ふう。結局、主月しゅげつ先生にも何かあったかはいっていなかったようね。たった今彼女かのじょは私の能力にはまっていたのですから、ウソをついていないのは間違まちがいありません。ですが、もっと冷静にならなければ。まさかこの能力を使って、私が取り乱してしまうことがあろうとは。静香しずかのことでこの能力を使う時には注意が必要ね」

 校長先生は机の上の手さげカバンを手にとってながめ始めた。

「主月先生。あなたは確実に生徒たちの心をつかんでいるようね。生徒だけじゃない。職員たちからも信頼しんらいを得ている。まさか静香までもが心を許しつつあったとは。静香に白状させるまで、あなたがこれほど近づいていたとは知りませんでした。でもね? あなたは静香の秘密までは知らなくってよ? あなたなんかに静香の正体を知られるわけにはいかないの。主月先生。あなたは思っていた以上に危険な存在だったわ。若い芽は早いうちにんでおくにしたことはありません。いい先生だと思っていたのに残念だわ。今はそうね、五年生の担任だから、教え子の卒業は見れそうにないわよ。覚悟かくごなさい」


 校長室を出た主月先生は一人でトイレにこもり、声をし殺して泣いた。

 ひとしきり泣いたところで少し落ち着きを取りもどし、職員室で後片付けをしてから、残っていた他の先生に一言だけおつかれ様を伝えて帰途きとについた。

 この日、主月しゅげつ先生はまっすぐに帰るつもりになれず、いつもとちがう遠回りをして、あてもなく歩き続けたいと思った。何か、心を洗い流す必要があると思ったのだ。

 そして、歩きながら学生時代に読んだ『黄金の価値体験』という論文を思い出した。この論文は、幼少期の体験というものが、黄金のように何よりも重く重要なもので、その人の人生が終わるまで決してびることがなく、もっとも光りかがやいたものになるというものだった。確かにその通りだと主月先生も思った。自身の思い出と照らし合わせてみれば、黄金と呼べるものではなかったにしても、それはまばゆく光り輝いたものばかりだったのだ。この論文では、子どもたちに『黄金の価値体験』を授けることが我々教育者の役割なのだという。主月先生はこの論文に大変な感銘かんめいを受けた。そして、その著者が校長を務める小学校の採用試験を受け、見事採用されたのだった。

 主月先生にとって生きる活力や仕事への情熱などといった、黄金色こがねいろに光り輝く元気の源のようなものが、実際のところそれは黄金ではなくて、偽物にせものの鉄くずであったことに、今頃になって気づかされたのだった。


 主月先生が歩いていた道は、稲荷いなりやシロと会っていた川と同じ川沿いの道であったが、場所はまったくの別方向で、この辺りは運動場やドッグランなどとして整備されていた。ちょうどそこには真っ白い秋田犬が元気に走っていて、女の子がその前方を走っているところが見えた。主月しゅげつ先生はそれを見てシロを思い出した。そして、あることに気がついたのだ。

 それはシロに似ているのではなく、シロだったのだ。

 シロとは何度も会っていたとはいえ、主月先生は犬の個体識別ができるわけではない。それがなぜシロだとわかったのかというと、シロよりも速くその前方をけていた女の子が、初めメガネをしていなくて気づかなかったのだが、まごうことなく稲荷静香いなりしずかその人だったからなのである。

 彼女かのじょは全速力で駆ける秋田犬よりも速く走っていた。主月先生でも追いつけなかったあのシロよりも速く。本当はあれほど足の速い子だったのだ。主月先生の前では先生にすら追いつけず、激しく息を切らせていたあの稲荷がだ。あれはウソだったのだ。稲荷はずっと運動神経の悪い子のフリをしていたのだ。そういえばなぜ気がつかなかったのだろう。これほどの大型犬を、あの小さな女の子が一人で連れて歩けるはずもなかったのだから。


「いうわね。私は静香の母親なのですよ? あなたなんかよりも十分にコミュニケーションは取れています!」

「あなたに何がわかるというのですか! 私ほどの静香の理解者はいません!」

「あなたのような年端としはも行かぬ小娘こむすめに、親の気持ちなどわかるものですか!」


 校長先生から浴びせられた罵声ばせいが思い返される。結局、校長先生のいっていた通りなのだ。少しずつ心を開いてくれていると思っていたのは、主月しゅげつ先生の思い上がりだったのだ。

 一日が終わろうとしていても夏の日は長い。セミが鳴く小高い土手の道には桜があり、斜陽しゃようを浴びて葉の緑をますますくしている。間近で鳴いていたセミが主月先生のすぐわきで飛び立つと、静かになって黄昏たそがれだけが残された。

「そりゃそうだよね」

 主月先生は知らぬ間に流していたなみだぬぐい、稲荷いなりに気づかれぬよう顔をそむけて歩き出した。(続く)

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