第十八話 主月先生

 明智あけち大臣は光合成基本法について伊達指だてさし総理と面談を終えたところだった。ちょうど席を立ち始めたところで、総理が近づいて話しかけてきた。

「明智君。後はよろしくたのんだぞ。君のことだからぬかりないだろうが、最後までしっかりと進めてほしい。それでだな、杞憂きゆうであればいいのだが、ちょいと悪い話を耳にしてな」

 総理は部屋に残っていたメンバーに目配せをした。

「悪いが席を外してもらえんか?」

「総理、次がありますので手短にお願いします」

「わかっておる」

 総理はそう答え、全員が部屋から出て行ったのを見届けると、小さな声で話し始めた。

「君の誠実な仕事ぶりについては十分に承知しているつもりだ。だからこそ信頼しんらいしているのだが、逆にな、君はこういった話を知らないかもしれんと思って伝えておきたいことがあるのだ。世の中にはおそろしいヤツほど正体をかくしておる」

「恐ろしいヤツですか……、私の周辺に何者かいましたか?」

 明智大臣はスザンヌが自宅を訪れていたことを思い出した。

UOKwウアックウの長官から私のところに報告があってな、有識者会議のメンバーにサンズマッスルというNPOの代表がいるだろう?」

 明智あけち大臣は胸をなでおろした。ちがう話だったようである。

「はい。光合成人間の就労支援しゅうろうしえんをしている団体で、そういった意味でご意見を頂戴ちょうだいしたいと考えておりました。確かに貧困ビジネスではないかとの意見があることも承知しておりますが、光合成人間の就労支援をしている団体は他にないのが実情でございまして、有識者として不適当にはあたらないと判断しております。事業の調べもついておりますが、何か問題がありましたか?」

「いや、このNPO自体はだね、仮に不祥事ふしょうじがあったとしても影響えいきょうは大きくないだろう。いっちゃ悪いがしょせんNPOだからな。問題を起こせば簡単に切れる。しかしな、この団体がかなり厄介やっかいな者と関わりがあるようなのだ」

「厄介な者……、ですか?」

「そうだ。総理大臣の私がこんな話をするのもなんだが、陰謀論いんぼうろんのような話でな、君は知らんかもしれんと思って耳に入れておきたいのだ。君はアカシックレコードD.E.大学という大学を知っているかね?」

「アカシックレコード?」

「そうだ。アカシックレコードDistrict of the Earthという大学だ」

「存じておりません。勉強不足でおそれ入ります」

「いや、知らなくて当たり前だ。私も外務大臣時代にそれとなく知らされていただけなのだからな」

「その大学は何か物騒ぶっそうなことをしているのですか?」

「反社会的勢力ではない。さっきもいったが、ヘンな話、陰謀論いんぼうろんのような話でな、その大学が裏で世界を牛耳っているとされているのだよ」

「大学がですか?」

「厳密にいうとその卒業生だ。その卒業生たちが世界の富や権力を支配しているという話なのだ。世界中の様々な要職についている者やトップシェアをほこる企業の経営責任者など、経歴で公表されていないが、実はこの大学出身の者が多く、実質この大学の卒業生が世界を支配しているとされているのだよ」

「そんな話が本当にあるんですか?」

「正直いって私も半信半疑だ。だがな、アカシックレコードD.E.大学の校友会、つまり卒業生たちの集まりだな、その事務局を名乗る人物が、今現在、日本に来ているのだよ」

「なんですって?」

UOKwウアックウが秘密裏にこの人物を監視かんししている。だがな、この人物の方が一枚上手らしく、完全には監視できていないらしい。それでUOKwはこの人物を特殊とくしゅ工作員と考えているそうだ」

 ここまで聞いて、明智あけち大臣はやはりスザンヌのことを思いかべた。

「その人物は男ですか? 女ですか?」

 明智大臣はこんなことを聞いて失敗したと思った。するどい伊達指だてさし総理のことだ。性別を聞かれたことに違和感いわかんを持つはずである。なぜ性別を聞くのか、だれか知っているのかと。しかし、総理は何事もなかったように答え始めた。

「男だと聞いている。メロンみたいな色のスーツを着た派手な身なりの男だそうだ。目立つ格好だから監視かんしは簡単だと思われていたんだが、どうもウマくいってないらしい。それでだな、決定的な現場はおさえられていないのだが、この男が例のサンズマッスルというNPOにどうも接触せっしょくしているらしいのだ。調べてみれば、そのNPOの代表が光合成法案の有識者会議に参加しているじゃないか」

「メンバーから外しますか?」

「いや、正当な理由なしに人選を変えれば野党から追求されるだろう。その上、都市伝説や陰謀論いんぼうろんのような話だからな。国会でできる話ではない」

「確か、あの理事長は光合成人間が平等で自由に働ける社会づくりを主張していたはずです」

「それ自体は当然の主張なんだがな。正直言って、私にもそれにどんな裏があるのかわかっていないのだよ。だが、アカシックレコードD.E.大学の目的はおそらく光合成法案だ。有識者会議のメンバーを裏で操って、我が国の法律に関与かんよしようとしている。UOKwウアックウは引き続き監視かんしを続けているから、君はサンズマッスルの意見に注意してくれたまえ」

「承知しました」

「よろしくたのんだぞ。それともう一つ、これもUOKwウアックウ長官からの報告なのだが、君の息子がその男に尾行びこうされていたのだ」

「な、なんですって?」

「その男の目的が光合成法案だとすれば、国益に悪影響あくえいきょうおよぼす事案だ。担当大臣である君の息子は保護対象になった。君の息子には秘密で身辺警護にあたる。だがな、その男はただ者ではないようなのだ。UOKwが監視かんししているとはいえ、最悪のことになれば君を脅迫きょうはくするかもしれん。その時は私にかくし事はせんことだ」

「しょ、承知しました」

「そういえば、話は変わるが、おくさんは元気か?」

 伊達指だてさし総理はやはりするどい。性別を聞かれたことに引っかかっていたのだ。

「妻ですか? それが、ご存知の通り妻とはもう何年も連絡れんらくを取れていなくて……」

「確か国連の関連機関で働いているそうだったな」

「ええ」

 ドアの外から総理に呼びかける声がした。

「総理、時間です」

「わかった。すぐ行く。明智君あけちくん、私にかくし事はこれからもこれまでもなしだ。いいな? それではたのんだぞ」

 伊達指だてさし総理はドアへ向かって歩き出し、明智大臣も後に続いた。


 明智光成の担任である主月しゅげつ先生の趣味しゅみはジョギングだった。

 その日は休みだったので、ランニングウェアにキャップという出で立ちで、まだ暑くない朝のうちに表に出たところだった。この日も朝から快晴で、連日続いた熱帯夜のために気温が下がりきっておらず、走るにつれてあせが流れてくる。

 家から続く住宅街をけ、川沿いの道に出ると一気に景色が広がった。河川に沿って走ることのなんと気持ちのいいことか。仕事のストレスなど、汗とともにすべて発散されてしまうような気持ちになる。

 しばらく進んでいくと、前方に白い大型犬と女の子の姿が見えてきて、走っていた主月先生はすぐに追いつき、タオルで汗をぬぐいながらその子に元気よく声をかけた。

「おはよう!」

 声をかけられた女の子は、主月先生に気がつくとせ目がちにあいさつを返した。

「あ、先生……、おはようございます」

「また会ったね。今日も散歩? シロもおはよう!」

 シロは主月しゅげつ先生の顔を見ると、後ろ足だけで立ち上がって喜び出した。

「お前は元気そうでよかったな!」

 主月先生はシロをわしゃわしゃとなでた。慣れた様子である。それもそのはずで、シロと主月先生が会うのはこれが初めてではなかったのだ。主月先生はジョギング中に散歩をしているシロとこれまで何度となく出会っていたのである。シロの方では主月先生をいい遊び相手だと思っていた。稲荷静香いなりしずかは活発な子ではなかったからシロと一緒いっしょに走ることはなかったものの、主月先生が代わりにリードを持てば、河川敷かせんじきで一緒に走ることができたのだ。

「ハッハッハッ!」

 シロはなでられながら、稲荷のリードを持つ手元を、チラッ、チラッとしきりに目くばせした。リードを早く先生にわたせといっているのである。

「もう、シロったら」

 思わず稲荷の顔がほころんだ。

「ほら! シロが早く代われっていってるよ!」

「ハッハッハッ!」

「わかったよ、シロったらもう。先生、ごめんなさい」

「いいって! いいって! ほら、シロ! 行くよ!」

 リードが主月しゅげつ先生にわたされると、シロは一目散に河川敷かせんじきけ出した。

 主月先生は抜群ばつぐんに運動神経がよく足も早い。ランニングウェアを着たその姿はまさに陸上選手そのもので、シロを追いかけてあっという間に遠ざかっていってしまった。シロは河川敷の開けた場所に出ると、大きな楕円だえんえがくように走りまわり、主月先生も負けじと全力で走ったが、さすがにシロの方が速くてどんどんリードがびていった。

 シロは元気だ。それに楽しそうだった。

 今まで何度も見てきた光景。シロはすっかり主月先生に慣れてしまっていた。

 この日はいつもとちがって、稲荷いなり一緒いっしょに走りたいと思い始めていた。そして、河川敷に降りていき、シロと主月先生を追ってひかえめながらも駆け出したのである。

 これに気づいたシロは方向転換ほうこうてんかんして、稲荷の方に向かって駆け出すと、もうスピードで通りけていく。そして、また向きを変えたかと思うと、稲荷に向かってきては、猛スピードで通り抜けていくのだった。その際、後を追う主月先生ともすれ違うのである。

「ハッハッハッ!」

「よお!」

 主月しゅげつ先生はすれちがう時に声をかけた。それは稲荷いなりを中心にして8の字をえがくようにり返され、その度に、いちいちシロと主月先生がすれ違っていくのである。

「ハッハッハッ!」

「よお! また会ったな!」

「ちょっと待ってよ! シロ!」

 稲荷も追いかけたがぜんぜん追いつけない。そうこうしているうちに、またシロが全力でもどってくる。

「ハッハッハッ!」

 シロにおくれて主月先生も通りけていく。

「どうした? ついてこいよ!」

「待ってったら! ちょっと、先生も速い!」

「ハッハッハッ!」

 これを何度となく繰り返したところで主月先生はスピードを落とし始めた。

「はあ! はあ! はあ! さすがにつかれてきた! ちょっと、シロ! ストップ!」

 主月先生は地面にあお向けになってたおれた。リードが限界までびたところで、シロが気づき、走って戻ってくる。

「ハッハッハッ!」

「お前はほんとに元気だな! 今日も負けたよ!」

 稲荷いなり主月しゅげつ先生のそばまで来てこしをおろした。

「はあ、はあ、はあ」

 稲荷の息も上がっていた。シロが尻尾しっぽをふりふり稲荷の顔をなめはじめる。

「シロはまだ走り足りなそうだな」

「はあ、はあ、はあ。よかったね。シロ。先生と一緒いっしょに走ってもらって」

「いやあ、先生もいい運動になったよ。もう限界だけどな」

 そういって、主月先生はあお向けのまま空を見上げた。


 日はだいぶ高いところまでのぼっていた。鳥がゆっくりと円をえがいて飛んでいるのが上空に見える。

「あそこに上昇気流じょうしょうきりゅうがあるのかな」

 主月しゅげつ先生がそういうのを聞いて、稲荷は座ったまま上空を見上げた。

「私も先生みたいに走れたらなあ」

 主月先生はあお向けのまま顔だけ稲荷の方に向けた。

「先生はもう大人だからな。稲荷はこれから成長するんだから、今よりもっと走れるようになるよ」

「そんなわけないよ。私が大人になったって、先生みたいに走れるわけない」

 主月先生はこの返事に何か引っかかりつつも会話を続けた。

「わからないよ? 稲荷いなりは稲荷なんだし……」

 ここまでいって、次に何をいうべきか、それがすごく重要なことのように思えてきて、突然とつぜん言葉につまった。

 稲荷がこんな普通ふつうに会話をしてくれている。今までにこんなことはなかった。こんなことは初めてのことだった。


 これまで稲荷を受け持った担任の先生たちは、彼女とコミュニケーションをとろうとして失敗してきた。ベテランの教師が担任にあたったこともあったが、稲荷にどんなアプローチをしても、その心が開かれることは決してなかったのである。実際に主月先生が担任になってからもそれは変わることはなく、学校で話しかけても対話に応じることはなかった。主月先生の趣味がジョギングでなかったら、それまでの担任と同じ結果になっていたはずだった。

 ジョギング中に稲荷静香いなりしずかと出会ったのは、熱中症ねっちゅうしょう対策で朝走ることにしはじめた時のことだったから、ちょうど一年くらい前のことだったか。まだ主月先生が担任になる前のことで、その頃から稲荷のことを知っていたのは、校長先生の娘ということもあって、教員で知らぬ者はいなかったからだ。その日は話しかけるなどせず、かした時に軽く会釈えしゃくをする程度にとどめてそのまま走り去るだけにした。あれは本当に偶然ぐうぜんだった。

 その次の週も、同じ時間帯をねらってジョギングに出かけてみた。稲荷静香は自分が散歩をしているところを学校の教員に知られ、時間やコースを変えている可能性があった。しかし、その不安は的中せず、この日もシロと散歩をしていたところに出会えたのである。今となって考えてみれば、シロが散歩に行きたがって、この時間、この場所でなければならなかったのかもしれない。この日はあいさつぐらいなら声をかけてみようかとも思ったが、注意深く様子をうかがいながら、念には念を、無闇むやみみこんで警戒けいかいされぬよう、会釈だけにして走り去った。

 主月先生が「おはよう」と声をかけたのはその次の週だった。しかし、それだけで、そのまま何もせず走り去ることにした。

 このように主月しゅげつ先生はちょっとずつ、稲荷いなりの様子を注意深く見守りながら、少しずつ、一つ一つ距離きょりを縮めていったのである。ある日はシロにもあいさつし、ある日はシロをなで、そして、ある日にはとうとうリードを借りてシロと一緒いっしょに遊んでみたというように。

 こうして今日にいたり、初めてこのような普通ふつうの会話ができたのである。


「私も先生みたいに走れたらなあ」

 稲荷がこういったのは、率直な気持ちをいってくれているように思えてうれしかった。率直な気持ちをいえる相手。それは他人であってはならない。今まで少しずつ開いてくれた心が、再び閉ざされてしまわないよう、ていねいに受け答えしなくては。

「先生はもう大人だからな。稲荷はこれから成長するんだから、今よりもっと走れるようになるよ」

 先ほど主月先生がこう答えたのは、稲荷の運動神経がいいとはいえないことに配慮して、注意深く答えたつもりだった。しかし、稲荷は続けてこういった。

「そんなわけないよ。私が大人になったって、先生みたいに走れるわけない」

 これは大人が謙遜けんそんするのと同じようにいったわけではない。子どもらしく、率直といえば率直といえる言葉ではあったものの、ずいぶんと自分に対して否定的なものであった。

 これに対して「わからないよ? 稲荷いなりは稲荷なんだし……」といいかけ、続けて「そのうち得意なことが見つかるかもしれないよ」というつもりだった。あるいは「好きなこと」が見つかるかもしれないというようなことを。

 これは大人視点で考えれば一見いいことのように思えた。子どもの「好きなこと」や「得意なこと」といったそれぞれの個性を尊重しているからだ。しかし、子どもからしたらどうなのであろう。自分で「得意」といえることなど、すべての子どもにあるだろうか? もしくは「好きなこと」だったらどうだろう。物心ついた時から、自分の好きなことを友だちや両親と共感できていればそれでよい。しかし、稲荷の場合、心を閉ざしたこの様子を見れば、「好きなこと」を肯定されてきたというよりは、むしろ否定されてきたといった方が正しいのではないだろうか。そうだとすれば、成長するにつれて、人に自慢じまんできるような「好きなこと」が自分に見つかるなんて、現時点で稲荷が思えるわけがない。「得意なこと」となればなおさらのことだ。おそらく、稲荷には人にいえる「好きなこと」や「得意なこと」などない。

「稲荷は稲荷なんだし……」

 主月しゅげつ先生はこういいかけたが、これも大人視点で見れば、個性を尊重した一見いいことのように見えた。しかし、稲荷からすればどうなのだろう。得意なことなどなく、学校でいじめられ、他の生徒と話さぬこの子が、自分の個性を尊重されたなどと果たして思うだろうか。「稲荷いなりは稲荷なんだし」という言葉は、主月先生としては肯定的こうていてきな意味でいったつもりだったが、逆に自己否定している者にとっては否定的な意味になるのではないか。つまり、「運動神経の悪い自分は大人になったとしても運動神経は悪いままなのだ」とか、「いじめられっ子は何をどうがんばったところでいじめられっ子のままなのだ」と。

 主月しゅげつ先生は、自分としては良かれと思っていったつもりだったものの、逆に否定的に受け取れることをいったかもしれないと気づいて、あせって身を起こし、稲荷の顔を見た。

 大きめのメガネに小さい顔。

 白くツバの広い帽子ぼうしをかぶり、清潔な薄水色うすみずいろのワンピースを身にまとった稲荷を。


 この服装に主月先生はそこはかとなく違和感いわかんを覚えていた。大人から見れば可愛らしい服装ではあったが、この年頃としごろの女の子が好みそうな服装ではないのである。五年生といえば小学校の高学年。この多感になり始める年頃の女の子たちがしたい服装というのがある。しかし、稲荷がそういった服を着ていたところを一度も見たことがないのだ。稲荷は本当にこんな服が着たいのだろうか。服装だけではない。持ち物だってそうだ。

 あの時もそうだった。


 あれは半年、いや、一年前だっただろうか、主月しゅげつ先生が稲荷いなりの担任になる前の学年の時だった。当時、稲荷がいるクラスの中心的メンバーの女子たちが、稲荷の手さげカバンをかくしてしまったことがあった。そのカバンはさる高名なブランドの限定品だったらしく、稲荷の母はそのカバンを気に入っていたものの、自分が使うには若者向けのデザインだったため稲荷に持たせていたのである。しかし、それがなくなってしまったのだ。

 稲荷はこのカバンを持たずに家へ帰るわけにはいかなかった。持ち物はすべて母親にチェックされていたから、そのカバンがないことはまたたく間にバレてしまう。あのカバンがなくなったことを知った母は、どれだけおこるだろうか。稲荷にとってこれほどおそろしいことはなく、あってはならないことだった。

 稲荷は家に帰らず学校に残ってカバンを探した。しかし、カバンは見つからず、そのうち暗くなってきて、警備員さんが戸締とじまりで回ってきても、ロッカーの中にかくれて学校に残った。シロの散歩に行かなければならなかったのに、カバンが見つかる見込みこみもない。警備員さんが立ち去るのを、じっと息を殺して待つしかなかった。

「ゴメンねシロ……。ゴメンね……」

 警備員さんが行ってからしばらくした後、稲荷がロッカーから出ると辺りは薄暗うすぐらくなっていた。だれもいない教室に一人ぼっちでいると、心細くて泣き出しそうになる。いや、すでになみだがこぼれていた。

 教室の中はリンちゃんの机もその他もみんな探した。しかし、この教室の中ではどこにも見つからない。他の場所にかくされているのだ。どこだろう。学校のすべてを探すとしたら、どんなに時間がかかるのだろうかと想像して、稲荷いなりの涙は止まらなくなった。


 見回りと戸締とじまりを終えた警備員さんが職員室に顔を出すと、そこには主月しゅげつ先生だけが残業をして残っていた。

「主月さん。……まで……ですなあ。…………は……………たんで。通用口前の警備は解除してありますから、帰る時にはお声掛こえかけください」

 主月先生は報告書に集中していたため、警備員さんがいっていた前半部分を聞きもらしていた。おそくなってしまったのでかなりあせっていたのである。

「ありがとうございます。もう少しで終わります。警備員さんも遅くまですみません」

「いえいえ、私はまだ勤務中ですから。それじゃあまた」

 この日、主月先生は報告書を書くために残業をしていた。報告書はほぼ書き終わっていて、後は読み返して、おかしいところがないか確認するだけだった。すると、職員室のドアが再度開けられる音がするので、警備員さんかと思い横目でそちらの方を見ると、入ってきたのは警備員さんではなく、学校の生徒だった。

 この女の子は、確かとなりのクラスの子だった。名前は何だったか、主月しゅげつ先生は思い出すことができないでいた。

「どうしたの? こんな時間に」

 その女の子は何も答えなかった。主月先生は忘れ物だと思った。

「忘れ物ね? こんな時間に大変だったね。先生と取りに行こう?」

 すると女の子はしくしくと泣き始めた。

「リンちゃんはナイショだっていうんだけど、あたし、あたし」

「どうしたの? ナイショにしてることがあるの?」

「うん。でもリンちゃんがナイショだって」

「ナイショなんだね? それで先生に教えに来てくれたの?」

「ううん」

「じゃあ、学校に用があって来たの?」

「うん」

「じゃあ、先生もナイショにするから、先生が行ってくればいい? 教室?」

「ううん。かくしてあるから私が行かないと見つからない」

「何かがかくしてあるのね? 教室?」

「教室じゃない」

「じゃあどこ?」

「トイレ」

 主月しゅげつ先生は女の子を連れて職員室を出た。すでに薄暗うすぐらくなっていたので明かりをつけてから、階段を上り、わた廊下ろうかをわたった先の二階へ向かう。四年生の教室は二階にあったのだ。

 二階の渡り廊下をけ、教室がある廊下に出た時だった。廊下の明かりをつけ、前に進もうとしたその時、主月先生にある懸念けねんがふいにかんで、前に出した足に体重がかかるのをなんとか止めた。しかし、その足に体重は乗っていなかったとはいえ、勢いで足が床についてしまったところ、突然とつぜんドスンと大きな音をたててゆかが下に開いたのだった!

 この廊下は落とし穴だったのだ!

 警備員さんがすでに警備システムを作動させていたのである。床がなくなった廊下から、薄暗い一階の廊下までが筒抜つつぬけになり、そこに赤いレーザーが張りめぐらされているのが見えた。主月先生はあそこへ落ちていたかもしれないことを想像するとゾッとした。

 あまりの出来事に女の子は大声で泣き出した。

「ゴメンね! おどろかせちゃって! 先生うっかりしてた! 警備システムが作動しちゃってたから、警備員さんを呼びに行こう!」

「うあああああん! 警備員さんなんてダメ! ぜったいダメ!」

 女の子は驚いたこともあったが、リンちゃんにナイショだといわれていたのに、大事おおごとになってしまってこわくなってきたのだ。

「ゴメンね! 先生にもどうにもできないから警備員さんを呼ぶよ!」

 そういって主月しゅげつ先生は、泣きじゃくる女の子を連れてわた廊下ろうかもどった。するとその時である。渡り廊下のおくからドスン、ドスンと、何か重いものが走ってくる音がしたのである。

「ウソでしょう……」

 あの人体模型が異変を察知してやって来たのだ!

「絶対に声を出したり動いたりしないで! 絶対にだよ!」

 主月先生は女の子の耳元で強くささやくと、ヤツが見えないように女の子の両目をおおった。

 ドス、ドス、ドス、ドス、ドス!

 主月先生は女の子を強くきしめ、自身も恐怖きょうふこおりつきながら人体模型を見つめた。ヤツは主月先生の顔を直視しながら近づいて来る! その両目はまるで意思を持っているかのように主月先生を見すえているのだ!

 光成の時もそうだったが、この人体模型は明らかに人の顔を見ている。

 というのもこの人体模型は、人の顔を認識しているのだ。人の顔を認識しつつも動かなければ攻撃対象こうげきたいしょうとしないのは、顔のようなものがあったとしても、それが人ではない場合があるからなのである。

 例えば肖像画しょうぞうがだ。

 人体模型が音楽室の前を通ったところを想像してみてほしい。音楽室のかべにはモーツアルトやベートーベンなどの高名な音楽家の肖像画がかざられている。人の顔であれば無差別に攻撃こうげきする設計になっていれば、音楽室の前を通る度にあの人間離れした攻撃が発動されて、その度に肖像画だけでなく、それらが飾られた壁までもがめちゃくちゃに破壊はかいされてしまうのである。学校としてはたまったものではない。

 そういうわけで、人の顔は認識しつつも攻撃しない設計になっていたのであるが、逆にいうと、人の顔が動いたり音を出したりすると、容赦ようしゃなく攻撃が始まるのだ。

 主月しゅげつ先生は恐怖きょうふで動くことができなかった。先生の方はまだしも、女の子の方ではどうであろう。この恐怖の光景を見せないように、女の子の両目をおおった主月先生の手のひらは小刻みなふるえを感じ取っていた。息が早くなり心臓の鼓動こどうも早くなっている。もはや限界だ!

 もしこの子が大声を出してしまったら、命にかえても自分が守らなければ……。主月先生は覚悟かくごを決めた。

「主月さーん! 主月さんですかー!」

 警備員さんの声だ! 警備員さんが職員室の方の階段をけ上がってきてくれたのだ! 人体模型はそれに反応して階段の方を向いた!

「はっ! 主月さん! そのまま! そのまま動かないで!」

 警備員さんが駆け寄ってくる。しかし、人体模型には攻撃こうげきする気配がない。ぼんやりとそちらの方を見つめながらっ立っているだけなのである。この人体模型は顔を認識しているが、実は警備員さんの顔も認識していて、この顔は攻撃対象から除外するように設定されていたのである。警備員さんはスタスタと近づき、後頭部のボタンをしてスイッチを切った。そして、例の「シュウリョウシマス」という音声が流れると、女の子は体を大きくふるわせて悲鳴を上げた。

 警備員さんはこんな時間に学校の生徒がいることにおどろいた。

「その女の子は……?」

「この子は……、トイレに忘れ物があって学校にもどってきたんです。私が一緒いっしょに取りに行こうとしたのですが、申し訳ありません、廊下ろうかの落とし穴を発動させてしまったのです。それで警備員さんを呼びに行こうとしたところで、この人体模型と遭遇そうぐうしまったのです」

 女の子は泣き出した。

「おお、こわかったね。おじさんが来たからもう大丈夫だいじょうぶだよ」

 警備員さんは、女の子の顔の高さまでこしを下ろしながらいった。

「ちょっと廊下を見てきますね」

 そして、立ち上がってスタスタと歩き、廊下の様子を見に行った。

「もう大丈夫だよ。警備員さんも来てくれたからね」

 しかし、女の子は泣き止まなかった。それもそのはずである。どんなに優しく接したところで、警備員さんが来た時点ですでに取り返しのつかない大事になっているのだから。すぐに警備員さんはもどってきた。

「いやあ、見事にゆかがなくなってましたな。私も実際に見るのは初めてです。こわかったでしょう。驚いちゃったんだね。おじさんが廊下ろうかを元にもどしてくるからね」

 警備員さんが警備端末けいびたんまつを操作しに行って、廊下は無事元通りになった。そして、今度は念のため警備員さんも一緒いっしょにトイレへ行くことになった。

「私が忘れ物を見つけていればよかったんですが、女子トイレも見回りしたんですがねえ。何かあったかな? まあ、女子トイレなんで、それほど入念には見てなかったんですが。さあ着きましたよ。私はここで待ってますからどうぞ」

 主月しゅげつ先生と女の子が女子トイレに入ってみたところ、やはり警備員さんのいった通り何も見当たらない。

「このトイレに何かがあるの?」

 主月先生が聞くと女の子はうなずいて、真ん中にある個室の水洗用タンクを指さした。

「この中?」

 主月先生がタンクのふたを開けてみると、中に何かがかんでいるのが見え、それを取り出して広げてみたところ、ずぶぬれになった手さげカバンであることがわかった。

「これでいいの?」

 女の子はうなずいた。

「よかった。それじゃあ、一度職員室に戻ろうね」

 主月しゅげつ先生はそれを流しで軽くしぼってからトイレの外に出た。

「いやあ、見つかりましたか。よかったねえ。それで、ちょっとですね、主月さん。さっきから気になってることがあるんですが、あの教室から何か聞こえませんか?」

「あの教室ですか?」

 主月先生は耳をすましてみると、確かに何か聞こえる。これはなんだろうか。だれかが小さな声で嗚咽おえつしているように聞こえる。まさか、幽霊ゆうれい

「見に行きましょう。ちょっとここで待っててね」

 女の子にはトイレの前で待ってもらうとして、警備員さんと主月先生がかすかに嗚咽のする教室へ向かった。教室のとびらの前に立つと、確かにその裏で誰かが泣いているようである。

「私が開けますよ」

 警備員さんはそういって緊張きんちょうの面持ちで扉を開けた。そこにいたのは、真っ暗な教室で一人うずくまって泣いている、稲荷静香いなりしずかの姿であった。


 風がいて稲荷の白い帽子ぼうしがはためいた。そのすぐそばでシロが何かかおるのか、鼻を上げて風の香りをいでいる。この日も朝から快晴で、だいぶ日差しも強くなってきていたが、主月先生はまだ次の言葉を出せないでいた。

 稲荷はいった。「そんなわけないよ。私が大人になったって、先生みたいに走れるわけない」と。

 この言葉の意味するところは、つまり、そもそも自分は何をやっても駄目だめで、たとえ大人になっても自分は駄目なままなのだと、自己否定していることを意味しているにほかならない。

 何か肯定こうていしなければ。しかも、稲荷が肯定的こうていてきと感じられるような形で。主月しゅげつ先生自身が良かれと思っていったことでも、稲荷いなりにとって否定的に取られては逆効果だ。自己肯定を大人の立場から強要したり、大人が良かれと思っていったことを正当化するような恩着せがましさがあったりしてはならない。子どもはいい返せないのである。本人視点に立って、そっと肯定しなければ。

 今までどうやって関係を縮められてきた? よく考えるんだ。何かあったはずだ。今日、これだけ話ができるまでに、何かがあったはずだ!

「だけどさ、シロは……」

 主月先生は思った。今まで主月先生と稲荷をつないでくれたのは他でもなくシロだった。シロがいてくれたことは主月先生にとっても幸運だったのだ!

「だけどさ、シロはどう思ってるのかな。シロのご主人様は稲荷なんじゃない? 先生みたいに走れなくたってさ、今までもそうだったでしょう? いいんじゃないかな。稲荷は稲荷で」

「でも、シロったら、先生がいると大喜びでけ出すから、本当は私なんかよりも先生といた方が楽しいんじゃないかって」

 主月しゅげつ先生はまた失敗をしたかもしれないと思った。しかし続けた。きっとシロがつなげてくれるにちがいないと信じて。

「いやあ、そういってくれるとうれしいけどね」

 まずは稲荷いなりの発言を否定しなかった。

「だけどさ、先生はシロにとってただの遊び相手だよ。稲荷はそう思ったかもしれないけど、先生から見たらさ、シロが一番なついているのは稲荷だよ」

「そうかなあ」

「だってほら、さりげなく先生じゃなくて稲荷のそばにすわってるでしょ?」

 こういわれて稲荷はずかしそうにシロの方を見た。すると、シロが稲荷の顔をなめる。

「もう、シロったら」

 この時の稲荷の表情はとてもやわらかかった。学校でこんな表情を見たことはない。

 今のは正解だったのだろうか。別に正解でなくてもいい。劇的に彼女かのじょが変わらなくたっていい。まずは今の彼女を受け入れることが大切だ。試合をひっくり返すホームランなんて必要ない。ヒットすら必要ない。次へつなぐ送りバントでいい。バントでいいからとにかく次につなげるんだ。少しずつ、一つ一つ次へ……。(続く)

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