第十八話 主月先生
「明智君。後はよろしく
総理は部屋に残っていたメンバーに目配せをした。
「悪いが席を外してもらえんか?」
「総理、次がありますので手短にお願いします」
「わかっておる」
総理はそう答え、全員が部屋から出て行ったのを見届けると、小さな声で話し始めた。
「君の誠実な仕事ぶりについては十分に承知しているつもりだ。だからこそ
「恐ろしいヤツですか……、私の周辺に何者かいましたか?」
明智大臣はスザンヌが自宅を訪れていたことを思い出した。
「
「はい。光合成人間の
「いや、このNPO自体はだね、仮に
「厄介な者……、ですか?」
「そうだ。総理大臣の私がこんな話をするのもなんだが、
「アカシックレコード?」
「そうだ。アカシックレコードDistrict of the Earthという大学だ」
「存じておりません。勉強不足で
「いや、知らなくて当たり前だ。私も外務大臣時代にそれとなく知らされていただけなのだからな」
「その大学は何か
「反社会的勢力ではない。さっきもいったが、ヘンな話、
「大学がですか?」
「厳密にいうとその卒業生だ。その卒業生たちが世界の富や権力を支配しているという話なのだ。世界中の様々な要職についている者やトップシェアを
「そんな話が本当にあるんですか?」
「正直いって私も半信半疑だ。だがな、アカシックレコードD.E.大学の校友会、つまり卒業生たちの集まりだな、その事務局を名乗る人物が、今現在、日本に来ているのだよ」
「なんですって?」
「
ここまで聞いて、
「その人物は男ですか? 女ですか?」
明智大臣はこんなことを聞いて失敗したと思った。するどい
「男だと聞いている。メロンみたいな色のスーツを着た派手な身なりの男だそうだ。目立つ格好だから
「メンバーから外しますか?」
「いや、正当な理由なしに人選を変えれば野党から追求されるだろう。その上、都市伝説や
「確か、あの理事長は光合成人間が平等で自由に働ける社会づくりを主張していたはずです」
「それ自体は当然の主張なんだがな。正直言って、私にもそれにどんな裏があるのかわかっていないのだよ。だが、アカシックレコードD.E.大学の目的はおそらく光合成法案だ。有識者会議のメンバーを裏で操って、我が国の法律に
「承知しました」
「よろしく
「な、なんですって?」
「その男の目的が光合成法案だとすれば、国益に
「しょ、承知しました」
「そういえば、話は変わるが、
「妻ですか? それが、ご存知の通り妻とはもう何年も
「確か国連の関連機関で働いているそうだったな」
「ええ」
ドアの外から総理に呼びかける声がした。
「総理、時間です」
「わかった。すぐ行く。
明智光成の担任である
その日は休みだったので、ランニングウェアにキャップという出で立ちで、まだ暑くない朝のうちに表に出たところだった。この日も朝から快晴で、連日続いた熱帯夜のために気温が下がりきっておらず、走るにつれて
家から続く住宅街を
しばらく進んでいくと、前方に白い大型犬と女の子の姿が見えてきて、走っていた主月先生はすぐに追いつき、タオルで汗をぬぐいながらその子に元気よく声をかけた。
「おはよう!」
声をかけられた女の子は、主月先生に気がつくと
「あ、先生……、おはようございます」
「また会ったね。今日も散歩? シロもおはよう!」
シロは
「お前は元気そうでよかったな!」
主月先生はシロをわしゃわしゃとなでた。慣れた様子である。それもそのはずで、シロと主月先生が会うのはこれが初めてではなかったのだ。主月先生はジョギング中に散歩をしているシロとこれまで何度となく出会っていたのである。シロの方では主月先生をいい遊び相手だと思っていた。
「ハッハッハッ!」
シロはなでられながら、稲荷のリードを持つ手元を、チラッ、チラッとしきりに目くばせした。リードを早く先生にわたせといっているのである。
「もう、シロったら」
思わず稲荷の顔がほころんだ。
「ほら! シロが早く代われっていってるよ!」
「ハッハッハッ!」
「わかったよ、シロったらもう。先生、ごめんなさい」
「いいって! いいって! ほら、シロ! 行くよ!」
リードが
主月先生は
シロは元気だ。それに楽しそうだった。
今まで何度も見てきた光景。シロはすっかり主月先生に慣れてしまっていた。
この日はいつもと
これに気づいたシロは
「ハッハッハッ!」
「よお!」
「ハッハッハッ!」
「よお! また会ったな!」
「ちょっと待ってよ! シロ!」
稲荷も追いかけたがぜんぜん追いつけない。そうこうしているうちに、またシロが全力で
「ハッハッハッ!」
シロに
「どうした? ついてこいよ!」
「待ってったら! ちょっと、先生も速い!」
「ハッハッハッ!」
これを何度となく繰り返したところで主月先生はスピードを落とし始めた。
「はあ! はあ! はあ! さすがに
主月先生は地面にあお向けになってたおれた。リードが限界まで
「ハッハッハッ!」
「お前はほんとに元気だな! 今日も負けたよ!」
「はあ、はあ、はあ」
稲荷の息も上がっていた。シロが
「シロはまだ走り足りなそうだな」
「はあ、はあ、はあ。よかったね。シロ。先生と
「いやあ、先生もいい運動になったよ。もう限界だけどな」
そういって、主月先生はあお向けのまま空を見上げた。
日はだいぶ高いところまで
「あそこに
「私も先生みたいに走れたらなあ」
主月先生はあお向けのまま顔だけ稲荷の方に向けた。
「先生はもう大人だからな。稲荷はこれから成長するんだから、今よりもっと走れるようになるよ」
「そんなわけないよ。私が大人になったって、先生みたいに走れるわけない」
主月先生はこの返事に何か引っかかりつつも会話を続けた。
「わからないよ?
ここまでいって、次に何をいうべきか、それがすごく重要なことのように思えてきて、
稲荷がこんな
これまで稲荷を受け持った担任の先生たちは、彼女とコミュニケーションをとろうとして失敗してきた。ベテランの教師が担任にあたったこともあったが、稲荷にどんなアプローチをしても、その心が開かれることは決してなかったのである。実際に主月先生が担任になってからもそれは変わることはなく、学校で話しかけても対話に応じることはなかった。主月先生の趣味がジョギングでなかったら、それまでの担任と同じ結果になっていたはずだった。
ジョギング中に
その次の週も、同じ時間帯をねらってジョギングに出かけてみた。稲荷静香は自分が散歩をしているところを学校の教員に知られ、時間やコースを変えている可能性があった。しかし、その不安は的中せず、この日もシロと散歩をしていたところに出会えたのである。今となって考えてみれば、シロが散歩に行きたがって、この時間、この場所でなければならなかったのかもしれない。この日はあいさつぐらいなら声をかけてみようかとも思ったが、注意深く様子を
主月先生が「おはよう」と声をかけたのはその次の週だった。しかし、それだけで、そのまま何もせず走り去ることにした。
このように
こうして今日にいたり、初めてこのような
「私も先生みたいに走れたらなあ」
稲荷がこういったのは、率直な気持ちをいってくれているように思えて
「先生はもう大人だからな。稲荷はこれから成長するんだから、今よりもっと走れるようになるよ」
先ほど主月先生がこう答えたのは、稲荷の運動神経がいいとはいえないことに配慮して、注意深く答えたつもりだった。しかし、稲荷は続けてこういった。
「そんなわけないよ。私が大人になったって、先生みたいに走れるわけない」
これは大人が
これに対して「わからないよ?
これは大人視点で考えれば一見いいことのように思えた。子どもの「好きなこと」や「得意なこと」といったそれぞれの個性を尊重しているからだ。しかし、子どもからしたらどうなのであろう。自分で「得意」といえることなど、すべての子どもにあるだろうか? もしくは「好きなこと」だったらどうだろう。物心ついた時から、自分の好きなことを友だちや両親と共感できていればそれでよい。しかし、稲荷の場合、心を閉ざしたこの様子を見れば、「好きなこと」を肯定されてきたというよりは、むしろ否定されてきたといった方が正しいのではないだろうか。そうだとすれば、成長するにつれて、人に
「稲荷は稲荷なんだし……」
大きめのメガネに小さい顔。
白くツバの広い
この服装に主月先生はそこはかとなく
あの時もそうだった。
あれは半年、いや、一年前だっただろうか、
稲荷はこのカバンを持たずに家へ帰るわけにはいかなかった。持ち物はすべて母親にチェックされていたから、そのカバンがないことはまたたく間にバレてしまう。あのカバンがなくなったことを知った母は、どれだけ
稲荷は家に帰らず学校に残ってカバンを探した。しかし、カバンは見つからず、そのうち暗くなってきて、警備員さんが
「ゴメンねシロ……。ゴメンね……」
警備員さんが行ってからしばらくした後、稲荷がロッカーから出ると辺りは
教室の中はリンちゃんの机もその他もみんな探した。しかし、この教室の中ではどこにも見つからない。他の場所にかくされているのだ。どこだろう。学校のすべてを探すとしたら、どんなに時間がかかるのだろうかと想像して、
見回りと
「主月さん。……まで……ですなあ。…………は……………たんで。通用口前の警備は解除してありますから、帰る時にはお
主月先生は報告書に集中していたため、警備員さんがいっていた前半部分を聞きもらしていた。
「ありがとうございます。もう少しで終わります。警備員さんも遅くまですみません」
「いえいえ、私はまだ勤務中ですから。それじゃあまた」
この日、主月先生は報告書を書くために残業をしていた。報告書はほぼ書き終わっていて、後は読み返して、おかしいところがないか確認するだけだった。すると、職員室のドアが再度開けられる音がするので、警備員さんかと思い横目でそちらの方を見ると、入ってきたのは警備員さんではなく、学校の生徒だった。
この女の子は、確か
「どうしたの? こんな時間に」
その女の子は何も答えなかった。主月先生は忘れ物だと思った。
「忘れ物ね? こんな時間に大変だったね。先生と取りに行こう?」
すると女の子はしくしくと泣き始めた。
「リンちゃんはナイショだっていうんだけど、あたし、あたし」
「どうしたの? ナイショにしてることがあるの?」
「うん。でもリンちゃんがナイショだって」
「ナイショなんだね? それで先生に教えに来てくれたの?」
「ううん」
「じゃあ、学校に用があって来たの?」
「うん」
「じゃあ、先生もナイショにするから、先生が行ってくればいい? 教室?」
「ううん。かくしてあるから私が行かないと見つからない」
「何かがかくしてあるのね? 教室?」
「教室じゃない」
「じゃあどこ?」
「トイレ」
二階の渡り廊下を
この廊下は落とし穴だったのだ!
警備員さんがすでに警備システムを作動させていたのである。床がなくなった廊下から、薄暗い一階の廊下までが
あまりの出来事に女の子は大声で泣き出した。
「ゴメンね!
「うあああああん! 警備員さんなんてダメ! ぜったいダメ!」
女の子は驚いたこともあったが、リンちゃんにナイショだといわれていたのに、
「ゴメンね! 先生にもどうにもできないから警備員さんを呼ぶよ!」
そういって
「ウソでしょう……」
あの人体模型が異変を察知してやって来たのだ!
「絶対に声を出したり動いたりしないで! 絶対にだよ!」
主月先生は女の子の耳元で強くささやくと、ヤツが見えないように女の子の両目をおおった。
ドス、ドス、ドス、ドス、ドス!
主月先生は女の子を強く
光成の時もそうだったが、この人体模型は明らかに人の顔を見ている。
というのもこの人体模型は、人の顔を認識しているのだ。人の顔を認識しつつも動かなければ
例えば
人体模型が音楽室の前を通ったところを想像してみてほしい。音楽室の
そういうわけで、人の顔は認識しつつも攻撃しない設計になっていたのであるが、逆にいうと、人の顔が動いたり音を出したりすると、
もしこの子が大声を出してしまったら、命にかえても自分が守らなければ……。主月先生は
「主月さーん! 主月さんですかー!」
警備員さんの声だ! 警備員さんが職員室の方の階段を
「はっ! 主月さん! そのまま! そのまま動かないで!」
警備員さんが駆け寄ってくる。しかし、人体模型には
警備員さんはこんな時間に学校の生徒がいることに
「その女の子は……?」
「この子は……、トイレに忘れ物があって学校に
女の子は泣き出した。
「おお、
警備員さんは、女の子の顔の高さまで
「ちょっと廊下を見てきますね」
そして、立ち上がってスタスタと歩き、廊下の様子を見に行った。
「もう大丈夫だよ。警備員さんも来てくれたからね」
しかし、女の子は泣き止まなかった。それもそのはずである。どんなに優しく接したところで、警備員さんが来た時点ですでに取り返しのつかない大事になっているのだから。すぐに警備員さんは
「いやあ、見事に
警備員さんが
「私が忘れ物を見つけていればよかったんですが、女子トイレも見回りしたんですがねえ。何かあったかな? まあ、女子トイレなんで、それほど入念には見てなかったんですが。さあ着きましたよ。私はここで待ってますからどうぞ」
「このトイレに何かがあるの?」
主月先生が聞くと女の子はうなずいて、真ん中にある個室の水洗用タンクを指さした。
「この中?」
主月先生がタンクのふたを開けてみると、中に何かが
「これでいいの?」
女の子はうなずいた。
「よかった。それじゃあ、一度職員室に戻ろうね」
「いやあ、見つかりましたか。よかったねえ。それで、ちょっとですね、主月さん。さっきから気になってることがあるんですが、あの教室から何か聞こえませんか?」
「あの教室ですか?」
主月先生は耳をすましてみると、確かに何か聞こえる。これはなんだろうか。
「見に行きましょう。ちょっとここで待っててね」
女の子にはトイレの前で待ってもらうとして、警備員さんと主月先生がかすかに嗚咽のする教室へ向かった。教室の
「私が開けますよ」
警備員さんはそういって
風が
稲荷はいった。「そんなわけないよ。私が大人になったって、先生みたいに走れるわけない」と。
この言葉の意味するところは、つまり、そもそも自分は何をやっても
何か
今までどうやって関係を縮められてきた? よく考えるんだ。何かあったはずだ。今日、これだけ話ができるまでに、何かがあったはずだ!
「だけどさ、シロは……」
主月先生は思った。今まで主月先生と稲荷をつないでくれたのは他でもなくシロだった。シロがいてくれたことは主月先生にとっても幸運だったのだ!
「だけどさ、シロはどう思ってるのかな。シロのご主人様は稲荷なんじゃない? 先生みたいに走れなくたってさ、今までもそうだったでしょう? いいんじゃないかな。稲荷は稲荷で」
「でも、シロったら、先生がいると大喜びで
「いやあ、そういってくれるとうれしいけどね」
まずは
「だけどさ、先生はシロにとってただの遊び相手だよ。稲荷はそう思ったかもしれないけど、先生から見たらさ、シロが一番なついているのは稲荷だよ」
「そうかなあ」
「だってほら、さりげなく先生じゃなくて稲荷のそばに
こういわれて稲荷は
「もう、シロったら」
この時の稲荷の表情はとてもやわらかかった。学校でこんな表情を見たことはない。
今のは正解だったのだろうか。別に正解でなくてもいい。劇的に
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