第二話 ネバーウェア その一

 私が友人である明智あけち光成みつなりの少年時代について書こうと思ったのは、ある晴れた暑い日のことだった。この日も暑さからのがれるために、エアコンの効いたオシャレ系カフェで冷たいカフェモカを飲みながら、先日買った意識の高い本に目を通していた時のことだった。

 その本には光成の父について書かれている部分があった。しかし、その内容は大筋ではあっているように思ったものの、私の認識とは異なるものだった。私は光成の父と直接知り合いだったわけでもなく、友人の父とはいえ、ほとんど会ったこともない他人のような存在であったから、関係のない話のようにも思ったのだけれども、この本を読み進めるにつれ、どういうわけかいきどおりを強く感じるようになった。光成の父は国会議員で、しかも大臣を務めたこともある人物だから、様々な評価があることは理解できる。さらにかれが中心となって制定した光合成法にまつわる話では、様々な視点や立場があって、賛否が分かれていることも承知している。しかし、この本は正しくないように思ったのだ。いや、この本だけではない。光合成法、および光合成人間についての誤解が、世間に満ちあふれているように私には思えてならない。私は、私が正しいと思うことを書かなければならないと思ったのだ。

 私の友人である明智あけち光成みつなりと光合成人間の物語を!


「じい、行ってくる」

 明智あけち光成みつなり廊下ろうかで待っていた燕尾服えんびふくの老人に声をかけた。

「おぼっちゃま、いってらっしゃいませ。風がつようございます。お気をつけくださいませ」

 台風が過ぎ去って、昨日まで降った大雨がうそのような晴天である。光成は自転車にまたがりじゅくへ向かった。風がまだ強い。坂を下って川に差しかかると、いつもより川が増水していて、昨日までの雨がいかに多かったかを物語っていた。川を見るために少し自転車を停めてみる。

 増水している川では、水面が波立っていなくても、実際には見た目以上の力と速さで流れているのだとか。一見おだやかに見えるからといって、絶対に入ってはいけないそうである。試しに泳いでみたらどんなものだろうかと光成は想像してみた。危険だし、だれかに見られたら、まともではないと思われるので絶対にするわけがないのだが。そんなことをぼんやりと考えているとだれかが後ろから声をかけてきた。

明智あけちくん?」

 明智あけち光成みつなりがふり返ると、そこには同じクラスの稲荷いなり静香しずかが、白い秋田犬と並んで立っていた。

「お、おう。うわ、でかい犬だな。お前の犬?」

「そうだよ」

 光成が周りを見ると、他にだれもいない。

「こんなでかい犬、お前一人で散歩してんの?」

「うん、すごくおとなしいんだ」

「そうなんだ」

 犬の方を見るとハッハッと舌を出している。暑いので無理もない。昨日までの大雨がうそのような晴天である。台風一過というものか、強い風がいて稲荷いなりのメガネが飛ばされそうになった。

「やだ!」

 彼女かのじょはメガネをあわてておさえた。

「風、強いね。自転車大変じゃない?」

「ほんとだよ。時々ピタッと止まりそうになる」

「こんなに風強いのに、どこか出かけるところ?」

「ああ、これからじゅくなんだ」

「そうだったの、ゴメンね。呼び止めちゃって」

「ぜんぜんいいよ。じゃあな。メガネ、気をつけてよ」

「ありがとう。じゃあ、またね」

 明智あけち光成みつなりは自転車をこぎ出し、稲荷いなり静香しずかは反対の方へ歩き出した。


 二人は同じクラスだったが、今まで会話をしたことがなかった。今のが初めてだった。彼女かのじょはクラスでも特におとなしい女子で、だれかに話しかけるところを一度も見たことがない。それが、彼女から声をかけてきたものだから、光成は内心おどろいていてそわそわしていた。そこの川で泳いでいる人がいるけれども、そんなことよりも、もっと驚くべきことだった。どうして稲荷いなりは話しかけてきたのだろうか。ん? 川を泳いでいる? 光成は思わず二度見した。


「川を泳いでいるヤツがいる! 台風で増水した川でだぞ? ちょっと待てよ? 全裸ぜんら? 全裸で泳いでいるヤツがいる! しかもバタフライで!」


 バタフライとはいささかぎではないか? しかし、それは光成の間違まちがいではなかった! 確かにそいつは泳いでいた! 全裸でバタフライを! バタフライはうでで水をかいだ時に水面から上半身があらわになるが、勢いあまって下半身までもが露わになっていた! そのせいでケツが丸見えである!

「ヤツはずかしくないのか? ケツの動きがハンパない! しかも速い! メチャクチャ速い! あっという間に通り過ぎていく!」

 濁流だくりゅうに逆らってのバタフライであるためか、水しぶきもすごい。ザブンザブンと水面をうねらせながらみるみる川を上っていく。ヤツが向かった先は稲荷いなりが行った方向だ。悪い予感がする。光成はUターンして全裸ぜんらで泳いでいる男を追いかけた。ヤツは光合成人間なんじゃないか、その可能性が頭によぎる。光合成人間には絶好の天気じゃないか。台風一過できれいに晴れわたったまさに光合成日和びより。光合成で体力があり余る。ここは一つ、増水した川でも泳いでみようかしらん、そんなことを思ったのかもしれない。普通ふつうはそんなことを絶対に思わないのだけれども。

 風が強い。ちょうど逆風で自転車にはきつい風向きだが、風の抵抗ていこうを受けているとはいえ、ヤツのほうが先に進んでいくのはやはり光合成人間だからだろうか。ヤツは上流に向かって泳いでいるわけで、つまり川の流れに逆らって泳いでいるのだから、光成に比べて有利なわけでもない。しかも昨日までの台風で増水した川でだ。稲荷いなりと白い秋田犬が見えてきたので、見つかるわけにもいかず、光成ははなれた場所から様子を見ることにした。ヤツはもくもくと泳ぎ続け、そして、何事もなく彼女かのじょの近くを通り過ぎていった。

「今だれか泳いでなかった?」

 近くにいたカップルがさわぎ出した。

「めっちゃウケんだけど」

「まじヤバい。川増水してんのに、普通ふつうだったらおぼれるって。あいつ光合成人間なんじゃね?」

「ネバーウェアじゃん。まじ全裸ぜんら。ヤバいって。泳ぎ方もさ、いろいろあるじゃん? バタフライってヤバくね?」

「そこ?」

「だってケツが丸見えじゃん」

「まじキモすぎw」

「ウケんだけどバタフライって、まじであいつヤバ過ぎ」


 カップルがウケるのも無理もない。やはり全裸ぜんらということもあって、そのもうスピードとダイナミックな動きにはかなりインパクトがあった。そもそもバタフライという泳法は、速い泳ぎ方である。クロールにはおよばないものの、そのタイム差はわずかであり、他の平泳ぎや背泳ぎと比べるとずっと速い泳ぎ方なのだ。しかも、ダイナミックさでは突出とっしゅつしているといっても言い過ぎではないだろう。その分、全裸ぜんらで泳いだ場合の変態さ加減も倍増されることは否めないが。実際、このインパクトはトラウマ級だった。何事もなく通り過ぎたとはいえ、稲荷いなりもあれを目にしたはずだが大丈夫だいじょうぶなのだろうか。


「え? 見て見て! もどってきてる!」

「うわっ、マジかよ!」

 先ほどのバタフライ男が戻ってきた!

「え? え? 何あれ? あお向けで泳いでる?」

「マジかよ、背泳ぎ? 丸見えじゃん! これ犯罪じゃね? 超ウケる!」

「ちょっと、ヤバいヤバい!」

 なんと、先ほどのバタフライ男が、今度は背泳ぎでもどってきたのだ! かえすが、全裸ぜんらの男がだ! 一糸まとわぬ生まれたての姿で! 台風がけた雲ひとつない晴天の中、まるで日光浴を楽しんでいるかのように!

「ちょっとちょっと、恥ずかしくないの? マジでキモいんだけど!」

「マジでネバーウェアが一線超え過ぎどころか、ななめ上超え過ぎじゃね? 草なんだけど、マジキメえ!」

 今度は川を下っているのでものすごいスピードだ! 速い、メチャクチャ速い! そして、あっという間に稲荷いなりの近くへ差しかる! 光成は心のなかで念じた!

「見るな! マジで見ちゃダメだ!」

 ヤツは通り過ぎていき、川にうねりだけが残った。心配は杞憂きゆうに終わり何事も起こらなかった。何事もなかったというのは間違まちがいか。全裸ぜんらの男が背泳ぎで川を泳ぐという事案が発生したのだから。とはいえ、稲荷いなりが乱暴されるというようなことは起きなかったので、明智あけち光成みつなりじゅくに向かうことにし、おくれまいと全力で自転車をこぎ出した。

 自転車をこぎながら光成は思った。あれは一体何だったのだろうか? 何がしたかったのだろうか? 泳ぎたいから泳いでいたのだろうけれども、普通ふつうはしないだろう。

 歴史的に有名な登山家ジョージ・マロリーが、「なぜエベレストに登りたかったのですか?」との質問に対して、次のように答えた有名な言葉がある。

「そこにそれがあるから」

 つまり、「そこに増水した川があるから」って理由? いくらなんでもそれはないでしょう。しかも全裸ぜんらで。まあ、あそこでトビウオのようにね上がっている平泳ぎの方がよほど気持ち悪いけども。トビウオのように? 跳ね上がる平泳ぎ? 明智あけち光成みつなりはまたしても二度見した!

「まじか!」

 なんと、ヤツは再度もどってきた! しかも平泳ぎで! いや、平泳ぎにはまったく見えない!


 平泳ぎという泳ぎ方は、一見手で水をかいで進んでいるように見えるが、実際は足のキックで前に進んでいる。キックが強いほど勢いよく前に進めるのだが、雲ひとつない快晴で最高に光合成したスイマーである、キックが強過ぎるため、きらめく水しぶきとともに、まるでトビウオのように勢いあまって水面から飛び出してしまうのだ! シュール! それはトビウオよりもはるかに大きな全裸ぜんらの男! シュール過ぎる!


「そうか! なんで気づかなかったんだ!」

 光成は急いで自転車の向きを変えた。

「バタフライ、背泳ぎと続いてこの平泳ぎ。こいつは個人メドレーをやっているんだ! ということは、このまま行った後、もう一度自由形でもどってくるにちがいない!」

 光成が逆風に逆らって急いでもどると、あのカップルがまださわいでいた。

「ちょっと、何? 空飛んでるみたいなんだけど!」

「うわっ、引くわ! 光合成人間が何イキってんだよ! まじでキメえんだよ!」

「ちょっと、声大きいって。聞こえたらどうすんのよ。あいつネバーウェアでしょ?」

「関係ねーって、あんなぱだかだぜ? まじまともな人間じゃねーって」

「いや、ネバーウェアってヤバいっていうじゃん? キレるとまじヤバいって。友だちから聞いたんだけど、一線超えてるらしいよ? 失うものないから。全裸ぜんらって時点で普通ふつうじゃないじゃん!」

 その時、水面から宙に飛び出したネバーウェアがカップルを凝視ぎょうしした。遠くからもわかるくらい、はっきり大きく目を開いて。

「ちょっとヤバいって! 今、聞こえてたって! こっち見てたよ!」

 明智あけち光成みつなりもヤバいと思った。今のは聞こえていたにちがいない。光合成スイマーはすさまじい跳躍ちょうやくで川を上っていったが、水面から消えて見えなくなると、はるか彼方かなたから、クロールでこちらに向かって泳ぎだした。今度は最速のクロールである。ものすごいスピードだ。見たこともない速さで水をかき、それでいて水しぶきが上がらない。しなやかでもうスピードのバタ足が、水を抵抗ていこうではなく、うねりにしてすべてを推進力にしている。光合成スイマーを先頭にして川全体が大きなV字の大波と化した。そのまま勢いよく土手にぶつかり、大きな水しぶきが上がった。それがカップルに降りかかる。土手の草をわしづかみにして、全裸ぜんらの男が力強くはい上がってきた。かみの毛がワカメのように波打って水がしたたり落ちる。カップルは恐怖きょうふで動けなくなっていた。

「てめえ、この野郎やろう、今なんつった? ああ?」

 いかりで全身をふるわせ、水滴すいてきが飛び散る。この全裸の男は本当に競泳選手だったのかもしれない。ものすごい筋肉だ。

「ネバーウェアだって? おめぇ何様のつもりだよ? ああ?」

 カップル男の胸ぐらをわしづかみにすると、引き上げて荒々あらあらしくシャツを引きいた。

「きゃあああ!」

 カップル女が悲鳴を上げた!

「てめぇもぱだかじゃねえかよ! なんだそのモヤシみてぇな体はよう! やんのか! ああ?」

 稲荷いなりの犬も激しくえ始めた! おとなしいといっていた、大きな白い秋田犬が全身の毛を逆立てて吠え立てた!

「うるせえんだよ、クソ犬が! おれは弱いくせに吠える犬がでぇきれぇなんだよ! ブチのめすぞ! ああ?」

 稲荷はいっしょけんめいにリードを引いていた。

「マズい!」

 明智あけち光成みつなりは自転車を乗り捨てて、土手に生えている草、それはオオバコという名前の草だった、そいつを一つかみむしり取ると、口にくわえた。するとオオバコはみるみる成長して頭にからみつき、光成の顔を完全におおかくしてしまった!


 それはまるで植物の仮面のようだった!


 光合成スイマーが犬をけり飛ばそうとするところを、すんでの所で間に入る! すごい力だ! あまりの威力いりょくに光成はふき飛ばされた!

「ぐほっ! なんてパワーだ! おれはとっさに光合成シールドをはったが、稲荷の犬がけられていたら大変なことになっていたぞ!」

「なんだテメーは! ああ? カッコつけてんのか! なんなんだその顔は! バカにしてんのか? ああ? ぶっ殺すぞ!」

 光合成スイマーがさらになぐりかかる!

「ぐう! やはり服を着たままではキツい! ヤツと比べて光合成が圧倒的あっとうてきに足りていないぞ! だが、稲荷いなりの前ではだかになることだけは、さすがにできない! このままでなんとかしなくては! 俺の能力ならできる! ヤツをよく見ろ! ヤツに集中しろ! やつは全裸ぜんらじゃないか! ヤツの筋肉の動きが全部見えるじゃないか! 集中しろ! 次の動きを予測しろ!」

 そして次の瞬間しゅんかん――。

「見えた!」

 光合成スイマーのパンチに、完全にタイミングをあわせた! カウンターがアゴにヒットし、これには光合成フルパワーのヤツでも一瞬いっしゅん気を失ってヒザをついた!

「ぐぬぬ、今のはきいた……、そうか、オメーも光合成人間だなあ? くっそぉ! なめんなあ! 服着てるヤツなんかに負けっかよ!」

「来るぞ! 集中しろ!」

 しかし、光合成スイマーはいくらか慎重しんちょうになっていた。無鉄砲むてっぽう攻撃こうげきをせず、パンチやキックをくり出すも、もう一歩ふみんでこない。

「カウンターを意識してやがる! このままではマズい! くそ! なんてスピードとパワーだ! やはり服を着ていては勝てないか?」

「どうしたこの野郎やろう! これで終わりか? ああ? さっきはよくもやってくれたなあ! 弱ぇくせに調子乗ってんじゃねえぞテメェ!」

 キックの一発がかわしきれず、光成はふき飛ばされた!

「ダメだ! 歯が立たない! このままではやられる! 服をぐしかないか? はだかにならなければダメなのか? クラスメートの前で? しかも女子の前でだぞ! 顔はかくしてても、くそ! やはりできない! このかべはどうしてもえられない! これが、この壁が、おれとネバーウェアとの差なのか!」

「弱ぇぜオメェ! 弱過ぎるぜ! ああ? くやしいのかぁ? だったらいでみろよ! フルチンになってみろよ! できんのかぁ? 恥ずかしいんだろ? ずかしくてフルチンになれねぇんだろ? なに青臭あおくせぇこと言ってんだよ! だからオメェは弱ぇんだよ! おれらネバーウェアはよう、とっくの昔にそんなもん捨てっちまってんだよ! 失うものなんかもうねぇんだよ!」

 光合成スイマーは勝ちほこって高らかに笑った!

「あぁっははははは! 最高だ! 最高じゃないか!」

 そして、ボディービルダーのように次々とポーズを決めた! 雲ひとつない青い空を背に、全身で太陽の光を浴びながら。それは、自分が全裸ぜんらであることを見せつけているようだった!

「見ろ! この無限にわきあふれるパワーを! 最高だ! 最高の光合成だ!」

 稲荷いなりの犬がさらに激しくえている。か細い彼女かのじょがしゃがみこんでリードを懸命けんめいにつかんでいるが、白い秋田犬はあの大きな体で右へ左へとはねたり、ぐるぐる回ったりしている。

「うるせえんだよ! さっきからよ! テメェ飼い主だろうが! 少しはだまらせろ! このくそガキが!」

 スイマーが稲荷の方へ向かった! マズい!


「テイクオフ!」


 光成が一瞬いっしゅんで服をいだ! さすがに半ズボンをはいたままだったが。かれは仮面の中でなみだがあふれるのを感じた。それが仮面の草を伝い、きらめくしずくとなって宙をった。かれはテイクオフした時、もうスピードでジャンプしていた。その勢いのまま強烈きょうれつなパンチを当てると、光合成スイマーをふき飛ばした。

「ごほ! おっ、かっ……」

 ヤツは息ができない! まるで殺虫スプレーをかけられたGのように激しくのたうち回り出した! 全裸ぜんらの男がだ! なんとキモい光景だろうか!


 遠くからパトカーのサイレンが聞こえてくる。その音を聞いて光成は左右に首をった。

おそい……、遅いよ。テイクオフした後じゃあさ、ぜんぜん遅いんだよ……」

 仮面の裏側ではなみだが流れていた。早くこの場を立ち去りたい。特に稲荷いなりの前から。なぜなら、今、かれはほとんどはだかなのだから!

「あのう……」

 おそれていたことが起こった。彼女かのじょが声をかけてきたのだ。

「まさか、気づかれてないよな? おれは顔をかくしているんだからバレるわけないよな? バレるわけにはいかないんだ! じゃあな!」

 光成は心の中でそうさけび、走ってその場を立ち去った。パトカーから緑色のスーツに身を包んだUOKうまるこw隊員が飛び降りてきた。


 光成は走りながら奇妙きみょうなことを思い出していた。かれがテイクオフした時、稲荷いなりは興奮した飼い犬にうでをかまれていなかったか? そうだ、興奮しきって我を忘れた大型犬をなんとかおさえようとして、うでを激しくかまれていたはずだ。稲荷いなりはおとなしい犬だといっていたが、ネバーウェアの異様さを目の前にして、直感的に自分のみならず飼い主の危険を察したのだろう。激しく興奮して、あろうことか自分にれてきた飼い主のうでにかみ付いてしまったのにちがいない。そして、これが最も引っかかったことなのだが、彼女かのじょに「あのう……」と声をかけられた時、その時の彼女の腕は、出血しているどころかそれまで何事もなかったかのように、まったくの無傷だった。稲荷がかまれていたのは間違まちがいだったのだろうか。いや、これは光成が持つ能力の秘密に関わることなのだが、かれの能力にもとづいて考えてみれば、絶対に見間違いなどではなかった。彼女は激しくかまれていた。そして、瞬時しゅんじにあとかたもなく完全に治っていたのだ。


 そんなことに思いをめぐらせていた明智あけち光成みつなりは、走り去るかれを遠くから見つめる人影ひとかげに気づいていなかった。人影という言い方をすると、それがまるで人間であるかのように聞こえるが、あれは本当に人間なのだろうか? 人の形はしているが、まるでマネキン人形のようにも見えた。その人形は気取った仕草をしたままっていて、その身なりは、落ち着いたオレンジ色のシャツに、メロンの皮に似た色と模様の、みやびに織られたスーツを着ていた。そして、明智光成が走り去っていくのを見届けると、そっとその場を立ち去った。(続く)

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