45.父の涙

「なあ、橘さん。あれは一体どうなったんだ?」


 少し遅れて戻って来た花凛の父親が、キッチンに大きな声でけん制し合いながら料理をする娘達を見て言った。



「いえ、なぜかふたりで料理を競い合うことになってみたいで……」


「え? 花凛が、料理するのか……!?」


 ここ数年、あえて誰も言わなかった花凛の料理。

 犠牲者を出さないために暗黙の了解として、腫れ物に触る様に丁重に接してきた超重要案件。よく見れば一緒に座っている妻の顔は真っ青である。



「困ったな。なぜこんな事に……」


 頭を抱えて苦悩の表情をする社長を見て正司が言う。



「あの、どうかしたのですか……?」



 ――娘の料理が不味い!!!


 とは決して口に出して言えない。



「あ、ああ。何でもないよ。それより橘さん」



 花凛の父親の顔が真剣になる。


「はい?」


「花凛のことは、本気なのか……?」


 その目は真剣である。娘を心配する父親の目。正司も真面目な顔で答える。



「はい、いい加減な気持ちじゃ決してありません」



「そうか……」


 父親や少し寂しそうな顔をして答えた。



「ああ、そうだ、これこれ」


 花凛の父親は思い出したかのように、手に持っていた袋から何かの部品を取り出して正司に見せた。



「これだけど、今度の規格で行けそうかな。試作品だがどう思うかね?」


 正司はその輪っか状の部品を手にして色々な角度から見つめる。


「ああ、いいですね。この銀色の光沢なんて素晴らしい出来です。今は何と言えませんが、これならきっと……」



「しょーくん!!!」

「正司さんっ!!!!」


 突然キッチンから大声で呼ばれる正司。


「な、なに!?」


 驚いて返事をする。



「ちょっとこっち来てよ!!」

「正司さんの好み、教え下さいよ!!!」



「あ、わわわぁ、分かった。すぐ行くよ」


 正司は製品についてはまた後で話すと社長に伝え、慌ててキッチンの方へと走って行く。




「あなた……」


 花凛の母親が、夫の顔を見て心配そうになって言う。


「大丈夫だ。分かってる……」


 そう難しい顔をして父親が答えた。






「ねえ、美香」


「なに? お姉ちゃん」


 正司が居間に戻った後、ふたりがキッチンで料理を作りながら話す。



「美香はしょーくんのことが好きなの?」


 少しだけ間を置いて美香が答える。


「そうよ」


「なんで?」



「なんでって、ひと目惚れかな?」


 花凛がむっとした顔で言う。



「しょーくんは私の彼氏。結婚を前提に付き合ってるの。諦めなさい」


 今度は美香が姉の顔を睨んで言う。


「嫌だよ。結婚するまで、ううん、結婚した後だって心変わりするかもしれないし。見た目だって私、お姉ちゃんに負けるつもりはないから」


 花凛は隣に立つ妹の美香を見つめる。いつの間にかに伸びた身長、綺麗な黒髪、そして高校生とは思えないほど大きく膨らんだ胸。よく似た美人姉妹。容姿的には自分と変わりはない。美香が言う。



「胸なんてもうお姉ちゃんより大きいよ。ほら」


 そう言ってそのふたつの膨らみを見せつける。花凛が怒って言う。



「しょーくんは花凛が好きなの!! 誰がそんな子供のものなんか……」


「じゃあ、触って貰って来ようかな~?」


 そう言ってちらりと正司の方を見る美香。花凛が慌てて言う。



「ダメ!! 子供が、そんなことしちゃ!!」


「お姉ちゃんだってそんなに変わらないじゃん!」


「わ、私はいいのっ!!」


「もう触らせてあげたの?」


「……」


 顔を赤くして黙り込む花凛。美香がつまらなそうな顔で言う。



「ふーん、そうなんだ。じゃあ、私はそれ以上のことしなきゃいけないね」


「ダメよ、ダメダメ!!!」



「さー、できた!! 負けないよ、お姉ちゃん!!」


 美香はそう言うと出来上がった料理を皿に盛りつける。


「わ、私もできたわ!! しょーくんの為の料理!!!」


 同じく皿に盛りつける花凛。




「お昼、できたよー!!」

「さあ、食べましょう!!」


 花凛と美香がそれぞれ作った料理を持ち皆の前にやって来る。色んな意味を含んだ緊張が皆に走る。お互いをけん制し、出方を窺う。美香が正司に言う。



「正司さん、肉じゃが作りました! 美味しいですよ!!」


「あ、ああ、うん……」


 姉同様、料理が趣味の美香に正司が返事をする。花凛も負けずにテーブルに皿を乗せて正司に言う。



「しょーくん、花凛はハンバーグ作ったよ。たくさん食べてね!」


「ああ。うん、ありがと」


 正司がお礼を言う。そして張りつめた空気が漂う中、食事が開始される。



「いただきます」


 まず両親が美香の料理を食べ始める。


「うん、美味い。いつもの味だ」


 最近ずっと母親の料理の手伝いをしていた美香。元々の料理好きもあってその腕はもはや高校生レベルではない。確実に食べて貰える料理を作った美香が、肉じゃがを箸に乗せて正司に言う。



「はい、あーん」


 驚く正司。



「え? だ、大丈夫だよ。美香ちゃん……」


 隣に座る花凛も怒って言う。


「美香、やめなさい!! それは私の役目!!」


 睨み合うふたりを見た正司が美香に言う。



「美香ちゃん、とりあえず自分で食べるから」


 そう言って渋々美香の作った肉じゃがをつまんで口に入れる。



(うっ!!!)


 やはり変わらない。

 口に入れた途端に広がる腐敗臭。形容しきれぬような苦い味。強烈な吐き気を催すも、目の前でじっと見つめる美香の手前吐き出すことはできない。



 ごくん……


 噛まずに飲み込んだ。

 そしてすぐに水をガブガブと飲みこむ。



「正司さん……」


 もう言葉は要らなかった。一見して分かる『美味しくない』と言う反応。涙目の正司を見て美香がしゅんとなって思う。



(どうして? どうしてこれが美味しくないの??)


 絶対の自信を持って作った肉じゃが。前回から更に腕を磨いたはずの料理。落ち込む美香をよそに姉の花凛が正司に言う。



「はい、じゃあ次は花凛のを食べてね♡」


 そう言って笑顔で正司にすり寄る。



「うん、いただきます」


 正司の箸が花凛の作ったハンバーグをつまむ。

 花凛の両親が、美香がその動きを注視して見つめ思う。



(食べるのか、あれを……)

(花凛が認めたというけど、本当に大丈夫なのかしら……?)


(私が料理でお姉ちゃんに負けるはずがない!!)


 正司はつまんだハンバーグを口に入れた。



「むしゃむしゃ……、美味いっ!!!!!」



「きゃー、しょーくん、大好きっ!!!」


 大きな声で喜びを表す正司に花凛が抱き着く。正司は笑顔で花凛の作った料理をガツガツと食べる。



「う、そ……」


 その光景を見て呆気にとられる家族。

 我慢できなくなった父親が箸で花凛の料理を少しつまんで口に入れる。



「うごほっ、おぅえ……」


 すぐに口を押さえキッチンの方へと走る父親。



「なにこれ、こんなの有り得ないよ……」


 美香は信じられない光景を目にし、小さな声でつぶやく。母親がそんな美香の頭をポンポンと叩きながら言う。



「これがお姉ちゃんが連れて来た人よ」


「……」


 美香は認めたくはなかったが何の反論もできずにふたりを見つめる。いつも通りに美味しそうにご飯を食べる正司を見て花凛が思う。



(一度も勝ったことがなかった美香との料理対決。初めて勝った!! たった一勝だけど、最高に嬉しい一勝。それがしょーくんで本当に良かった!!!)


 花凛は自分の料理を食べてくれる正司に横から抱き着く。



「わわっ、花凛、これじゃあ食べられないよ!!」


 花凛はそんな正司の顔に両手を添えて甘い声で言う。



「じゃあ、を食べる?」


 ふたりきりならば間違いなくキス。しかしここは彼女の実家。両親も見ている。正司は花凛の肩を押さえ椅子に座らせて言う。



「お、落ち着け。花凛!!」


「えー、なんで?? つまんなーい」


 周りがハラハラする中、花凛が不満そうな顔で言う。美香が思う。



(負けた。もう完全に立ち入る隙なんてないじゃん……)


 息も、そして相性もぴったりのふたりを見て美香は大きなため息をついた。




(仕方ないか、あれじゃあな……)


 少し離れたキッチンにひとり立つ父親が、誰も食べることのできなかった花凛の料理をガツガツと食べる正司を見て思う。自然とその目から涙がこぼれた。

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