41.ありがとぉ、しょーくん。
電車に乗って花凛が実家に辿り着いた頃にはお昼近くになっていた。
駅からの風が冷たい晴れた日。慣れた道を歩く花凛の心は深く沈んでいた。
(私のわがままでお父さん達に迷惑かけちゃった。工場が潰れたらどうしよう……)
大切な取引先の社長を平手打ちして約束も途中に走って出て来てしまった。父親は大丈夫だと言うがその声色を聞くに決して大丈夫ではない。謝って済む問題じゃないが、父親に会ったらまず謝ろうと花凛は心に決めた。
「ただいま……」
実家には母親がひとりいた。
父親は工場の事務所。妹の美香は学校である。
「大変だったわね。ごめんね、花凛……」
母親としては無理やり会社の都合であのような男と出掛けさせてしまった娘に対し申し訳ない気持ちでいっぱいであった。謝る母親に戸惑う花凛。父親に会いたいと思い母に尋ねると事務所にいるという。
「ちょっとお父さんに会って来るね」
そう言って窓から外の様子を見た花凛の体が固まる。
(あっ、あの車……)
見覚えのある黒塗りの高級車。
先日助手席に乗ってその運転手を平手打ちした車。花凛の視線に気付いた母親が車を見て言う。
「あれは、KY工業の……」
花凛が無言で頷く。
黒塗りの車は駐車場に止まり、その中からセンスの悪いワイシャツとコートを着た若社長の若田が下りてきた。母親が言う。
「花凛、あなたはここに居なさい」
「うん」
花凛はそのまま居間の椅子に座る。母親は窓から若田の様子をじっと見つめていた。
「KY工業の若田社長が来たって?」
事務所で忙しく仕事をしていた社長が突然の訪問者の名前を聞き驚く。
(うちとの取引はやめるって話じゃ? それとも別の話とか……?)
その瞬間、社長の頭に娘の花凛の顔が思い浮かぶ。
「応接室に通して」
「はい」
社長はすぐに事務の女の子にそう言うと応接室へと向かった。
「いや~、こんにちは。社長」
若田は応接室に入って来た渡辺社長を見て軽い調子で挨拶した。社長は怒りを感じたが自分を抑え冷静になって尋ねる。
「今日はどのようなご用件で?」
ソファーに座りながら尋ねる。アポもない。取引もない。一体何の用だろうか。若田が答える。
「何の用って、まあ、簡単に言うと花凛ちゃんが電話に出てくれなくてねー」
無言になる社長。
「アドレス交換したんだけどブロックされちゃってさー、意味分かんないんだけど、社長から連絡するように言ってくれる? 取引再開してもいいからさー」
KY工業とはやはり取引はしたい。
ただそれは以前のような真面目な会社ならばの話。今、目の前にいる男が率いる会社に魅力はない。そして同時に、その口から大切な娘の名前を聞くだけで虫唾が走った。
「でさあ、花凛ちゃんがさあ……」
「帰ってくれませんか?」
「は……?」
若田が耳に入った言葉を疑う。
「ねえ、今なんて言ったの?」
社長が若田の目をじっと見て言う。
「帰って頂きたい、と言ったんです」
「あははっ、それどういうこと? ここってうちとの取引なくなって大変じゃないの~? 俺、優しいからまたチャンスを……」
「帰れと言ってんだ!!!」
「ひゃっ!?」
急に怒鳴られた若田が驚いた顔で声を上げる。そして一気に怒気に包まれて言い返す。
「な、何だよ!! その言い方は!!! もう絶対仕事やらないぞ!!!」
「お前なんかに娘は、娘はやらん!! 早く帰れっ!!!!」
「お、覚えてろよ!! 絶対後悔するからな!!!」
若田はそう言うと泣きそうな顔になって応接室から走って去って行った。
「はあ……」
社長はどかっとソファーに腰を下ろす。
「完全に、終わったな……」
KY工業の先代の顔を思い浮かべ感傷的になる社長。今の会社の惨状を見たらなんと言うのだろうか。
(いや、そんな事より今はやることがある)
社長がそう思って立ち上がると、持っていた携帯の着信音が鳴り響く。社長がスマホを取り出し表示された名前を見る。
「橘さん……」
すぐに社長が電話に出る。
『はい、渡辺です。お世話になります!』
正司からの電話の内容は、S商事で正式に新規プロジェクトの依頼を行いたいとの連絡であった。渡辺製作所の規模を考えれば非常に大きな仕事。KY工業を失った分を補って余るほどの規模の話。社長はその話を聞きながら思わず体が震えた。
『本当にありがとうございます。全力で頑張らせて頂きます!!』
社長は何度も頭を下げながら正司にお礼を言った。
(お父さんにちゃんと謝らなきゃ……)
花凛は若田が車に乗って帰って行くのを窓から見て心にそう思った。母親が言う。
「帰ったみたいね。一体何しに来たのかしら?」
娘にははっきり伝えていないが、KY工業との仕事はなくなったともう分かっているだろうと思った。その時実家のドアが開く音がした。
「母さん!!」
社長である父親が勢い良く入って来る。
(お父さん……)
花凛は父親の顔を見て心の中で大きく息を吐く。謝罪のチャンス。花凛が言う。
「あの、ごめんなさい。お父さん……」
突然謝られた父親が驚く。
「花凛、どうした。なぜ謝るんだ?」
理由が分からない父親。花凛が言う。
「だって、私のせいで仕事が……」
その意味を理解した父親が首を振って答える。
「謝らなきゃならないのは我々の方だ。関係のない娘に辛い思いをさせてしまって、本当にすまない」
「その通りよ、花凛。ごめんね」
母親も一緒になって謝る。
「わ、私は全然大丈夫だから……」
そう言いつつもやはり仕事のことが気になる。父親が笑顔になって言う。
「そうだ母さん。S商事さんとの仕事、正式に決まったよ!!」
「本当ですか!!」
母親が目を輝かせて言う。
「ああ、すごく大きな仕事だ。これから忙しくなるぞ!!」
「良かったですね、あなた」
母親は目に涙を溜めて言う。花凛が尋ねる。
「どうしたの?」
母親が答える。
「新しい、とっても大きな仕事が来たの。だからもう何も心配することないんだよ」
「そうなんだ。良かった……」
花凛も一緒になって目を赤くして答える。それを見た父親も涙目になって言う。
「ああ、本当にすべてあの人のお陰だ。そうだ花凛。今すぐにお礼のメールがしたいんだけど、スマホのやり方教えてくれるか? 何度教わっても分からん」
そう言って父親は自分のスマホと、懐から取り出した名刺入れの中から一枚の名刺を花凛に手渡す。
「この人にメールを打ちたいんだ」
父親が差し出した名刺を受け取る花凛。そしてそこに書かれた名前を見て体が固まった。
――S商事営業四課課長 橘正司
(え?)
動けなくなった花凛。少し間を置いて尋ねる。
「ねえ、うちに仕事持って来てくれた人って、この橘さんって人なの……?」
母親が答える。
「ええ、そうよ。銀行からの紹介でいらしたんだけど、真面目で一生懸命な人よ」
「そうだ。全く取引実績のなかったうちに、大きな仕事を持って来てくれてな。有り難い話だ。うちを救ってくれた人だよ、その人は」
父親の嬉しそうな言葉が花凛の心に心地良く突き刺さる。
(うそ、うそ……、こんな事って……)
花凛の目から大粒の涙がぼろぼろと溢れ出す。花凛は両手を口に押えて思う。
(しょーくんが、しょーくんが助けてくれたんだ……)
「花凛?」
様子がおかしい娘を心配して母親が声を掛ける。
「お母さーん!! うえーーんっ!!!」
突然母親を抱き胸に顔を埋めて泣き出す花凛。戸惑う母親。
「ちょ、ちょっと、どうしたの花凛!?」
「うえーん、うえーん、良かったよぉ……」
耳まで赤くして泣く娘。母親は手でその頭を優しく何度も撫でる。
(ありがとぉ、しょーくん。ありがとぉ、早く、早く会いたいよぉ……)
花凛は涙を流しながら一刻も早く彼が待つアパートに帰りたいと心底思った。
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