39.繋がる線
「さあ、どうぞおかけください。橘さん」
「あ、はい。どうも……」
結局、社長の誘いを断り切れずに渡辺家で夕食を一緒に頂くことになった正司。こんなことしていいのかな、と思いつつも皆の強いお誘いを断り切れずに自宅へ上がる。社長の妻が言う。
「娘が作った料理なんです。この子、まだ高校生ですけど料理が得意で……」
そう言って母親と一緒に食事を用意する美香の腕をぽんぽんと軽く叩く。美香が言う。
「やだ~、お母さん恥ずかしいよ! 橘さんのお口に合うかな~?」
そう言ってピンクのエプロンを付けた美香がはにかむ。長い黒髪は後ろでひとつに束ねられ、一見するとどこか幼い新妻のようである。社長が正司に尋ねる。
「橘さんはお酒は飲める方なのかな?」
正司が首を振って答える。
「いえいえ、相当な下戸でして……、水で十分です」
「そうか……」
本当に悲しそうな顔をする社長。妻が言う。
「橘さん、お車でお越しよ。お酒を勧めちゃだめでしょ」
「ああ、そうだったな」
そう言って苦笑する社長のグラスに正司がビールを注ぐ。
「ああ、悪いね。あとは手酌でいいよ」
正司が頷いてビール瓶をテーブルに置く。そこへ料理を作り終えた美香が皿を持ってやって来た。
「はーい、できたよ! さ、正司さん、どうぞ!」
(え?)
美香に下の名前で呼ばれた正司が、一瞬何かデジャブのような感覚となる。とは言えほぼ初対面の美香にそのような事はあり得ないはず。美香が正司の隣に座って尋ねる。
「正司さんはロールキャベツは好きですか?」
「え、あ、ああ、うん……」
なぜか美香が正司の椅子に密着ように接近して座る。少し腕を動かせば彼女の大きな胸に当たりそうなくらいの距離。美香が笑顔で言う。
「美香が取ってあげますね」
そう言って大皿に入ったロールキャベツを取り皿に乗せ正司に微笑む。それを見た母親が注意するように言う。
「こら、美香。橘さんに失礼でしょ」
「えー、大丈夫だよ。お客さんをもてなすのは当たり前でしょ? それとも正司さん、迷惑ですか?」
上目遣いで正司を見て言う美香。これをされたら男は拒否などできない。
「あ、いや、迷惑だなんて……」
そう思いつつも脳裏に花凛の怒った顔が浮かぶ。美香が言う。
「これね、みんな美味しいって言ってくれるんですよ。ささ、食べてください。正司さん」
「あ、はい。いただきます……」
正司はそう言って箸でロールキャベツを掴み、気合と共に口に入れる。
(うぐっ、うぐぐぐっ……)
下水、汚水、腐食臭。
花凛と出会ってからしばらく経験のなかった苦痛が正司を襲う。
「美味しいですか、正司さん?」
真隣で笑顔で尋ねる美香。不味いとは言えない。
「あ、ああ、うん、美味しいよ……」
しかし苦悶の顔までは騙せない。正司の様子がおかしいと気付いた美香が、テーブルの真ん中に置かれた豚の生姜焼きを箸でつまみ正司に食べさせる。
「じゃあ、これも食べてください! はい、あーん!!」
「え、ちょ、ちょっと、美香さん!?」
さすがにこれは困る。花凛との約束を破ることになってしまう。
「はい、あーーーーん!!!」
それでも勢いを止めない美香。なぜか鬼気迫るものを感じる。気迫に負けた正司が美香の豚の生姜焼きを大きな口で頬張る。
「むしゃむしゃ……、うっ!!」
もはや拷問に近い。目の前でじっと自分を見つめる高校生の美香に『不味い』などとは口が裂けても言えない。眉間に皺を寄せて、我慢して食べる正司を見て美香が思う。
(どうして!? 私の得意料理ばかりなのに……、そんなに酷い味? それとも正司さんは普段もっと美味しいものを食べてるのかな……?)
自慢料理がことごとく玉砕された美香が悲しげに自分の料理を見つめる。それを見た父親が言う。
「美香、橘さんの邪魔しないで自分で食べなさい」
「邪魔じゃないよ。ね、正司さん?」
正司はまだ青い顔をして口に入れた豚の生姜焼きと戦っている。美香はそれを見てしゅんとして自分の椅子に座り直してご飯を食べ始めた。
「ご馳走さまでした。では失礼します!」
結局正司は料理をあまり食べずに渡辺家を後にした。最近ずっと花凛の美味しい料理ばかり食べてきた彼にとって、一般の食事はもはや彼にとって毒に近いものとすら感じる。正司の車を見送った後に妻が言う。
「いい人ですね」
社長である夫が答える。
「ああ、いい青年だ」
「お仕事、上手く行きそうですか?」
「それは分からん。うちみたいな新規の新しい工場。S商事さんがどこまで本気で仕事出してくれるか分からんからな」
社長が少し自信無さ気な顔で言う。
「あとは橘さんにお任せしましょうよ」
「ああ、そうだな。あんなに真剣に製品のことを聞いてくれて俺も嬉しかったよ」
妻が笑顔になって言う。
「橘さんみたいな人がお相手だったらいいわね」
「何のだ?」
社長が真面目な顔になって聞き返す。
「何のって、娘たちの結婚相手ですよ」
「ば、馬鹿なこと言うんじゃない!! ふたりともまだ学生だぞっ!!」
社長がやや怒りながら言い返す。
「分かってますわよ。でも女の子なんてあっと言う間に嫁いで行っちゃうんですよ」
「ねえ! 私の方が絶対いいよね!!」
それを聞いていた娘の美香が母親に言う。
「そうね~、花凛もあの料理さえもう少し上手になればもっとチャンスはあるのにね」
「お姉ちゃんは頑固だからね~」
「ダメだ、ダメだ!!」
ふたりの会話を聞きながら社長だけがひとりむっとして返事をした。
「ただいま……」
正司が車を飛ばして会社に戻りアパートに辿り着いた頃には既に深夜12時近くになっていた。冬の寒い時期。息が白くなる中急いでアパートの階段を上がる。正司が部屋のドアを開けるとまだ明かりがついており、眠そうな顔をした花凛がふらふらと出迎えてくれた。
「おかえり、しょーくん……」
寝ていたのか分からないが目や頬が赤い。
「花凛、ずっと起きていたのか?」
花凛は小さく頷き、ふっと正司の胸にもたれ掛かる。
「寂しかったよぉ、会いたかったよぉ……」
小さな声。
でも花凛の気持ちが直に伝わる声。
「ごめんな」
正司は花凛をそっと抱きしめ頭を撫でる。
「ご飯、食べる?」
花凛がやはり小さな声で尋ねる。
「ああ、お腹ぺこぺこだよ!」
「うん」
花凛はそう返事するとキッチンに行って既に作っておいた料理を電子レンジで温め始める。部屋に入り着替えをした正司がテーブルに座って温められた料理を見て驚く。
「あれ、ロールキャベツに、豚の生姜焼き?」
「うん、そうだよ。美味しいから!」
「あ、ああ……」
こんな偶然もあるもんだなと思いながら正司が花凛の料理を口に入れる。
「美味い!!!! 美味いよぉ、花凛っ!!!!」
夜なのに大きな声で喜びを爆発させる正司。少し前、全く同じメニューを食べたのだが、やはり花凛の料理は全然違う。改めて正司が感謝する。
「え? 花凛……!?」
花凛は正司の真正面に座り涙を流している。ただいつもの涙とは様子が違う。ここ最近様子がおかしかった花凛の涙。由香里にもお願いされていたことを思い出す。
「なあ、花凛。そろそろ話してくれないか」
正司は食べるのを止め、彼女の横へ座って言う。それでも小さく首を左右に振る花凛。正司は涙を流すその顔に手を添え優しくキスをした。
「話してくれないとキスもしないしご飯も食べないし、ぎゅっだってもうしないぞ」
「う、ううっ、しょうーくぅん、そんなのいやだよ……」
花凛は泣きながら正司に抱き着く。
「俺は花凛の味方。何があっても花凛と一緒に居る。だから話して」
花凛は正司に抱き着いたまま涙を拭き、そして観念したのか首を小さく縦に振った。
「しょーくん、あのね……」
花凛は目を赤くしながら正司にこれまでのことをすべて話した。
父親のこと、会社のこと、取引先の若社長のことなどすべて。正司は黙って聞いていた。なるほど、会社のこととなれば学生である花凛ではどうすることもできない。しかもその弱みに付け込むその若社長ってのは相当卑劣である。
そして花凛がその言葉を発した時、正司の体は固まった。
「でね、うちの会社、渡辺製作所っていうんだけど……」
(えっ!?)
正司が目を何度もパチパチさせて花凛の顔を見る。
「ね、ねえ、花凛の家ってどこにあるの?」
「うち? えっとねえ……」
その住所を聞いた正司は確信した。
(こんなことがあるなんて……)
まさに先程まで自分がいた場所、それがまさか花凛の実家だったとは。だが同時に思う。
(俺が新規プロジェクトを渡辺製作所に持っていければ、花凛たちを救えるかもしれない!!)
正司が言う。
「花凛、何も心配しなくていい!! きっと上手く行く!!」
よく意味の分からない花凛が少し首を傾げる。それでも正司の言葉に感謝しつつ正司に抱き着いて言う。
「ねえ、花凛、全部話したよ。ご褒美ちょうだい」
「うん。ほら、ぎゅっ!!」
「きゃふん!!」
正司は花凛をぎゅっと強く抱きしめた。
「ああ、しょーくんのぎゅっだぁ……、花凛、幸せぇ……」
正司は花凛を強く抱きしめた。
絶対に仕事を成功させ花凛を救う。そう自分に言い聞かせるように強く強く抱きしめた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます