38.捨てる神に拾う神。

 翌月曜日の午前中、渡辺製作所の駐車場に一台の黒塗りの車が止まった。事務の女性が社長である花凛の父親にその訪問客の名を告げる。



「応接室に、通してくれ……」


 年齢のせいもあるだろう、威厳のあった社長は弱々しい声でそう伝えた。




「おっはよー、社長」


「おはようございます。若田社長」


 花凛の父親は応接室のソファーにドカッと座るKY工業の若田に頭を下げて挨拶をした。

 

 昨日、目の前の男と出掛けて行った娘の花凛。夜になっても帰らずに、たった一通『先にアパートに帰るから心配しないで』とメールをよこしただけだった。

 何があったのかは知らない。荷物も実家に残したままだったが、『心配しないで』という娘の言葉を聞き両親はあえて何も聞かずにいた。若田が言う。



「本当はね~、これ、郵送で送ろうと思ったんだけど、直接持って来たよ」


 そう言って一通の封書をテーブルの上に置く。



「これは?」


 花凛の父親がそれを手にし、中の書類を見て顔が青ざめた。



「そんな……」


 取引停止。それを伝える書面であった。

 長年取引を続けてきた渡辺製作所とKY工業ではあるが、机の上に置かれた紙切れ一枚でそれが終わりを告げようとしている。



「社長……」


 花凛の父親が弱々しい声で言う。



「この間も言ったけど、コストダウンやってくんなきゃ、ダメダメなのよー」


「ですが、あれはあまりにも……」


 若田が平手打ちされた頬のあたりを触りながら言う。



「だから~、ウルトラCのチャンスをあげたんだけどね~、結果がこれ。俺は悪くない」


「……」


 何があったのかは知らない。

 だけどこれ以上自分の手に負えるものではないと花凛の父親は思った。若田はすっと立ち上がり片手を上げながら部屋を出る。



「じゃあね~」


 花凛の父親は無言でそれを見つめた。

 そしてお世話になったKY工業の先代に対して自分の無力さを改めて情けなく思った。





「あなた……」


 若田が出て行った応接室に妻である花凛の母親が心配そうな顔で入って来た。父親が苦笑いして言う。


「KYさんとの取引、なくなったよ……」


 笑顔でそう言っていたが、花凛の母親には心の中で涙を流す夫の姿がはっきりと見えた。花凛の父親が言う。



「俺が決めたことだ。お前らは何も心配することはない。これは仕事。こういう事もある」


「ですけど……」


「明日、S商事の橘さんが打ち合わせにやって来る。大きな話になるかもしれん。今はそれに向けて全力を尽くそう」


「はい……」


 花凛の母親が小さくそう返事をする。



 トルルルルゥ……


 その時彼女の携帯の着信音が鳴った。スマホの画面に表示された名前を見て母親が言う。



「花凛よ……」


 頷く父親。スマホをタップして母親が電話に出る。



『はい、もしもし……』


 花凛は大学に行っている時間。講義の合間だろうか、どこか外から電話をしているようだ。



『お母さん、ごめんね。実は昨日……』


 花凛は涙声で昨日若田との間に起きたことをすべて話した。キスをされそうになったこと、ビンタしたこと。そのまま帰ってしまったこと。母親はそれを頷きながら黙って聞く。そして隣にやって来た夫に気付きスマホを手渡す。



『花凛か?』


『お父さん?』


 少し驚く花凛。すぐに花凛が仕事のことで迷惑を掛けてしまったことを謝る。父親が言う。



『お前は何も心配するな。仕事は順調だ。しっかり勉強して、今しかない大学生活を楽しんでおけ。分かったな?』


 花凛は涙を流しながらそれに答える。そして自分のせいで実家の工場に大きな迷惑を掛けてしまったことを理解した。






 その日の夕方、花凛は自分の部屋で作った夕食をプレートに乗せ正司の部屋を訪れた。


「花凛、どうしたの?」


 最近はずっと部屋で料理をしてくれた花凛。自分の部屋で作って持ってくることなど、付き合い始めた頃以来である。花凛が小さな声で言う。



「うん、ちょっと疲れちゃって。ごめんね、しょーくん。これ作ったから部屋で食べて」


 そう言って料理の乗ったプレートを正司に手渡す。



「ああ、大丈夫か。花凛……」


 正司はそれを受け取りながら元気のない花凛を心配する。花凛が笑顔を作って答える。



「大丈夫だよ、しょーくん。ありがと」


 正司はプレートを下駄箱の上に置くと、花凛の頭を優しく抱きかかえた。



「しょーくん……?」


「俺でできることなら何でもする。遠慮なしに言ってくれよ」


 花凛は心がほわっと温かくなる感覚になる。大きな優しさに包まれているかのような心地良い感覚。できることなら目の前にいる人にすべてを話したい。大きな声を上げて泣きたい。でもそれは大好きな正司に迷惑を掛けてしまう。



「ありがと、しょーくん。でも大丈夫。ちょっと疲れただけだから」


 そう言って花凛はまた無理やり笑顔を作って言う。



(しょーくんを巻き込んじゃダメ。こうして近くにいてくれるだけで十分なんだから……)


 正司は様子がおかしい花凛にどう対処していいのか分からないままその頭を撫で続けた。






 翌日、正司は朝ごはんを一緒に食べている花凛に、今日の帰りが少し遅くなることを告げてから会社に向かった。やはり元気のない花凛。正司は会社に向かう電車に揺られながらもう少し強く聞いてみようかと考えた。



「お世話になります!! S商事の橘です!!」


 午後、車を飛ばして向かった渡辺製作所を訪れた正司は大きな声で挨拶をした。対応に現れた女性に案内され応接室に行く。



「ああ、これは橘さん。どうもどうも……」


「あ、社長。お世話になります!」


 正司は頭を下げ、社長に促されて椅子に座る。社長が言う。



「遠い所、本当に恐縮です」


「いえいえ、今日は細かいところまで詰めたいと思っていますので、よろしくお願いします」


 正司はそう言って鞄から幾つかの図面を取り出す。そして思う。



(花凛の笑顔のため、俺ができることは一生懸命働いて安心させてやること!! 結婚を前提に付き合っているんだから、まだ見ぬ花凛のご両親にも認めて貰えるぐらい俺が頑張らなきゃ!!)


 一方の社長も思う。



(悩んでいても仕方がない。新たな話を持って来てくれた橘さんに感謝してしっかり仕事をしなければ。それにしても真面目な青年。あの若社長とはえらい違い。娘を嫁にやることなど考えたこともないが、彼みたいな青年なら……)


 そう思いつつもやはり娘がいなくなることを思い首を左右に大きく振る。



「え? どうされました? 社長?」


 突然首を振った社長に驚き正司が声を掛ける。



「あ、いや、何でもない。すまないすまない」


 社長は仕事に集中しようと思い直した。




 結局正司と渡辺社長の商談は夕方遅くまで続いた。

 細かな打ち合わせ、現場で製品を見ながら話し、ようやく話がまとまった頃には外も真っ暗になっていた。正司が言う。



「遅くまですみません。これで新規プロジェクトに採用して貰う為にしっかりプレゼンしてきます」


「ああ、本当にありがとう。是非お願いします。うちも全力で頑張りますから」


 そう言って握手をするふたり。そこへ社長の妻がやって来て正司に言った。



「橘さん、遅くなりましたのでよろしければ家で夕食でも食べて行きませんか?」


「え?」


 驚く正司。客先でこのような経験は一度もない。驚く正司に社長の妻が尋ねる。



「あら、もしかしてご結婚されていて、奥さんがお待ちとか?」


「あ、いえ、まだ独身で……」


 結婚はしていない。

 ただ結婚したい女性はいるし、ご飯を作ってくれる人もいる。ただ今日は遅くなることは告げてある。悩む正司に社長が言う。



「うちみたいな田舎じゃよくある事だよ。橘さん、遠慮せずに」



「橘さーん、いらっしゃーい!!」


 そこへ突然娘の美香が現れる。長い黒髪が美しい可愛らしい女の子。母親譲りだろうか、幼い感じにしては胸が大きい。



「あ、娘の美香です。ほら、ちゃんと挨拶して」


「初めまして、橘さん。あ、もう会ったことあるかな?」


 母親が苦笑して言う。



「今日の夕食美香が作ったんですよ。料理が上手で。さ、どうぞ」


「橘さん、早く行こー!!」



「わ、わわっ!!」


 悩む正司の腕を美香が掴んで連れて行く。



(仕方ないか……)


 正直花凛以外の食事は無理だと思いつつも、こうなったら断れないと正司が心を決めた。

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