37.由香里のお願い

「由香里ちゃん!?」


 花凛が実家に帰った日曜の朝、正司の部屋に突然友達の由香里が尋ねて来た。


「中に入ってもいいですか?」


 由香里は正司が答えるよりも先に玄関へと入る。



「由香里ちゃん、ごめん」


 更に部屋へ上がろうとする由香里をすっと手を上げて制止する正司。少し驚いた由香里が正司の顔を見つめる。


「ごめんね、ここで話をしてもいいかな」


 玄関に立ったままの由香里が正司に言う。



「部屋に上がっちゃダメなんですか?」


 上げたい。

 由香里ほどの可愛い女の子。現役女子大生が独身のおっさんの部屋に上がりたいと言うのに普通なら断る理由はないだろう。



「花凛と約束してて。他の女の子と話さない、見ない、触れないとか、色々……」


 ちょっと驚いた顔をして由香里が言う。



「正司さん、そんなこと言われて真面目に守ってるんですか?」


「え、ああ、まあ、できるだけは……」



「ぷっ、クスクス……」


 真剣な顔をしていた由香里が口に手を当てて笑う。



「本当に真面目ですよね、正司さんって」


 由香里は玄関のドアを閉めると、それにもたれ掛かりながら小声で言った。



「あと十年、いや五年……、ううん、今でもいいかな。先に口説かれちゃったら……」


「ん? 何か言った?」


「いえいえ。独り言です」



「それでどうかしたの?」


「はい。最近の花凛のことなんですが……」


 由香里は大学での花凛の様子を正司に伝えた。

 元気がないこと、ぼうっとしていること。由香里が話し掛けても何も理由を話してくれないと、心配なこと全てを話した。



「そうか……」


 正司は昨夜の花凛のことを思い出す。確かに最近様子が少し変である。由香里が言う。



「花凛、真面目でひとりで色々考えちゃうタイプなので、きっと正司さんにも話していないと思うんです」


「うん……」


 由香里が正司に近付いて言う。



「正司さん、花凛を助けてあげてくれませんか。多分それができるのは正司さんだけだと思うので……」


「分かった。今日の夜戻ったらきちんと話をしてみるよ。ありがとう、由香里ちゃん」


 由香里はにこっと笑って言う。



「いいえ、今度ご飯でもおごって下さいよ。課長に昇進したんですよね~?」


「ああ、花凛が話したんか?」


「ええ、楽しみにしてますよ。それでは!」


 由香里はそう言って片手を上げてドアを開けて去って行った。






(しょーくんに早く会いたいよぉ……)


 花凛は冷たい風が吹く海岸をひとり歩き、バス、そして電車に乗ってアパートへと向かっていた。空は今にも雨が降りそうな曇り空。まるで晴れない自分の心を表しているかのよう。



「う、ううっ……」


 ひとりでいるとどうしても心が潰されそうになり涙が流れる。自分がしてしまったこと、これからのこと、家族のこと。そのすべてが小さな花凛の心を潰そうとしていた。



(しょーくん……)


 誰かと居たい。ひとりで居たくない。正司と居たい。

 ぼうっとする頭でひとり小雨の降る中、ふらふらとアパートへ歩き出す。



 ガチャ……


 冬の日は早く落ちる。

 夕方過ぎ、既に空が暗くなった頃、正司の耳にドアが開く音が聞こえた。



「花凛っ!!」


 部屋に居てまだ見えぬその人物に正司が声を掛ける。



「しょー、くぅん……」


 少し雨に濡れ、疲れた顔でぐったりとした花凛がドアに立つ。驚いた正司がすぐに駆け付けその細い体を抱きしめる。



「花凛、花凛っ、どうしたんだ!?」


 訳が分からない正司。

 花凛は濡れた体で少し震えながら言う。



「しょーくん、会いたかったよぉ……」



(涙? でも、これは……)


 花凛は涙を流していた。

 ただその涙は流す涙ではない。悲しみの涙。辛い涙。正司が花凛を強く抱き尋ねる。



「何があったんだ?」


「う、ううっ、うえーん、しょーくぅんーーっ!!!」


 花凛は正司を強く抱きしめただただ声を上げて泣いた。正司は黙って花凛を抱きしめ、少し落ち着いてきたところで部屋の中へ連れて行った。



「ほら、花凛。これで頭拭きな。風邪ひくぞ」


 そう言って正司は花凛にバスタオルを差し出す。花凛は濡れた髪に手を当ててから正司に言う。



「しょーくん、拭いて」


「は? あ、ああ、いいよ」


 正司は涙で真っ赤な目をした花凛に頼まれふたつ返事で引き受ける。花凛の背後に回り、少し濡れた黒髪をタオルで拭き始める。



 ゴシゴシゴシ!!


 力いっぱい頭を拭き始める正司に花凛が驚いて言う。


「ちょ、ちょっと、しょーくん!! それじゃあ、頭痛いよっ!!」


 花凛が笑いながら言う。正司に拭かれて髪がぼさぼさになった花凛。それを見て正司が笑い出す。



「くくくっ、なんだその頭? まるでオバケだぞ……」


 正司は腹を抱えて笑いを堪える。それを見た花凛がぷっと頬を膨らませて正司に襲い掛かる。


「笑ったなぁ!! 誰がやったんだよぉ!!」


 そう言って振り返り腹を抱えている正司の上に覆いかぶさる。



「う、うわぁ、ご、ごめん! でも、可笑しくて、くくくっ……」


 正司は花凛に押されて後ろに倒れながらもまだ笑い続ける。花凛は仰向けになった正司の頭の横に両手をつき、真上から正司の顔を見つめる。



「こんな可愛いオバケがいるのかな~?」


 正司は真上にある花凛の顔を見つめる。逆光になってはいるが赤みを帯びた頬、自分に垂れ下がって来るしっとりとした黒髪が艶めかしい。花凛の甘酸っぱい香りが鼻孔をくすぐるのを感じながら答える。



「いないよ。こんなに可愛いオバケなんて……」


 そう言って両手を花凛の顔へ添え、じっと見つめ合う。



 重なる唇。


 柔らかく、温かい唇。

 花凛はそのまま体を正司の預け、両手で正司の頭を何度も何度もぐちゃぐちゃにするように撫でる。そして口づけを終えると正司の肩に頭を置き、小さく嗚咽し始めた。



(花凛……)


 正司は仰向けになりながら自分の肩で泣く花凛の頭を優しく撫でる。



「しょーくぅん……、ううっ……」


 正司が優しく言った。



「言える時が来たらいつでも言って。待ってるから」


 花凛がそれを聞き顔を上げて思う。



(しょーくん……、嬉しいよ、でもうちの話に巻き込んじゃいけない……)


 花凛は真っ赤な目をしながら正司の顔に両手を添えて言う。



「しょーくん、大好きだよ……」


 花凛は心の中で何度も正司に感謝しながら、再び唇を重ねた。

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