36.花凛の答え

 日曜日の早朝、花凛は始発の電車で再び実家へ向かった。

 朝が早かったので正司の部屋には寄らずにアパートを出た花凛。まだ暗い空を眺めながら電車に揺られる。



(お父さんには悪いけど、やっぱり無理。きちんと話をして断ろう……)


 これがここ数日花凛がひとりで考えだした結論。天地がひっくり返ろうが正司以外の男はあり得ない。食事だけでなく、すべての相性がぴったりな男性。



(でもえっちはまだなんだよなあ……、そっちの相性はどうなんだろう……)


 そんなことを考え電車の中で真っ赤になる花凛。その辺りは今度由香里にしっかり聞いてみようと思った。





「ただいま……」


 昼前、実家である渡辺製作所に着いた花凛が、出迎え来た両親に弱々しく言った。


「花凛、すまない……」


 父親は少し瘦せたのか、いやそう見えるのか、どちらにしろ花凛の目には更に細くなったように映った。母親が言う。



「ごめんなさいね、花凛。でも今日だけ。それであなたの自由にしていいから」


「うん……」


 花凛の声に力はない。



「お姉ちゃん、おかえり!!」


 姉の帰省に妹の美香がニコニコしながらやって来る。高校二年、綺麗で長い黒髪がいつもより光沢を放っている。体つきももう大人だ。自分とは対照的に機嫌が良さそうな妹に花凛が尋ねる。



「何かいいことでもあったの?」


「べつに~、お姉ちゃんもデート頑張ってね~」


「……」


 事情を良く聞かされていない美香だから決して悪気はない。取引先の独身の社長に休日お昼を一緒に食べるとなればそう思われても仕方がないだろう。笑顔で部屋に戻る美香を見ながら母親に尋ねる。



「何かあったの、美香?」


 母親がため息をついて答える。



「ええ、仕事でやって来た営業の人にひと目惚れしちゃったみたいでね。結構年上なんだけどすごく色々聞いてきて。お母さんたちもまだそれほど知らない人なんだけど……」


 母親はそう言って小さくため息をつく。



(年上好きって、まるで私みたいじゃん……)


 花凛は一回り近く年上の正司顔を思い出し、やはり姉妹なんだなとひとり苦笑する。



 トゥルルル……


 その時花凛のスマホの着信音が鳴る。表示された名前はKY工業の若田春男。母親が玄関から外を覗き、無言で頷く。父親が言う。



「気を付けてな……」


 すっかり無口になってしまった父親。花凛は荷物を母親に預けるとひとり玄関を出て、家の前に止められている真っ赤なスポーツカーへ向かった。




「花凛ちゃん、めっちゃいい匂いじゃん~!!」


 車の助手席に乗ってきた花凛に若田が興奮気味に言う。

 臭い車内。たばこの煙と頭が痛くなるような芳香剤の匂いが混ざり、荒い運転も加わって座っているだけで吐き気を催す。更に良く分からないうるさいだけの音楽。隣に座っている男の存在を感じるだけで自分が穢れて行くような気持ちになる。



「花凛ちゃん、好きな料理ってあるの?」


 虹色に光るサングラスをかけている若田が視界に入る。なぜ曇りなのにこんな物をしているのか意味が分からない。少し間を置いてから小さな声で答える。



「別にないわ……」


 会話が聞こえないのか若田がカーステレオのボリュームを下げて尋ねる。



「今日さ~、超高級イタリアン予約してあるんだけど、好きだった?」


 花凛は面倒臭そうに無言で小さく頷く。

 若田はその後もどうでもいいくだらないことをひとり話しながら、スピードを上げて車を走らせる。



(しょーくん、ごめんなさい、ごめんなさい……)


 無言で下を向いたままの花凛は、心の中で正司に何度も謝った。

 何も伝えずやって来た若田との外出。父親の、会社のためとはいえ自分がしていることは最も嫌いな行い。正司に不貞行為と言われても何も言い返せない。




「でさあ、花凛ちゃんは俺の女になるつもりはあるの~?」


 気が付くと海岸沿いの景色が良いイタリアレストランの駐車場に着いていた。お洒落な西洋風の建物。本場イタリアにあるような、雰囲気もとても良さそうなお店。

 花凛は広い駐車場の一番にある大きな木の下に車が止められていることに違和感を覚える。若田は隣に座る花凛の服の上からでも分かる大きな胸、色っぽい太腿と凝視してから言う。



「ねえ、どうなの~?」


 車を止め、自分のシートベルトを外して体をこちらに向ける若田。たばこ臭い顔が近付き気持ち悪くて体中に嫌悪感が走る。



「私は……」


 そう言い掛けた花凛の肩を若田が掴む。そして顔を近づけて言う。



「俺のもんになれよ。いい思い、いっぱいさせてやるからさあ」


 そう言って片方の手に花凛の顎を乗せ、更に顔を近づける。



 パンッ!!!


 花凛は思い切り近付いてきた若田の頬を平手打ちした。



「来ないでっ!!!」


 若田の体を勢いよく押し、ドアを開け急いで車から降りる。


 そのまま走った。

 海からの冷たい風が吹く海岸線の道を、ひとり涙を流しながら走った。そして誰もいない浜辺にある木の下へ行き、ひとり声を上げて泣いた。



「う、うっ、うわーーーん。しょーくん、しょーくん、もう無理だよおお……」


 花凛はその場にひとり座り込んでしばらく泣き続けた。





「あーあ、痛ってえなあ、何するんだよ、あの女」


 車の中で花凛にビンタをされた若田が自分の頬を触りながら言う。



「とりあえずここのキャンセル料と……」


 若田は目の前にある高級イタリア料理店を見ながら言う。



「ご希望に答えてのお手紙でも送っておこうかな」


 若田はひとり笑うと車のエンジンをかけ、そのまま引き返して行った。






 ピンポーン


 日曜の朝、少し遅めに起きた正司が昨晩花凛が作ってくれたサンドイッチを食べていると、不意にドアのチャイムが鳴った。



(まさか、花凛!?)


 今日は実家へ行くと言っていた花凛。来るはずもないその姿を求めてドアを開ける。



「おはようございます……」


「由香里ちゃん?」


 花凛の大学の友人、桜坂由香里。ミディアムのナチュラルパーマがよく似合う可愛い子で、前に一度彼女の彼氏とダブルデートをした事がある。

 寒かったのか頬が少し赤く染まった由香里が言う。



「ごめんなさい、お休みの日に」


「あ、ああ。いいんだよ。どうしたのかな?」


 由香里は少し遠慮しがちに言う。



「あの、中に入ってもいいですか?」


(え?)


 正司の頭の中に花凛との約束である『他の女の子との接触禁止』と言う言葉がぐるぐると回る。そんな正司をよそに、由香里はもう中に入ろうとしていた。

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