35.ぎゅっ!!

 KY工業社長室。

 きちんと手入れされた観葉植物が置かれた部屋。工場が一望できる大きな窓。部屋の中央に置かれた机の上には湯気を立てるコーヒーが香ばしい香りを放っている。

 その机の前に座る若田春夫が、パソコンのモニターを見つめながら唸り声をあげた。



「う~ん、コスパが悪いな……」


 腕を組み、タバコに火をつけふぅと煙を吐く。少し考えてからマウスを動かし、キーボードを叩いて一枚の資料をプリントアウトする。



「まあ、こんなとこだろ」


 若田はそうひとりつぶやくと、内線を手に取り電話に出た女性に製造部長をここに来るように指示。すぐにやって来た年配の製造部長に向かって言った。



「これ。今日からこんな感じでやって」


 製造部長は不安な気持ちを抱えながら渡された書類に目を通す。



「しゃ、社長。これは、いくら何でも……」


 部長は目を疑った。そこには取引先に納入する製品を、基準に満たない低品質で納入すると言うもの。若田が言う。



「大丈夫だって。これまでもそうやって来たんだから」


 先代が亡くなり息子の若田春夫が後を継いでから、KY工業は大幅なコストカットを実行していた。そのほぼすべてが若田の指示であり。実際価格の安い材料に変えることで今期は大幅な黒字決算を見込んでいた。部長が言う。



「社長、これ以上の原材料変更は無理です。現に今でさえ取引先からクレームが……」



「やれ」



「社長……」


 若田は社長椅子にドカッと座り手にしたペンをくるくる回しながら低い声で言う。



「黙ってやれって。見た目同じだから問題ない。責任は俺がとる」


「は、はあ……」


 製造部長は下を向き力なく返事をして部屋を退出した。




「あー、面倒臭せえ~、花凛ちゃんに電話でもしよ~」


 そう言ってスマホを取り出し花凛へ連絡する。



 ツーツー、ツー……


「出ないや。俺を避けてんのかな~? いいのかな~、花凛ちゃん?」


 若田はすぐにスマホをタップし、表示された『渡辺製作所』へと電話をかけた。






 午後、大学の講義を終えた花凛が携帯に不在着信があったことに気付く。


(お父さん……)


 スマホに表示されたその名前を見て花凛の気持ちが暗くなる。



「ねえ、花凛。どうしたの?」


 隣に座っていた由香里が教科書をカバンに片付けながら、真剣な顔でスマホを見つめる花凛に尋ねる。花凛が無理やり笑顔を作って答える。



「ううん、何でもないよ」


(本当に嘘の付けない子だね……)



「言ってごらん。正司さんとケンカでもしたの?」


 花凛は首を左右に大きく振って即答する。



「そんな訳ないじゃん!! しょーたんは花凛とラブラブなの。今日だって朝だけでキスした回数はね……」


 そう言って両手の指を折って数え始める花凛。



(笑顔? 正司さんのことじゃないのかな?)


 花凛が指を全部折り終えてから苦笑いして言う。



「分かんな~い! 指が足りないよ~」


「はいはい。とにかく何か困っていることがあれば相談に乗るから、ね?」



 由香里は心配そうな顔で花凛に言う。



「うん、ありがと。でも大丈夫だから」


 全然大丈夫そうでない顔でそう由香里に答えた。





「うん……、そう、そうなの……」


 花凛は由香里と別れ、大学のキャンパスの隅でひとり座りながら父親に電話をかけた。すっかり冬になり冷たい風が花凛を包む。



「そう、お昼だけ……、うん、分かった。それからのことは私が決めるから」


 花凛は目が虚ろになりながら父親との会話を終えた。

 内容は花凛に無視され続けたKY工業の若田が父親に電話をかけ、明後日の日曜日にお昼ご飯だけ花凛に付き合って欲しいと言って来たと言うことであった。父親は今後の若田についてどうするかは花凛の好きなようにしていいとのこと。



(そんなこと言っても私の気持ちは決まってる。しょーくんしかあり得ない、見えない。でも……)


 電話越しの父親の生気のない声。自分が大きくなるにつれどんどんと老けて昔の大きくて威厳のあった父親は消えて行く。



「どうしたらいいの……」


 花凛は下を向きひとり涙を流した。






「しょ~くぅん」


 よく土曜日、花凛は朝から正司の部屋にやって来て一緒に過ごした。



「ねえ、しょ~くん」


 いつもより近く、そして甘える花凛。正司は近くに来て体を寄せる花凛の頭を撫でたり、抱きしめたりした。


「しょーくん、大好き……」


 そして甘い顔をする花凛。これはキスを求めている時の顔。正司が優しく手を顔に添え唇を重ねる。



「んん……」


 柔らかく、心落ち着く時。

 花凛が正司の唇を味わっていると、洗濯機からブザーが響いた。



 ピピピピッ……


「あ、洗濯終わったよ。花凛、干して来るね!」


 そう言って花凛は立ち上がり、洗濯ものを取り出す。料理以外にも家事が大好きな花凛。洗濯も得意のひとつである。



「しょーくん、今日天気って良い?」


 花凛はベランダに出て空を見上げながら尋ねる。



「うん、晴れるはずだよ」


「分かった。じゃあ、外に干すね」


 そう言いながら洗濯カゴに入れた正司のを取り出す。



「か、花凛っ!!」


 正司が慌ててベランダに行き花凛に言う。



「あ、あの、下着はいいよ。その、何と言うか……」


 花凛がにこっと笑って言う。



「いいって。私気にしないから!」


「いや、俺が気にするんで……」



「じゃあ、しょーくんも私を洗って」


「は?」


 意味が分からない正司。花凛はそんな正司に自分の履いているズボンを少しだけ下げて履いているをちらりと見せる。



「か、花凛っ!?」


「きゃははっ!! しょーくん、照れてるぅ~、可愛いぃ!!」


「こ、こら!! そんなことしたら、おじさん、脱がしちゃうぞ!!」



「いいよ」



「へ?」


 花凛がいつもの甘い顔つきになり、正司の顔に両手を添えて優しく言う。



「花凛はもうあなたのもの。好きにしていいのよ……」


 あまりの色香に正司が後ろに倒れそうになる。大学二年とは言え、時々発する大人顔負けの色香。免疫の少ない正司はもうそれだけで頭がくらくらしてしまう。正司はすぐ後ろに下がって頭を下げて言う。



「ごめん、花凛の勝ち。お好きにしてください」


 それを聞いた花凛は開けたままのベランダのドアを閉め、正司へ更に接近して言う。



「じゃあ、負けたしょーくんには罰を与えるね」


「罰!?」


 その言葉に一瞬正司が驚く。花凛は正司の手を取り、自分の頬に当てて言う。



「生涯、花凛を幸せにすること。……分かった?」


 正司が花凛を強く抱きしめる。



「きゃっ!?」


「……約束する。俺は、花凛を幸せにする」



 花凛は正司に抱きしめられながら頷いて答える。


「うん。でももし破ったらもうご飯作ってあげないからね」



「えー、それは困る!! 俺、死んじゃうよ~」


 花凛が正司の顔を見つめて言う。



「うふふっ、花凛はしょーくんの弱点握ってるんだから。だから花凛の勝ち!」


 今度は正司が花凛を見つめて言い返す。



「俺だって花凛の弱点握ってるんだぞ!」


「え!? ええっ、何なに!?」


 ちょっと驚いた顔で花凛が言う。



「ここ」


 正司は花凛の顔に手を添え、赤く染まったをぺろりと舐める。


「きゃっ!!」



花凛が顔を赤くして言う。


「もおー、しょーくん!!」



「これも弱点」



「ふぎゃっ!」


 正司は怒った花凛をぎゅっと強く抱きしめる。そして耳元でささやく。



「この『ぎゅっ』だってもうしてやらないんだぞー」


 それを聞いた花凛が少し体を震わせて弱々しい声で言う。



「いやだよぉ、しょーくんのぎゅっがなきゃ、花凛死んじゃうよ……」


「ほら、ぎゅっ!」


「ふにゃん!」


 正司は何度も花凛を強く抱きしめる。花凛が怒った声で言う。



「もー、しょーくん、花凛で遊んでるー!!」


 正司が再び耳元で甘くささやく。



「花凛が望むなら生涯ずっとぎゅってしてやるよ」


「……うん。ずっとして、ずっと」


 ふたりはその後何度も何度も抱きしめ合った。

 そして花凛は明日の日曜日、ちょっとだけ実家に帰ると正司に告げた。

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