34.この幸せを守りたい

「正司君ーっ、おはよ!!」


 月曜の朝。駅から出て会社に向かって歩いていた正司に後ろから元気のよい声が掛けられた。



「あ、みこ」


 茶色のショートカットをふわふわさせながらみこが早足で近付いて来る。いつも通りの笑顔。その顔に安心した正司が言う。



「昨日はありがとな。来てくれて」


 みこが歩きながら首を振って言う。


「ううん。ごめんね、急に押しかけちゃって」


 付き合っていた頃なら『急に押しかけること』なんて当たり前だった。いつの間にかふたりを取り巻く環境が大きく変わったことをお互い感じる。みこが言う。



「そう言えば今日から課長だね。おめでと!!」


「あ、ありがとう。まあ、でもやることそうは変わらないけどね」


 本日付で営業四課の課長に就任する。部下はまだ少ないがこれまでとは違った責任が圧し掛かる。



「仕事とか面倒だからヒラでもいいんだけどな……」


「橘は仕事がお出来になりますから!」


 みこが冗談っぽく言う。


「やめてくれよ~、何だか恥ずかしい……」



 ――いつもと変わらない


 正司は明るいみこを見て安心させるように自分に言い聞かせた。





「以上だ、橘。会社うちの新たな柱になるかもしれない事業、しっかり頼んだぞ!」


 午前中、正司は上司である営業部長に呼ばれ、正司がずっと担当して来た企業から新しい大きな案件が打診されていることを知った。

 上部の話し合いで決まったそうだが、相手企業からその案件の担当に正司を指名して来たらしい。課長昇進もその期待もあってのことだった。



「はい、頑張ります……」


 内心、面倒だなと思いながらも正司はやれるだけのことはやろうと思った。



「はあ……」


 お昼休み。正司はため息をつきながら新規プロジェクトのことを考えていた。



(今の取引先でやれるにはやれるけど新たに精査が必要だし、もっと技術力のある企業の開拓も必須だな……)


 正司は予想以上に多い仕事量を思いめまいがしてきた。



(あ、美味しそう……)


 正司が取り出したお昼の弁当。もちろん花凛の手作りである。



(花凛みたいな可愛い、しかも女子大生にこうやって毎日お弁当作って貰えるなんて、本当に幸せだな……)


 しかも美味い。正司にとってはこのお昼の時間が会社にいて一番の楽しみな時間である。



「橘さん、お弁当今日も美味しそうですね!!」


「うん、ありがと!」


 独身の正司にこうやって毎日お弁当を作ってくれる人がいる。一時期女子社員の間で噂になったが、それも今では当たり前の光景となっている。



「美味しい……」


 一日で一番嫌いな時間だったはずの食事の時間。それが今や時計を見ては花凛の弁当を食べられる時が来るのを楽しみに待っている。



(そうだ。俺がいっぱい働いて花凛を幸せにしてあげなきゃ!! ガンガン働いて、花凛が毎日心ゆくまで料理ができるようにっ!!!!)


 正司は近くの机で同じく弁当を食べている部下に向かって言う。



「発注先の精査を頼む!! KY工業とJS鉄工所、それから……」


「橘さ~ん、お昼終わってからでいいですか~?」


 部下がまだ12時を少し過ぎたばかりの時計を指差して言う。



「あ、ああ。そうだな。ごめんごめん」


 正司は自分もまだ弁当を食べかけだったことに気付き赤面する。



(よし、じゃあ俺は新たな取引先の開拓を頑張るか。確かあそこには銀行が……)


 正司は新規プロジェクトが行われる場所で付き合いのある地方銀行の名刺を探し始めた。






「こんにちは、S商事の橘と言いますが……」


 午後、車で会社を出た正司は新規プロジェクトが行われる地方銀行に行き、幾つか工場を紹介して貰い、片っ端からその工場を訪問していた。



(なかなか理想の部品が見つからないな。どれも悪くはないが決め手に欠けるというか……)


 正司は最後に訪れた『渡辺製作所』と言う町工場の応接室でひとり座っていた。やがてドアが開かれ白髪の男性がやって来て頭を下げた。


「S商事の橘です。急な訪問失礼しました」


「渡辺です。A銀行さんの紹介なら邪険にはできませんから。ささ、どうぞおかけください」


 正司は礼を言ってソファーに腰かける。

 そして少しだけ世間話をした後で、資料を取り出し本題に入る。



「……うむ。なるほど」


 資料に目を通した渡辺社長が何度も頷く。その目は真剣である。そして正司に言った。



「うちで、できんことはないな……」


「本当ですか?」


 正司の目が輝く。



「ああ、これが似たようなサンプルなんだが……」


 社長はそう言ってスチール棚にあった自社製品のサンプルを手渡す。



(凄い、これなら行けるかも!!)


 サンプルからでも伝わってくる職人の気持ちが込められた品。ひと目見た瞬間正司は決断した。



「後日幾つか図面を送らせてもらいます。それを見て再度お話を聞かせてください」


「ほ、本当ですか? 有難いお話で……」


 社長も大きな仕事の話に思わず笑顔となる。



「では今日はこれで失礼します! また来ます!」


 正司はそう言と大きく頭を下げて応接室を出て行った。




「あなた、どうでしたか……?」


 正司が去った後、心配をしていた妻がやって来て尋ねる


「ああ、上手く行きそうだ。S商事と言えば中堅の会社。そんなところに声を掛けてもらえるとは有り難い」


「そうですか。良かった……」


 妻が安堵の表情を浮かべる。



「ねえ!!」


 ふたりが話していると急にドアが開けられ、夫婦の娘が入って来た。



美香みか、どうしたの?」


 普段このような場所には来ない娘の美香。黒い長髪を揺らしながら部屋に入って来て尋ねる。



「さっきの男の人って誰?」


 顔を見合わせるふたり。社長である父親が少し困惑した顔で答える。



「誰って仕事の人だよ」


「あまり見ない人だよね」


 美香は会社の入り口ですれ違った正司の顔を思い出して言う。



「そうよ。今日初めて来て下さった方ですから」


「ふ~ん」


 そう言いながら美香はテーブルの上に置かれた名刺を手に取り見つめる。



「S商事の、営業四課課長、橘正司ねえ……」


 名刺を見つめる美香に父親が言う。



「どうしたんだ、一体?」


「ううん、何でもない」


 そう言いつつ手にした名刺をスマホで撮影する。



「また来るの?」


「ああ、近いうちに多分」


「了解~」


 それを聞くと美香は嬉しそうな顔で部屋を出て行った。



(タイプ、タイプ、めっちゃタイプ!! また会いたい!! 独身なのかな??)


 美香は撮影した名刺をスマホでにこにこして見ながら自分の部屋へと帰って行った。






 花凛はひとり正司の部屋でその帰りを待っていた。

 正司からメールで少し帰宅が遅くなる旨を聞いていた花凛。真っ暗になった空を部屋から眺め深くため息をついた。


(凄い量……)


 正司からのメールとは別に、SNSに送られてきた若社長の若田からのメッセージ。くだらないことや卑猥な言葉なども散見される。



(すべて無視……、だけど……)


 普通ならこんな男相手にしなければ済む話。それでも花凛の頭に寂しそうな顔をする父親の姿が思い出される。



 ガチャガチャ……


 そんな花凛の耳にドアを開ける音が聞こえる。



「あ、しょーくんが帰って来た!!」


 花凛が急ぎドアの元へ向かう。



「ただいま、花凛。遅くなってごめん!」


 そう言って謝る正司に花凛が抱き着いて言う。


「遅~い。花凛、干からびて死んじゃうとこだったよ~!!」


「ごめんごめん!」


 そう言って正司は花凛を抱きしめながら頭を撫でる。花凛が言う。



「今日、課長になったんだよね?」


「うん、決まったよ」


「おめでと! 花凛、ケーキ焼いたんだよ!!」


 そう言って花凛は奥のテーブルの上に置かれた真っ白な手作りホールケーキを指差す。



「マジで!? 凄いよ、凄いじゃん、花凛!!」


「でしょ~?」


 花凛は恥ずかしそうにして答える。



「ケーキなんて作れるんだ!! 凄い、凄い!! やっぱ花凛は最高のお嫁さ……」


 そこまで言った正司が恥ずかしくなって口を閉じる。花凛が少し小悪魔的な顔になって言う。



「あれ~、今なんて言おうとしたの?? ねえねえ、なんて~??」


「い、いや、その……」


 正司の顔が真っ赤になる。花凛がその赤くなった正司の顔を指でつつきながら言う。



「あー、言わないんだ。花凛に隠し事するんだ。いいよ~、じゃあ今日のお夕飯抜きね」


「え? いや、それは困る。困るよ……」


 正司が泣きそうな顔で言う。



「じゃあ、言って」


(うっ、近いっ!!)


 花凛が正司に顔を近づけて言う。



「か、可愛いお嫁、さん……」


「誰が?」


「花凛……」


 花凛がにっこり笑って言う。


「よし、いいぞ! じゃあ、ご褒美に……」



 花凛はそう言うとテーブルの方へ走って行き、ケーキに何かしてから正司の元へ戻って来る。


「花凛?」


 じっとそれを見つめる正司。花凛が正司の前まで来て笑って言う。



「これ、生クリーム」


 そう言って人差し指につけたケーキの生クリームを正司に見せる。


「うん……」


 戸惑う正司に花凛は再び笑い、人差し指に付いた生クリームを自分のに塗った。



「ちょ、ちょっと、何をして……!?」


 驚く正司の首に花凛が両手を回し、そのまま勢い良く唇を重なる。



「う、ううっ、んん……」



 甘い口づけ。

 花凛の甘い香り。生クリームの甘い味。

 正司は無意識のうちに花凛の唇に付いた生クリームを唇で拭き取るように重ねていた。花凛が恥ずかしそうな顔で言う。



「どぉ? 花凛の甘いキス……」


「最高だよ!!! 花凛、大好きっ!!!!」


「きゃっ!?」


 正司はそう言って花凛を抱き上げる。



「しょーきゅん、だいすきぃ~」


 抱き上げられた花凛は正司の頭を抱え込むようにして甘えた声を出す。



(幸せだ……、この幸せを俺は守りたい!!)


 正司は花凛のぬくもりを感じながら大好きな彼女の為なら何でもやってやると心に決めた。

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