30.父親の背中

「もしもし、お父さん?」


 夜、部屋に戻った花凛が父親からの不在着信に気付いて電話をかけ直した。



「ああ、花凛か。すまないな」


 声に元気がない、花凛はその第一声を聞いてすぐに気付いた。



「ごめんね。携帯、音消しててさ。で、どうしたの?」


「あ、うん。ちょっと話したいことがあって、電話じゃなんだから、次の週末久しぶりに帰って来ないか?」


 花凛は嫌な予感しかしなかった。

 確かに正司と付き合いを始めてから全く帰省はしていない。それほど遠い場所ではないが、電車で簡単に帰られる場所でもない。



「うん……、分かった。じゃあ、次の週末帰るね」


 花凛はそう言いながらゆっくりできる休みの日に、正司と一緒に居られないことを寂しく思った。






「うえーん!! しょーくん、ごめんねええ」


 翌土曜日の朝、花凛は正司の部屋にやって来て、顔を見た瞬間に泣き出した。慌てる正司。


「ど、どうしたの、花凛?」


 花凛が涙を拭きながら答える。



「あのね、あのね、花凛ね、週末実家に帰らなきゃならなくなったの……」


「実家?」


 正司はこれまであまり聞かなかった花凛の家について思う。



「うん、お父さんが大切な話があるから帰って来いって言うの」


 そう話しながら既に泣きそうになっている花凛。正司が花凛の頭を撫でながら言う。



「全然実家に帰ってなかったんだろ? たまには帰って羽伸ばしてきたらどうだ」


「花凛はここで羽伸ばしたいのー」


 むっとした顔で言う花凛に正司が謝る。



「ごめんごめん。そうだね、実家に戻ってもすぐ帰って来て」


「ねえ、しょーくん」


「なに?」


 花凛が顔を赤らめて言う。



「花凛をぎゅっとして」


「うん、ぎゅっ!」


 そう言って正司はまだ涙で目が赤い花凛をぎゅっと抱きしめる。



「あ~ん、しょーくんのぎゅっだ!! もっと」


「それ、ぎゅっ!!」


「ううん……」


 強く抱きしめれば抱きしめるほど花凛から甘い香りが流れて来る。こんなに柔らかい体を強く抱きしめたら壊れてしまうんじゃないかと思うほど花凛が愛おしい。

 自分の胸に当たる大きな胸の膨らみ。花凛を抱きしめながら正司は彼女の魅力に、朝から頭がくらついてしまう。



「しょーくん、朝ごはん食べよっか。花凛、パン焼くね」


「うん」


 花凛は正司の腕から離れると軽く頬にキスをしてキッチンへと向かう。



(こんな何の取柄もないおっさんに、花凛は……)


 キッチンに立つ自分をじっと見つめる花凛がその視線に気付いて言う。



「しょーくん、昨日の夜ね、花凛たくさんお鍋作ったから今日はそれ食べておいてね。本当は一緒に食べたかったけど、ごめんね」


 そう笑いながら少し悲しげな表情をする花凛。正司が答える。


「そんなことないよ。帰ったらまた一緒に食べよ!」


「うん!!」



(こんなおっさんに花凛は最高の幸せをくれた。だから俺も……)


 正司は楽しそうに朝食を作る花凛を幸せな目で見つめる。



(君の笑顔をずっと守る!!)






「じゃあ、行ってくるね」


 朝食を食べた後、着替えと準備に部屋に戻った花凛が再び正司を訪れ、一緒に駅まで歩いた。土曜の朝の駅にはたくさんの人が来ており、楽しそうに笑って会話する中高生も姿も多い。



「ありがとう、しょーくん。荷物持ってくれて」


 正司がカバンを手渡しながら言う。


「ううん、いいよ。気を付けて」



 花凛は少し考えてから言う。


「ねえ、しょーくん」


「なに?」


 一瞬正司に変な予感がする。



「一緒に行く?」


「え?」


 それは花凛の実家に正司が行くってこと。つまり両親に挨拶をするって意味である。黙る正司に花凛が笑って言う。



「うふふっ、冗談よ。しょーくん」


 正司が真面目な顔で言う。



「今じゃないけど、いつか一緒に行くよ。必ず」


「うん、今回はお父さんが大事な話があるから一緒に行けないけど、約束だぞ!」


 花凛はそう言って小指を立てる。正司もそれに小指を絡めて笑う。



「ねえ、しょーくん」


 再度正司の『花凛のたくらみセンサー』が反応する。花凛が甘えた声でささやく。



「ねえ、キスして……」


(え!?)


 ここは駅前。人通りも多い場所。正司は驚くも、花凛の顔は決して冗談を言っている顔ではない。



「こ、ここで!? みんな見てるよ……」


「いいよ、そんなの……」


 花凛はそう言ってカバンを地面に置き、両手を正司の首に回す。



「うっ」


 そして躊躇わず唇を重ねる。

 正司は花凛とキスをしながら目だけはきょろきょろと周りを見回す。



(見てる、見てる!! 周りの人達、チラチラと見てる!!!)


「ううん……、美味しかった。これで元気出たよ」


「花凛……」


 花凛はカバンを持つと笑顔で言った。



「じゃあ、ちょっと行ってくるね!!」


「ああ、気を付けて」


 花凛は何かを忘れたかのように正司の元へとやって来て小声で言う。



「浮気したら許さないからね!」


「あ、ああ。大丈夫だよ」


 花凛は再び正司の頬にキスをして改札の中へと消えて行った。






「ねえ、あなた。本当に花凛に話をするの?」


 渡辺製作所に隣接する花凛の実家。土曜の朝から両親の間に険悪な空気が流れる。父親が答える。


「ああ、話だけだ……」


 この件については既にふたりで何度も話し合っている。話をするだけと言う父親に対して、娘を巻き込みたくないという母親の意見が対立している。


「話だけって、優しいあの子が理由を知ったら断らないことぐらいあなただって分かるでしょ?」



 無言の父親。言いたいことは十分わかる。理不尽だってことも理解している。それでも仕方がない。会社を、従業員の家族を守るため、花凛には会うだけでいいからまずは話をしなければならない。



「話を、するだけだ……」


 父親は小さくそうひと言だけ答えた。





「ただいま」


 昼過ぎ、久しぶりに実家へ買って来た花凛。玄関を開けたら香る実家の匂い。子供の頃からこの匂いを嗅いで育って来た花凛にとっては、それは心落ち着く瞬間でもある。母親がやって来て出迎える。



「おかえり、花凛」


「ただいま、お母さん」


 母親は久しぶりに花凛の顔を見てすぐに気付く。



「学校楽しくやってるのね」


 花凛から溢れる幸せのオーラ。母親だから、女だからすぐにそれに気付く。花凛が笑って答える。


「う~ん。そうかな」


 学校はさほど楽しくない。学校以外の時間が幸せで仕方ない。母親が言う。


「さあ、上がって。お父さんが待ってるわ」


「うん」


 花凛はカバンを持ち久しぶりの実家へ足を入れた。




「お父さん……」


 居間で座る父親に会った花凛はすぐに気付いた。



(あんまり良い話じゃないな……)


 ここに来る間ずっと考えていた父親の話。花凛は直感で家か、工場のことだろうと思った。



「元気でやってるか。悪いな、急に来て貰って」


 そう言う父親の声に覇気がない。子供の頃から見てきた強気でいつも自分達を叱っていた父親の面影はもうない。



「いいよ。それより何かあったの?」


 くだらない話などどうでもいい。早く本題に入りたい。



「ああ、その実はな……」


 父親は一番のお得意先であるKY工業の社長が亡くなりその息子が後を継いだこと、そして先日ここへ挨拶にやって来たことを手短に話した。無言の花凛。父親が続ける。



「それでだな、そこの新しい社長が、その、応接室に飾ってあったお前の写真を見てだな、一度会わせて欲しいって言うんだ……」



(え?)


 花凛は自分の父親の言葉を疑った。

 何も仕事とは関係のない自分。その自分に会いたいってことは、まさにそう言う意味なんだろうと思った。母親が言う。



「母さんは花凛が嫌ならそんなの断っていいと思ってるからね」


「お前は黙ってろ」


「黙らないわ! こんなことに花凛を巻き込むなんて!!」


 黙る父親。

 花凛は子供の頃、あれほど大きく感じていた父親が、今はどうしてこんなに小さく見えるのだろうかとぼんやりと考えていた。

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