29.取引先の若社長
花凛の両親は地方で小さな町工場を経営していた。
「渡辺製作所」それが花凛の生まれ育った家である。両親と従業員数名の小さな工場。それでも精密部品を作る職人が多く、長年取引先からも信頼を受けて経営を続けていた。
そんな両親のもとに一番の得意先のであるKY工業の社長が急死し、その息子が新たに就任すると言う案内が届いた。今日はその新しい社長が挨拶に来る日である。花凛の母親が言う。
「もうすぐいらっしゃるわよね」
工場に階にあるそれほど広くない事務所。社長椅子に座った花凛の父親が答える。
「ああ、息子さんと言うが面識はない。一体どんな人なんだろうな」
大の得意先のKY工業。渡辺製作所の売り上げの半分近くを依存している。両親は新たに社長に就任した息子ともこれまで通り良い関係を築いていきたいと思っている。
「社長、KY工業さんが来られました」
そんなふたりに事務の女の子が新社長の来社を告げる。緊張が走るふたり。すぐに応接室に通すよう伝え花凛の父親は作業服のボタンをしっかり締めて立ち上がった。
「初めまして、渡辺です」
花凛の父親は深々と頭を下げて名刺を差し出した。
「どうも~、はじめまして」
新社長はそれを片手で受け取ると、ひょいと自分の名刺を手渡した。
花凛の父親は必死に顔に現れそうな不安を必死に耐えていた。
初対面で分かる相手の性格。長い茶髪。ピアスに私服のような着崩したシャツ。軽い口調に微塵も感られない礼節。急死したKY工業の先代がなぜまったく息子のことを話さなかったのかと理解する。
「どうぞおかけください」
「あ、どーもー」
そう言ってKY工業の若社長、
「前から失礼します」
心配したのだろうか、花凛の母親がお茶を入れて応接室に現れた。場の空気、若田の身なり、そして夫の様子を見て決してこれから先が安泰ではないことをすぐに理解した。花凛の父親が言う。
「先代には大変お世話になりました。大変急なこと、心からお悔やみ申し上げます」
そう言う父親の目にうっすらと涙が浮かぶ。苦楽を共にしてきた先代社長。厳しいことも言われたがここまでやって来られたのは彼のお陰だと思っている。
「そしてこれからもどうぞよろしくお願い致します」
父親が深く頭を下げて言う。若田はそれを黙って聞いていたが、足を組んでから言った。
「あー、その件だけど、ちょっとこことの取引見直すわー」
「え?」
突然の言葉に驚き顔を上げて若社長を見つめる。
「俺が就任してねー、色々見直したの」
黙って聞く花凛の父親。
「そしたらさー、ここの製品ってちょっとコスパ悪いんだよねー」
心臓がばくばくと鼓動する父親。
「他にねー、同じような部品作ってくれるところたくさんあってさ、値段も安いの」
「社長、それはうちの製品の質が良くて、それが品質を第一とする御社の条件に合って……」
「色々考えたの。でもさー、やっぱコスパ悪すぎなんだよねー」
花凛の父親は一体何と話をしているのか混乱して来た。仕事の話か、それとも若造の戯言か。若田が言う。
「今度の取締役会でその辺決めるからさー、ま、そう言うことで」
立ち上がろうとする若田に花凛の父親がテーブルに両手をつき頭を下げて言う。
「しゃ、社長、待ってください!! うちは先代とずっと一緒にやって来て御社のご希望に合った製品を作らせて貰って、それから……」
「じゃあ、もっと安くやってよ。そうだな……」
若田の口から具体的に出た数字。
それは渡辺製作所としてとても受け入れられる金額ではなかった。
「そ、それではうちの社員に払う給与が出せません……」
花凛の父親は顔から脂汗をだらだら流し小さな声で言う。若田が答える。
「え、それってウチに関係ないじゃん」
そう言いながら応接室にあるスチール製の棚をじっと見つめる。
(大変なことになった。このままでは会社が、会社が潰れるかもしれない……)
長年の付き合いに甘えてKY工業以外での仕事を多くとって来なかった渡辺製作所。この不況の時代には様々なリスクに備えることが社長には求められるのだが、職人肌の彼にはそこまで器用に立ち回れなかった。
「ど、努力はしますが、その値段だけは……」
花凛の父親が力なくそう言うと、若田は立ち上がってスチール棚に置いてあったある写真を見つめて言う。
「ねえ、これ誰なの?」
「え?」
若田は写真立てに写っている女の子を指差して言う。社長が答える。
「娘ですが……」
花凛の父親は一体何を言っているのかと考える。
「へえー、幾つなの?」
「年齢ですか? 大学二年ですが……」
父親は一緒に写った花凛の妹かと思ったがすぐに思い直した。若田が頷きながら言う。
「めっちゃ可愛いじゃん。ねえ、紹介してよ」
「は?」
あまりの驚きに花凛の父親が目を丸くする。
「会わせてくれたらさー、これまで通りの契約も考えよっかな~」
花凛の父親は今目の前で起きていることがまるで何かの映画でも観ているような気分になっていた。
「ただいま!!」
「しょーくん、おかえりー!!」
正司が自分のアパートに戻ると、可愛らしいピンクのエプロンを付けた花凛が笑顔で出迎えてくれた。花凛が正司に抱き着き頬を赤らめて言う。
「花凛、しょーくんいなくて寂しかったよ」
正司も花凛を見つめて言う。
「俺もこの世界で一番美味しい花凛の弁当がなかったら会社で死んでいたよ」
「きゃー、嬉しい!! しょーくん、大好きっ!!」
そう言って花凛が正司の首に腕を回し、口づけをする。
「でも、一番美味しいのは花凛の唇かな?」
そう言って今度は正司から花凛に口づけする。
「んん……、しょーくぅん……」
赤くなった花凛の顔。彼女から漂う甘い香り。服の上からでも分かる柔らかい体。そのすべてが正司の男としての本能を刺激する。口づけを終えた花凛が言う。
「さ、ご飯食べよっか。今日はしょーくんの大好きなカレーだよ!」
「うん、楽しみだ!!」
そう言って正司は部屋に上がりシャツを脱ぎ始める。
ここ最近花凛は正司の部屋で過ごす時間の方が長くなっていた。朝夕の食事、休日は朝から夜まで。宿泊も週の半分ぐらいするようになっている。
(もう本当に新婚みたいだな……)
正司は鼻歌を歌いながら食事の準備をする花凛を見ながら幸せを感じていた。花凛も正司同様に奇跡的に出会ったふたりは運命の人だと思っていた。
トゥルルルル……
留守にしている花凛の部屋。
そこに置かれた彼女の携帯が、両親からの着信を何度も告げていた。
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