26.明けない夜はない
正司は勢いよくホテルに向かって走った。
ホテルスタッフは正司のゲロで汚れた服を見て驚いたが、声を掛ける間もなく正司は部屋へと急ぐ。
ジャー、バシャバシャ!!
部屋のバスルームで汚れを落とし、汚れた服はそのまま廃棄。体を拭きながら部屋にあったミネラルウォーターを全て胃に流し込んだ。そして荷造りをしながらプロジェクトリーダーに電話をかける。
『あ、もしもし、橘? お前どこ行ったんだよ! みんなもう二次会に……』
そう言うリーダーに正司が早口で言う。
『すみません。ちょっと体調不良でこれから帰ろうと思います。明日は懇親会だけなので問題ないですよね?』
ちょっと驚いた部長が答える。
『え? これから帰るの? お前酔ってるんじゃねえか?』
酔ってるのはそっちだろ、と思いつつ正司が言う。
『すみません、体の調子が悪くて。これで失礼します!』
正司はそう言って無理やり電話を切った。
すぐに荷造りを終えチェックアウトの為にフロントへ降りる。そして呼んで貰ったタクシーに乗ってから言った。
「駅までお願いします」
「えっ、駅?」
振り返ったタクシー運転手が驚いた顔で言う。
「え? どうかしたんですか。駅ですが……」
逆に驚く正司。まさかタクシー運転手が駅を知らないはずがない。怪訝そうな顔をする正司に運転手が言う。
「行ってもいいけど、まさか電車に乗ってどこか行くんです?」
駅に行くのだからそうに決まっているだろうと思いつつ正司が答える。
「そうですけど、なにか……?」
「もう、電車ないよ」
「え?」
正司が驚く。タクシー運転手は車内の時計を指差して呆れた顔で言う。
「お客さん、今、何時だと思ってるの? もう深夜12時を過ぎてますよ」
正司が時計を見て驚愕する。考えてみれば夜の飲み会を終えてホテルに戻って来ている。それぐらい遅くなっていても当然だ。
「もう、電車って全くないですか?」
放心状態の正司が尋ねる。運転手が答える。
「さあ、あるかどうかは知らないけど、普通この時間は電車から降りてきたお客を拾うんでね。電車に乗る人はまずいないよ」
淡々と話す運転手の言葉を聞きながら、正司の目の前は真っ白になっていた。
真っ暗なキッチン。
僅かな明かりの中、花凛が一心不乱に料理を作る。
(しょーくん、しょーくん、しょーくん……)
頭の中には今ここに居ない正司が美味しそうに料理を食べる姿が思い浮かんでいる。花凛自身、ここ数日まともに食事をしておらず、体が弱っていた。そしてきちんとそれらを自覚もしていた。
(しょーくんがいないだけで私、こんなに駄目な人間になっちゃうんだ……)
食事もしない、学校にも行かない。
誰とも会わず連絡もせずに、ただただ正司の匂いがするベッドで一日過ごす。これまでひとりで過ごした来た日々は一体なんだったんだろうか。
花凛はひとり自嘲しながら目の前の食材を調理していく。
(しょーくんがいない部屋、しょーくんがいないキッチン。怖い、食べてくれる人がいない料理を作るのが怖い……)
不思議と無意識に作り始めた料理だったが、落ち着いて来ると一体自分が今何をしているのかと不安になる。
ザクザクザクッ、ジュウウゥッ
野菜を切る音。炒める音が真っ暗なキッチンに響く。
花凛がふと時計に目をやる。
(もう朝が近い……)
気がつけば数時間ここに立っている。
そして正司が帰って来るのは明日の夜。つまり冷静に考えれば、今作っているこの料理は自分以外に食べる人間はいないのだ。
コトン、コトン……
熱々の料理を盛りつけた皿を花凛が誰も居ないキッチンのテーブルに置いて行く。
静寂。自分の吐息と心臓の音を除けば音ひとつしない世界。
東の空がうっすらと明るくなり始めるが、誰も食べようとしない料理を見て花凛が深いため息をつく。料理を作り終え、何もすることが無くなった花凛の目に涙が溜まっていく。まるで目的を失った鳥が力なく地面に落ちていくような感覚。
そんな花凛の頭の中に、ふとどこかで聞いた言葉が思い出される。
――明けない夜はない
理由もなく心が少しだけ温かくなる。
そんな花凛がぼんやりと明るくなる東の空をベランダ越しに眺めた時、不意に玄関の方からガチャガチャと音が聞こえた。
(え? 誰っ!?)
花凛の心臓がドクドクと大きな音を立てる。ゆっくりと立ち上がり玄関の前まで行くと、それはガチャと最後の音を立ててからゆっくりとドアが開く音へと変わった。
「花凛っ!!!」
花凛の目から涙がこぼれる。
そこには決して居るはずのない大好きな人、正司が立っていた。花凛が弱々しい声で言う。
「しょーくん……」
正司はそのまま花凛を思いきり抱き締めた。
「花凛、花凛、花凛っ、会いたかった。会いたかったっ!!!」
「しょーくぅん……」
花凛は訳が分からないまま正司を抱き返す。そして正司の顔をに手を当て唇を重ねる。
「うっ、ううん……、しょーくぅん……、ううん……」
正司も花凛の柔らかい唇を確かめるように重ねる。
全身の力が抜ける花凛。目から大粒の涙を流す正司。ふたりは涙を流しながらずっと強く抱きしめ合った。
「ねえ、しょーくん。どうやって帰って来たの?」
玄関に座り込んだふたり。
正司の肩に頭をもたれ掛かりながら座る花凛。その頭を優しく撫でながら正司が答える。
「花凛に会いたくなってね。どうしても会いたくなって。電車がなかったから、タクシーで帰って来ちゃった」
「タクシー? あんな遠い所から?」
花凛は正司の出張場所を知っている。とても普通タクシーで行くような場所ではない。
「幾らかかったのかは知らない。カードで払ったんで。でも、運転手、びっくりしてたよ」
「うふふっ、そりゃそうよ。そんな遠い場所」
花凛が正司の首に手を回し、再びキスをしてから言う。
「そんなに花凛に会いたかったの?」
「ああ、会いたかった。もう花凛無しじゃ俺、生きられないよ……」
「ふふっ、可愛いっ」
そう言って再び唇を重ねる花凛。正司は柔らかな花凛の唇と、それと同じぐらい柔らかな彼女の体を抱きしめながら思う。
(ちゃんと言わなきゃ……)
「なあ、花凛……」
「なに?」
暗い玄関。たくさん泣いたのだろう暗くても花凛の目が赤くなっているのは分かる。
「ごめん。謝らなきゃ。その……、研修会に、みこが来ていたこと……」
「……」
その名前を聞き一瞬顔が暗くなる花凛。そしてじわじわと涙が溢れて来る。
「か、花凛!?」
驚く正司。両手でその涙を拭いてあげながら再度謝る。
「ごめん、隠すつもりはなかったんだけど、花凛が知ると心配させちゃうと思って……、俺が間違ってた。本当にごめん!!」
そう言って何度も頭を下げる正司。花凛が擦れた声で言う。
「本当に、本当に心配して、花凛、すっごくやきもち焼いてたんだぞ……」
そう言いながら両手で正司の頬をつねる花凛。
「痛い痛い、痛い。ご、ごめん、何でもするから。本当にごめん!!」
「何でもしてくれるの?」
「あ、ああ……、俺ができることなら……」
そう答えながら無茶なことを言わないかと少し心配になる正司。花凛が笑顔になって言う。
「じゃあ、約束通りちゃんと花凛を貰ってね」
「え?」
意外な言葉。驚く正司に花凛が言う。
「プロポーズもちゃんとしてね、ロマンティックなの。楽しみにしてるから!」
「え、あ、ああ。うん、分かったよ!」
そう言って花凛を抱きしめ、再び唇を重ねるふたり。花凛が言う。
「ねえ、明日の仕事は?」
正司が笑って答える。
「さぼっちゃった。嘘ついて」
「あー、悪い子だ。だめっ!!」
そう言って軽く正司の頭を叩く花凛。
「いいんだよ、たまには大人だって悪いことしたい」
「じゃあ、花凛が大学さぼってたことも問題ないよね?」
「花凛はダメ。まだ子供だから」
それを聞いた花凛が頬をぷっと膨らませて言う。
「花凛は子供じゃないよ!! ほらっ!!」
そう言って花凛は正司の手を握り、自分の大きな胸に押し当てる。柔らかく温かい感触が正司の手に広がる。
「ちょ、ちょっと花凛っ!?」
「ど~お? 子供じゃないでしょ~?」
「あ、ああ、うん。そうだね、子供じゃない……」
そう言ってくすくすと笑うふたり。
「ねえ、しょーくん……」
「なに?」
花凛がはにかんで言う。
「じゃあさ、明日、どっか連れてって。遠い所」
「遠い所。いいねえ、行っちゃう?」
「うん、行っちゃうよ!!」
再び抱きしめ合い口づけをするふたり。正司が花凛に言う。
「その前に、ご飯食べよっか」
「あ、うん! まだ温かいよ。お腹減った?」
「ああ、もうぺこぺこだよ~」
「ふふっ、さあ、どうぞ!!」
ふたりはそう言って立ち上がると、キッチンへと向かう。
温かな料理が湯気を立ててふたりを迎える。橙色の朝日が花凛の料理を照らして、それはまるで光り輝いているかのように正司の目に映った。
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