25.夢の中で

 夢を見た。

 花凛は正司の香りに包まれた彼のベッドで、夢を見た。



「しょーくん、いっぱい食べてねー!!」


「うん、花凛の料理、すっごい美味しいよ!!!!」



『美味しい』

 なんて幸せな言葉。この言葉を聞く度に胸の奥がずんずんと心地良く鼓動する。正司は花凛の目の前で、次から次へと彼女の料理を食べていく。



「花凛、おかわり!!」


「え、あ、はい……」


 花凛はその声に喜びつつも、あれだけたくさん作ったはずの料理がもう底をついていることに気付いた。



「……花凛?」


 空になった皿を突き出したまま正司が悲しそうな顔をする。焦った花凛が引きつった顔で答える。



「大丈夫。大丈夫よ、しょーくん。花凛、すぐに作るから!!」


 正司はそれを聞いて不安そうな顔で言う。


「花凛、俺、お腹減ったよ……」


「しょーくん……?」



 ――花凛、お腹減ったよぉ



「しょーくんっ!!!!」


 花凛は真夜中、ひとりベッドの上で大声を出して飛び起きた。そして夢だったことに安堵しながらも全身にかいた汗、そして震える体を落ち着かせるように深く息をする。



「ご飯作らなきゃ……、しょーくんがお腹空かせてる……」


 真っ暗な正司の部屋。花凛は虚ろな目でひとり立ちあがった。






「乾杯ーーーっ!!!」


 一体何度目か分からない乾杯に、正司はため息をつきながら渋々付き合った。取引先の社長を交えての食事会。見た目だけは豪華な食事がテーブルを埋め尽くすが、無論正司にとっては何ひとつ美味しいものなどなかった。



「橘ぁ、お前、また水かぁ??」


 酔った上司が水ばかり飲んでいる正司に絡んで来る。


「ええ、小食なもんで……」


 いつもの常套句。食べる量を最小限に抑えてきた正司のいつもの自衛の言葉。実際、クソ不味い料理ばかりで吐き気を押さえながら我慢して食べているので嘘でもない。



「たまには飲んだらどうだ?」


 そう言いながら上司がビールの入ったグラスを正司の目の前に置く。



「あ、いいえ、結構です。下戸なんで……」


 そう言っていつも通りに遠慮している正司に、運悪く、少し酔った取引会社の社長がふらふらとやって来て言った。



「ああ、君が橘君か。いつもうちの若いのが世話になってるねえ~」


 それ程付き合いはない。過去に一二度相手をしただけだ。


「そんなことはないです。お世話になっているのは自分の方です」


 少し酩酊気味の社長に対して素面しらふの正司。酒を飲む者は、飲んでいない奴を見ると無理やりでも飲ませたくなる。



「ん? 橘君は飲まないのか?」


 やばいっ、と思いながら正司が答える。



「はい、全く飲めません……」


 実際飲めなかった。過去に一度飲んだことはあったが、ビールの黄色い液体がトイレで見かけるみたいで飲みながら吐いたこともある。

 それを見ていた隣に座る美崎みこがふたりの間に入って言う。



「そうなですよ、社長~、この人、こんなに可愛い私のお酒も飲まないんですよ~」


(みこ、てめえ、この酒乱め!!!)


 みこはお酒に弱かった。

 飲めばコップ一杯で酔ってしまうほど弱い。普段はほとんど飲まないはずなのになぜか今日はすでに数杯飲んでしまっている。社長が笑いながら言う。



「こんなに可愛い女の子のお酌が飲めないなんて、橘君、人生損をしているぞ~」


 社長も若い女子社員が話に乗って来てくれて、頬を緩ませながら上機嫌で話す。

 それでも頑なにお酒を飲まないでいる正司に、隣にやって来た部長が透明な液体が入ったグラスを置く。



「ほら、飲め。橘っ!」


 その場の雰囲気に押し潰されそうになっていた正司が、目の前に置かれた透明な液体な飲み物を見て一瞬安堵を覚える。


 水。

 正司は自分のグラスが空になったのを見て、上司が持って来てくれたのだと思った。



 ゴクゴク……


 正司はグラスを手に取ると、それを一気に喉へ流し込んだ。

 飲み会の雰囲気。お酒を全く飲んでいなくても、その独特の雰囲気で酔った気分になることがある。まさに今の正司がそうであった。



(えっ!?)


 グラスを空にした正司がすぐに気付く。

 上司が取引先の社長に少し引きつった顔で言う。



「焼酎ですよ、社長」


「おお、そうか。なんだ、飲めるじゃないか、橘君。見事な飲みっぷりだぞ!!」


 焼酎を一気飲みした正司を見て、社長が機嫌を直しがははっと笑い出す。

 一方の正司の体は得体の知れぬ飲み物、飲んだ瞬間から喉、そして胃の中へ流れるのを感じるような強烈な液体に酷い拒否反応を示した。



(ぐおおおおっ、な、何だこれ!? 水じゃない!? ぐぐっ、クソ不味い……)



「ぐおっ、ごえっ、うごほっ……」


 顔を真っ青にして苦しがる正司の背中を、隣にいたみこがドンドン叩きながら言う。



「きゃはははっ、な~に、やってんの、しょ~じ君~!! しっかりしなよ~!!」


 既にみこは酔ってしまっており冷静に周りが見えない。沸き起こる笑い声。正司はあまりの不味い液体に吐き気を催し、そのままトイレへと駆け込んだ。



「おえっ、うおぇ……、ごほっごほっ、うおぇ……」


 体は必死に吐こうとするが、何せほとんど何も食べていないので口からは何も出てこない。そのくせ強い吐き気が洪水のように正司に襲い掛かる。



「うぇ、うええぇ……」


 しばらくひとりで吐き続けていた正司は、急に目の前がぐるぐると回り出したことに気付く。異変を感じすぐに立ち上がろうとするが足がもつれて上手く立てない。



(なんだこれ!? まっすぐ歩けない……)


 初めての酔い。実はみこ並みにお酒の弱かった正司が、初めて飲んだ焼酎のせいで一気に酔いが回って来ていた。何も食べずに一気飲みしたのもそれに拍車をかけていた。



(やべえ……、吐き気と、めまいと、ふらつき……、体がまともに動かせん。これが酔いってやつか……)


 ふらふらになりながら正司が初めて感じる酔いに思う。体の自由が利かないというのは想像以上に危険。正司はとにかく先にホテルに帰って休もうと思った。




「はあ、はあ……、うおぇ……」


 夜の街。知らない夜の街をひとり歩く正司。

 幸い食事会の居酒屋から徒歩で帰られる距離であったが、吐き気と酔いで意識が朦朧とする正司にはとてつもなく長い距離に感じた。しかもアルコールと言うのは胃の中に入っても何かぐるぐると回っているような感覚があり、常に吐き気が続いている。

 正司は歩きながら路地に入っては嘔吐を繰り返し、顔や服をゲロで汚しながらふらふらと歩いていた。



「花凛、花凛に会いたいよ……」


 ホテル近くの路地。もう胃の中のものすべてを吐き出した正司がついに歩けなくなって座り込む。酔いが全身に回り一歩も動けなくなっていた。無理して歩いたのも酔いを早める原因になっていた。


 涙が正司の頬を流れる。

 花凛に会いたい。幼少から本当にいつも自分を苦しめていた食べもの。それは大人になってもやはり続き、自分を拒否し続ける。



(花凛、花凛……)


 その中で出会った花凛。そして彼女の料理。

 自分を否定してきた食べものたちが、彼女のお陰で初めてそんな自分を受け入れてくれた。本当に彼女と出会ったこの数か月は幸せだった。



「花凛に会いたいよ……」


 暗い路地でゲロに汚れながら座り込む正司。冷たい風が吹きつける寒い路地であったが、酔ったせいか今の正司には何も感じない。次第に眠気が襲う。このまま眠りたい。眠ったらいけないことは分かっていたが、体が言うことを聞かない。



「花凛、会いたいよ……」


 無意識に思いが言葉となって口から出た。



(しょーくん、美味しい?)



「え?」


 頭の中に響く花凛の笑顔。

 美味しそうな手料理を持ってこちらを見て笑っている。


「花凛……?」


 正司はまだ酔いが回る体に力を込めて立ち上がる。



「花凛、いるのか……?」


 現実と妄想。

 酔いのせいか正司の頭が混乱する。



(しょーくん、花凛寂しいよぉ。早く帰ってきて一緒にご飯食べよ……)



「花凛……」


 暗い路地裏。吹き付ける冷たい風。

 ビルの隙間からは煌々と輝くネオンが無機質に光る。正司は再び歩き出すと小さくつぶやいた。



「花凛、俺帰るよ」


 その足取りにはもう酒の酔いはなくなっていた。

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