24.壊れかけたふたり

 出張中の正司は忙しかった。

 朝から夕方までぎっしり詰まった研修会、その合間に行われるメーカーとの協議。昼食も取引先や同僚達に同行しなければならない。毎日誘われる夕食だけは断り、ホテルの部屋に帰って野菜をかじりながら花凛と電話をした。



 ガリッ、ガリッガリッ……


 電話で話しながら正司が花凛に言う。


「本当に不味いよ。これまでよくこんな物を食べてきたんだとびっくりする。早く帰って花凛の料理が食べたいよ……」


「うん、早く帰って来て。本当に早く。花凛寂しくて死んじゃいそうだよ……」


 花凛は毎日作っては大量に余る料理をひとり無理して食べていた。正司が出張に出て数日。花凛は既に限界が近付いていた。正司が答える。



「うん、本当はこんなの放って帰りたいんだけど、研修会がまだ終わらないんだよ。はあ……」


 正司は予想以上に困難な今回のプロジェクトを思いため息をつく。


「しょーくん、花凛、そっちに行こっか? ご飯作ってあげるよ……」



(うっ……)


 なんとも魅力的なセリフ。冷静に考えれば花凛が一緒に居て、食事を作ってくれれば仕事だってもっと捗る。貧相な食事では体がもたない。



「正直居てくれればすごく助かるけど、花凛だって大学あるだろ? 授業はちゃんと受けなきゃ」


「いいよ、そんなの。しょーくんの一大事に花凛がいなきゃ!!」


「ありがと、その気持ちだけで今は嬉しいよ」



「いいのにぃ……、ほんとに」


 花凛の声が悲しみに染まる。正司は夜遅くまで電話で話を続けた。






『しょーくん、しょーくんの声が聞きたいよお~、お昼に電話してもいい?』


 その日の午前、花凛からメッセージを受け取った正司は、昼休みと同時に外へ行き花凛に電話をかけた。



「あ、もしもし」


「しょーくん!!!」


 明るい声。正司自身もその声を聞くと元気になる。



「ごめんね、忙しいのに、我がまま言っちゃって」


「大丈夫だよ。俺も花凛の声が聞きたかったし」


 昨晩も遅くまで話をしたのだが、それでもやはり会えないというのは意外と堪える。



「で、どうしたの?」


「うん、またね。大学で知らない男から声を掛けられてね。あ、大丈夫。ちゃんと断ったから!!」


「そ、そうなんだ……」


 花凛は悪気なく言ったつもりだけど、それはそれでかなり心配な話である。花凛は可愛い。大学でも人気がある事は正司も知っている。自分達を応援してくれている由香里とよく一緒に居るとは言え、おっさんである正司はやはり心配になる。



「でね、しょーくん……」


 黙って彼女の話を聞いていた正司に後ろから声がかかる。



「正司君ーーーっ!! 何してるの? 早く行くよ!!」



(え!?)


 その声が聞こえた花凛が一瞬固まる。



(今の声って、確か……、みこさん……!?)


 正司が入院した時に部屋に荷物を取りに来たカノ。正司からは別れたと聞いていたが、今回の出張にも一緒だったのだろうか。花凛が不安そうな声で言う。



「ね、ねえ、しょーくん。今の声って……」


 正司が慌てて応える。



「あ、いや、何でもない! じゃ、じゃあ、また後で!!」


「しょーくん!? しょーくん!!」


 正司はそう言って電話を切ると同僚たちの元へと向かう。



(やばっ、今のみこの声、聞こえちゃったよな……)


 冬に差し掛かる冷たい風が吹く中、正司の額には脂汗がだらりと流れた。




(しょーくん……、あの女も来ているの……)


 電話を切られた花凛が震えながら座り込む。それに気付いた由香里が声を掛ける。


「あれ、花凛どうしたの? 花凛!?」


 座ったままの花凛は目の前の宙を呆然と眺めた。






(花凛、どうしたんだ? 電話に出ない……)


 その日の夜、花凛は正司からの電話に出ることはなかった。

 真っ暗な部屋で正司からの着信で光るスマホ。ぼうっとそれを眺める花凛は何も考えることができなかった。



 ――怖い、怖い、怖い。


 ただただ正司を失うことが怖かった。

 電話をして、話をして正司を責める自分。事実を知ることが怖かった。花凛は震えたまま布団をかぶりひとり寒い夜を過ごす。



(花凛……)


 正司もまた苦しんでいた。


 どれだけ掛けようが繋がらない電話。

 送っても既読にもならないメッセージ。



(みこが来ることをちゃんと話さなかったせいだよな……)


 正司には花凛の沈黙の理由がしっかりと分かっていた。


(帰ったらちゃんと謝ろう。今回は俺が悪い。ただでさえ出張で不安にさせている中……)



 正司がスマホを机に置いて思う。


(でも、俺だって今すぐにでも会いたいんだぞ……)


 正司は悔しさと自分の不甲斐なさをひとり責め続けた。





 翌日から花凛は大学を休むようになった。


(花凛、どうしちゃったのかな……?)


 講義に顔を出さなくなった花凛を友人の由香里が心配する。電話をかけても繋がらない。不安に思い夕方花凛の部屋を訪ねたが、電気はついておらず鍵もかかっていた。



「留守? どこかへ行ったのかな?」


 由香里が首を傾げながらアパートを去る。




(しょーくん、しょーくん、しょーくん……)


 花凛は留守中のの部屋に合鍵を使って入っていた。

 正司のベッドの中に入って横になる花凛。その枕に顔を埋めてひとり思う。



(ああ、しょーくんの匂い。しょーくんに抱かれているみたい……)


 布団から匂う正司の香りを全身で感じ花凛が恍惚の表情となる。

 あれほど好きだった料理も正司との最後の電話以来作っていない。花凛は気付いた。



 ――しょーくんが食べない料理なんて作る意味がない。


 花凛は昔の正司の真似をするように野菜を生でかじるようになる。



「うっ、うっ、うわああああん!!!!」


 そして時々大きな声で泣く。

 正司がいない現実。料理が食べて貰えない日々。そのすべてが弱った花凛の心を押し潰そうとしていた。



「会いたいよぉ、会いたいよぉ、しょーくん……、もう寂しくて死にそうだよ……」


 花凛はおかしくなる寸前であった。

 スマホの充電もしておらずバッテリーは切れ、完全に外と遮断された状態。花凛は暗い部屋でひとり狂いそうになっていた。






「橘っ」


「はい」


 研修も終盤。ほぼプロジェクトも予定通り進み、残りは今日の午後と明日の懇親会を残すのみとなった。

 午前の研修を終え昼食へ向かおうとしていた正司に、プロジェクトリーダーが声を掛けた。



「今日の夕食だけど取引先の社長が来るんで、出席してくれよ」


「え?」


 寝耳に水。そんな話は聞いていない。



「分かってる、分かってる。行きたくないのは分かってるが、今日だけは付き合ってくれ」


 毎晩夕食を断る正司のことを、周りは付き合いの悪い人間だと思っている。正司自身それで面倒事がひとつ減るのならば別に問題はないと思っていたが、さすがに今日ばかりは断れそうにない。



「分かりました。同行します」


 不味い飯。酒と言う名の意味不明な飲み物。

 飲み会や食事会が大嫌いな正司にとってはそれらは、ただ単に憂鬱なイベントでしかなかった。

 ここ数日、花凛とは連絡が取れない状態であったが、正司はそれでも今日の夜食事会に参加しなければならないことをメッセージで送る。



(既読にならないか。どうしたんだ、花凛……)


 正直不安でならなかった。

 くだらない食事会など無視して今からでも帰りたかった。花凛に会いたい気持ちが正司の中で大きくなり、弾けそうになっていた。



「正司君、行くよ~!!」


 そんな彼の腕を同期のみこが引っ張る。

 正司は半分魂が抜けたような状態で、そのままみこに引っ張られて行った。

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