23.出張前夜

「花凛、花凛ってば!!」


「え?」


 花凛は友人の由香里の声で初めて周りの景色が目に入る。由香里が言う。



「講義、もう終わったよ。それに……」


 花凛は講義を受けていたことを思い出す。ただ全く記憶がない。寝ていた訳でもないのにどうしたんだろうと思う。



「でさ、花凛……」


「え、なに?」


 花凛が由香里を見ると目の前に見知らぬ男子学生がこちらを向いて座っている。驚く花凛。



「えっ、だ、誰?」


 由香里がため息をついて答える。


「いや、だから今お昼一緒に行こうって誘われたんじゃん……」



(うそ……、全く気付かなかった……)


 全くそんな記憶はない。

 先程から自分の記憶が飛んでしまっていることに花凛が気付く。



(いや、違う。違う、私、起きながらを見ていたんだ……)


 それは広い草原で正司と一緒に手を繋いで走り、転んでしまった自分をお姫様抱っこして何度もキスを交わす夢。

 夢と言うより白昼夢のような妄想。思い出すだけで顔が赤くなり、とろけるような表情になる花凛。それを見た由香里が男子学生に小声で言う。



「ごめん、やっぱ無理だと思う」


「そ、そうなの……、また声かけるね……」


 男子学生は残念そうにその場を去って行く。由香里が花凛を見ながら思う。



(このだらしない表情。きっと正司さんのこと考えてるんだわ。本当に分かりやすいよね……)


 由香里はまだぼうっとして宙を見つめる花凛の隣に座って、ふわぁと大きな欠伸をした。






「な、なあ、花凛。ちょっと食べにくいんだが……」


 正司が出張に行くと分かってから、花凛の正司に対する密着ぶりが前にも増して強くなった。寛いでいる時はもちろん、食事中、そして終いにはトイレにも付いて来ようとする。そして口癖のように言った。



「花凛も一緒に行きたいよ~」


 何度も何度も一緒に出張について行くという。仕事なのでさすがにそれはできないと断るといつも涙目になって悲しい顔をする。



「花凛、カバンの中に入って行くから。迷惑かけないから、ね?」


 そう言って準備していたスーツケースの中身を全部取り出し、自分が入ろうとする花凛。



「おいおい、ちょっと待てっ!!」


 さすがにそれはまずいと思い、カバンに入ろうとする花凛を抱きかかえそのままベッドの上に運ぶ。

 涙目になってベッドの上に横たわる花凛。胸にある大きなふたつの膨らみがいつにも増して色っぽい。こちらを見つめる花凛に正司が言う。



「言うことを聞かないと、襲っちゃうぞ!」


 花凛が正司の手を引いて答える。



「連れてってくれるのなら、……いいよ」


(え!?)


 そう言って更に強く自分の方へ引き、姿勢を崩した正司が横になる花凛の上に四つん這いのようになる。



(か、可愛い……)


 頬を赤らめ、やや乱れたさらさらの黒髪がなんとも艶めかしい。正司は自分の理性を抑えるのに必死になった。ただ花凛は自分の彼女。本人の同意があればここで何をしようと構わない。



「しょーくぅん……」


 甘い声、花凛が誘うような表情で言う。



「花凛……」


 正司がゆっくりと花凛の柔らかい唇に自分の唇を重ねる。



「んん、んん……」


 それに目を閉じて応える花凛。正司は花凛の頭を抱き抱えるように唇を重ね続ける。甘い女の色香。柔らかい肌。正司の理性は崩れかけていた。



(花凛、花凛、花凛……、えっ……?)


 口づけを終え、花凛の顔を見つめた正司が驚く。



「しょーくん、お願い、行かないでよぉ……」


 真っ赤な目、涙。

 震える花凛の声で正司の目が覚めた。



「愛してる、花凛。エッチなことは結婚してからだろ?」


「……」


 目に涙を溜め花凛が無言で正司を見つめる。



「たった一週間だけだ。美味しいご飯を作って待っててくれ」


「しょーくん、しょぉくぅんん!!!!!」


 花凛は正司に抱き着き声を上げて泣いた。

 冷静に考えればたった一週間。毎日電話だってできるし、メッセージのやり取りだってできる。しかし花凛のあまりにも深すぎる愛が、ひと時たりとも正司から離れることを本能的に拒んでいた。






「じゃあ、行ってくるね」


「うん、大好きだよ。しょーくん……」


 出張出発の朝、朝食を終え家を出る正司に花凛が抱き着いて言った。

 前日の夜、花凛は二回目となる正司の部屋でのお泊りを決めた。今回はちゃんと自分の部屋からピンクのパジャマを持参し、変に正司を困らせるようなことはしなかった。



「しょーくん、しょーくん、こっち向いて……」


 それでもいつも以上に正司に絡みつく花凛。食事はお互いに食べさせ合って食べ、食後もまるで猫のように正司の膝の上で丸くなる。正司は花凛の頭を撫でながら、パジャマの隙間からちらりと見えるピンク色の下着にどきどきと興奮する。



「花凛、そろそろ寝るけど……」


 正司が少し言い辛そうに花凛に言う。



「うん、一緒に寝よ」


「あ、ああ……」


 屈託のない笑顔でそう言う彼女を見て正司の体の力が抜ける。



「しょーくん……」

「花凛……」


 ふたりは明かりを消した暗い部屋の中、小さな布団の中で抱き合って口づけをする。それから花凛は正司の肩に頭をつけて話を始める。


 これまでのこと。出会ってからのこと、そしてこれからのこと。

 ふたりは暗い夜の帳の中、楽しい話をずっと続けた。



「でさ、花凛……」


 そう小さく言った正司の言葉に花凛の返事はない。



(花凛……?)


 正司が横目で彼女を見ると、小さな寝息を立てていつの間にか眠っていた。

 彼女の頭正司が優しく撫でる。そしてその柔らかな頬に涙が流れていることに気付いた。



(花凛……)


 結局あれから明日からの出張について詳しい話はしていない。

 彼女についた小さな嘘もそのままになっている。それがやはり唯一の気がかりではあったが話すタイミングが見つからなかった。顔の近くで寝息を立てる花凛を見つめながら心の中で言う。



(愛してるよ、花凛……)


 正司は自分の肩で眠っているその愛おしい存在を感じながら目を閉じた。

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