22.小さな嘘
「るんる、るんる~ん」
日曜の朝、正司は花凛とふたりで一緒にスーパーへ買い物へ来ていた。
彼女は渡辺
橘
「ねえ、しょーくん。今日は鍋にしようと思うの。好きかな?」
花凛は食料品売り場を正司と腕を組みながら歩き、その大きな目で見つめる。
彼女が作る破壊級に不味い料理。それが味覚障害の正司にだけ不思議と絶品料理へと変化する。
「好きだよ。まあ、味はよく知らないんだけどね」
子供の頃に何度か食べたことはある。ただ味が分からないので鍋の持つ本当の味は知らない。花凛が作る料理。それが正司にとってこの世のすべての味でり、料理だった。花凛が尋ねる。
「どのくらい好きなの?」
「分からないけど、多分すごく好き」
「花凛と、どっちが好き?」
花凛が正司を見つめる。その目には『私を選んで』と訴えているように見える。
「花凛、かな……?」
花凛が組んでいた正司の腕に力を入れて言う。
「しょーくん、何その『かな』って! 花凛は鍋より美味しいよ!!」
組んでいる腕をつねり出す花凛。正司が慌てて言い直す。
「ご、ごめんっ!! 花凛、花凛の方が好き。大好きだよ!!」
そう言って反対の手で彼女の頭を抱きかかえ、そこへ軽くキスをする。ようやく機嫌が直った花凛が言う。
「へへ~、よしよし。でも美味しい鍋もちゃんと作るね!!」
(どっちなんだよ、一体……)
そう思いつつも嬉しそうに食材を選ぶ花凛を見ていると、こうして一緒に居られることが本当に幸せなんだと思える。
そして会計。以前ごみ拾いの時に来たレジのおばちゃんに再び遭遇する。
ピ、ピッ、ピッ
バーコードをスキャンしながらおばちゃんが花凛と正司を見て言う。
「あら、この間の新婚さん」
「え?」
おばちゃんのことなどすっかり忘れていた正司がその時のことを思い出す。すると隣にいた花凛が満面の笑みで返す。
「やだ~、分かります??」
笑顔で平然と言い切る花凛の横顔を正司は驚きながら見つめた。
「そりゃね、可愛い奥さんだもん!」
「きゃはっ! そうですよね、分かっちゃいますよね!!」
スーパーの帰りの花凛はそれはもう上機嫌であった。
「しょーくん、聞いた? 花凛がね、若くて可愛いお嫁さんなんだって!!」
「あ、ああ、聞いてたよ」
正司はスーパーのおばちゃんと、まるで旧知の友人のように話す女と言う生き物を不思議な目で見ていた。若くて可愛いとか、いつも料理を作っているとか、普段は大人しい花凛が珍しく饒舌になっていた。
「しょーくんは嬉しい? 若くて可愛い奥さん?」
花凛はそう言って組んでいた正司の腕を自分の方へ引き、顔を近づけて尋ねる。
「あ、ああ。嬉しいよ」
「うんうん、花凛も嬉しいよ」
花凛は更に自分の方へと顔を引寄せ耳元へ小声で言う。
「花凛は、しょーくんだけのものなんだから」
そう言って頬に軽くキスをする花凛。そしてすぐに正司に抱き着きながら言う。
「しょーくん、大好きだよ~」
「わ、わっ、花凛!?」
正司は両手に持ったスーパーの袋が落ちないように気を付けながら、喜ぶ花凛を微笑みながら見つめた。
翌日の月曜日、花凛のお弁当を持って出社した正司に部長がやって来て言った。
「橘、ちょっといいか?」
「あ、はい」
驚く正司。普段自分のような
「今度うちで扱う新製品の販促プロジェクトにお前が選ばれた。週末から1週間ほど出張だ。間もなく昇進だしな、しっかり勉強して来い」
「は、はい……」
簡単に言えば新製品を学ぶ研修会。そして同時にメーカーも交えて販売戦略を作り上げていく。普段仕事でもそれなりにこなしていた正司。来月から課長への昇進も決まっていた彼に今回白羽の矢が立ったわけだ。部長が去った後に正司が思う。
(一週間の出張……、そんなに長く居ないとなると花凛のご飯が食べられないよな……)
正司にとっては会社の仕事より花凛と一緒に居られなくなること、そして彼女の料理が食べられなくなることの方が重要であった。
「正司君、おはよ!」
そうひとり考えていた正司に背後から明るい声がかかる。
「お、みこ」
茶色のショートカットが可愛いみこが笑顔で立っている。胸元に可愛いリボンがついた会社の制服を触りながら言う。
「私もね、そのプロジェクト、参加することになったんだよ!」
正司が意外そうな顔で答える。
「そうなんだ。ちょっと驚き」
「え、なんで? 正司君は私と一緒じゃ嫌なの?」
正司が慌ててそれを否定する。
「そ、そんなんじゃないよ。よろしくな」
「うん、一緒に出張だね」
(あ、そうなるのか……)
正司はみこに言われてその事実に初めて気づいた。
その日の夜、正司はいつも通り部屋で花凛と夕食をとっていた。
「はい、あ~ん」
「ぱくっ、むしゃむしゃ……、美味しいっ!!!!」
前日に大量に作った鍋が余っており、それを一緒に食べるふたり。花凛はひとり暮らしだったはずなのにどうしてこんなに大きな鍋を持っているのかと正司は不思議に思った。
「美味しい? しょーくん」
「うん、すっごく美味いよ」
花凛が嬉しそうに言う。
「鍋は二日目の方が味が良く染み込んで美味しくなるよね!」
(そうなんだ……)
ほぼ食材をそのまま食べて生きてきた正司には、料理にそんな秘密があるなんて夢にも思わない。いずれにしろ出汁や旨味が良く出た鍋は味もとても優しく、どれだけ食べても飽きないものであった。
隣に座る花凛が正司に密着して言う。
「寒くなって来たし鍋が美味しい季節だよね~」
そもそもこれからは大根や白菜をかじる生活になるだろうと思っていた正司。考えてみれば料理で季節を感じるのが一般的なのだろうと思った。
ただそんな事よりも、隣に密着する花凛の胸元に目が行ってしまって脳が正常に働かない。
「しょーくん、どうしたの? ずっと黙っていて?」
胸元の大きく開いたニット。大きな胸の花凛のそこから見える谷間がとても色っぽい。ようやくその視線に気付いた花凛が胸に手を当てて言う。
「あー、しょーくん、またえっちなこと考えてたあー!!」
「あ、ち、違うっ。いや、違わなくはないんだけど、そう言うんじゃなくて……」
「ぷっ、くすくす……」
口に手を当てて笑う花凛。そしていつぞやの様に手で胸元の服をつまみ上げて胸の谷間をはっきりと見せて言う。
「はい。いいよ、見ても」
「うわあああっ!!!!」
驚く正司。花凛はすぐに正司を抱きしめ耳元でささやく。
「見てもいいんだよ。花凛は、しょーくんのものだから」
「あ、ありがとう……」
そう言われると逆に見辛くなる。
正司は目の前のお椀に入った鍋を見つめ、ある事を伝えなきゃと思い何度も息を吐いてから言う。
「あ、花凛。そう言えばちょっと話があって……」
花凛が笑顔で言う。
「なに? 挙式のこと?」
「いや、まだそれじゃないんだけど……、来週さあ、俺、一週間ぐらい出張になりそうなんだ」
「出張……?」
それを聞き花凛の顔から笑みが消える。
「うん、会社の新しいプロジェクトに選ばれて、研修会みたいなものに参加しなきゃならなくてさ……」
花凛の耳に正司の無機質な言葉が流れる。花凛が尋ねる。
「一週間も、しょーくんと会えないの……?」
既に泣きそうな顔になっている花凛。
「う、うん……」
正司も申し訳なさそうな顔で頷く。花凛が尋ねる。
「みこさんは、みこさんも行くの?」
正司の箸を持っていた手が止まる。思ってもみなかった問い掛け。想定外の質問に一瞬返事が遅れる。
「ま、まだ分からない」
小さな嘘。
それは正司が花凛についた初めての嘘だった。
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