14.花凛のお弁当
「あなたが渡辺さんね?」
(どうしてここへ? なぜ私に……?)
混乱している頭がさらに混乱する。涙を拭うように目をこすり相手を見つめる。茶色の髪が美しい大人の女性。彼女は持っていた大きなカバンを床に置き、ポケットから何かを取り出して言う。
「はい、これ……」
そう言ってメモが書かれた小さな紙きれを花凛に手渡した。
「え?」
意味が分からない花凛にみこが言う。
「正司さんね、入院したの。その病院に」
「ええっ!?」
花凛の全身の力が抜ける。昨晩から帰って来ていない正司。まさか入院していたとは。花凛が尋ねる。
「あ、あの……、何があったんですか……?」
「分からない、正司君に聞いてみたら?」
無言で紙きれを見つめる花凛。そこには少し離れた場所にある病院と病室の番号が記載されている。みこは床に置いたカバンを持ち上げ、花凛に言う。
「私、これから着替えとか正司君に持って行かなきゃならないの。頼まれちゃってね。じゃあね」
(着替えを……、頼まれた??)
その言葉、その意味を考え花凛の心臓は壊れるほど大きく鼓動する。合鍵に、着替えをお願いするような女性。ただの友達ではないのは間違いない。
怖い。怖いけど勇気を持って聞かなきゃいけないと花凛が覚悟を決める。
「あ、あの……」
荷物を持って歩き始めたみこの足が止まる。花凛が尋ねる。
「あなたは……、あなたは正司さんの彼女、なんですか……?」
大きく呼吸が乱れる。聞こえるほど激しく打つ心臓。手先は感覚がなくなるほど冷たくなっている。少しの間を置いて背中を向けたままのみこが逆に尋ねる。
「ひとつ聞いてもいいかしら?」
「……はい」
「正司さんはあなたの料理、美味しそうに食べる?」
「はい……」
花凛は小さな声で答える。それを聞いてみこが花凛の質問に答えた。
「彼女よ。……じゃあね」
そう言ってカツカツと足音を立ててアパートの階段を下りていく。
「うそ……、うそ、そんなこと……」
花凛は開けたドアを掴んだままその場に座り込む。足に、体に力が入らない。緊張で止まっていた涙が再びぼろぼろと目から流れ落ちる。
(正司さんに彼女がいたなんて……、でも、あんなに綺麗で大人っぽい人なら、当たり前で……)
「う、ううっ……」
花凛は口に手を当てて嗚咽する。そして手にしたメモを目にして思う。
「正司さんが入院……、行かなきゃ、会いたい。だけど……」
花凛の脳裏には先程の綺麗な女性が正司を看病する姿が浮かぶ。
(私が、私なんかが邪魔したら……、でも……、でも会いたいよぉ……)
花凛は抑えきれない自分の想いに潰されそうになっていた。
カツカツカツ……
大きな荷物を持って歩くみこは花凛と別れてからずっと無表情であった。
(私は、私は彼女よ、正司君の彼女、昔の……)
みこのカバンを持つ手に力が入る。
「はあ……」
みこが立ち止まり明るく晴れた空を見上げて思う。
(嫌な女。私って、本当に嫌な女……)
みこは再び病院へと向かって歩き出した。
「はい、これで今日の検査は終了ですよ。お疲れさまでした」
翌朝、正司は今日行われるすべての検査を終え安堵の表情を浮かべた。レントゲンにMRI、血液検査など言われるがままに検査を受けた正司。年に一度の健康診断もちゃんと受けていなかったなと少し反省しながら病室へ戻った。
(でも、まだ体がだるい……)
めまいは治って来たが、良く分からない体のだるさは残っている。まだ微熱もあるようだ。正司がベッドに横になると部屋に大きな荷物を持ったみこが入って来た。
「おはよー、正司君」
「あ、みこ」
正司は上半身を起こしみこを迎える。
「はい、これ。重かったぞ」
そう言ってカバンを正司に差し出す。
「ありがと! 助かるよ!!」
それを正司が笑顔で受け取る。みこが尋ねる。
「どう? 調子は?」
正司が首を振って答える。
「うーん、検査は一応終わったけど、まだ体がだるいかな……」
「そう、じゃあしばらく会社は休みだね」
「ああ、そうなるかな。有給余ってたからそれ使うよ」
「うん、私からも言っとくね」
「ありがと」
カバンの中から着替えや生活用品を取り出す正司。みこが病室の窓から赤く色づき始めた木々を見つめながら尋ねる。
「ねえ、あの渡辺って子さあ……」
「ん?」
「正司君、好きなの、彼女のこと?」
「ええっ!?」
驚きで片づけをしていた手が止まる正司。みこを見て言う。
「な、なんで? 急に……」
みこが振り返って言う。
「なんとなく。女の勘、ってやつかな」
「……」
黙る正司。みこには言おうと思った。
「好き。うーん、それ以上の気持ちがあると思う」
正司の素直な気持ちであった。花凛を思う気持ちに自分自身気付いていたし、彼女の作る料理なしでは大袈裟な話もう生きられない。
「そう……」
みこは無表情で答えた。正司が言う。
「彼女にここのこと伝えてくれた?」
「伝えたわ。じゃあ、私帰るね」
「え、あ、ああ。ありがとう」
みこは軽く手を上げるとそのまま病室を出て行く。
「はあ……」
みこは病院の廊下に出ると壁にもたれ掛け、大きくため息をついた。
(本当に嫌な女ね、私って……)
みこはもう一度ため息をついてから廊下を歩き始めた。
「異常は特に見当たりませんね。取りあえずしっかり食べて休養してください。明日、再度精密検査を行います」
入院して数日、正司の体のだるさは一向に改善されないでいた。
「はい、頑張ります……」
医師はその返事に少し違和感を覚えたが笑顔で聞き流した。病室に戻った正司が思う。
(体調不良の理由は分からないが、今、体力を落としている原因はこれだよな……)
正司は看護婦が運んで来てくれた病院食を前に腕を組んで思った。
(不味い。本当に不味い飯。生野菜の方がまだましだ……)
元々味が薄く淡白な病院食。それが味覚異常の正司には強烈な不味さとなって変換されていた。看護婦が言う。
「橘さん、しっかり食べないといけませんよ」
「はい……」
食事を残しがちな正司に看護婦が少し怒り気味に言う。
正司自身、かなり無理をして頑張ってこの食事を食べていたのだが、食べれば食べるほど下水が腐ったような味がしてどんどん食欲が落ちて行く。
「はあ……」
正司はスプーンを持ったまま窓の外を眺める。いつの間にか秋になり紅葉が始まり、やがてその葉も散って行く。
(俺はいつまでも変わらないままだな……)
子供のころから自分の不運に絶望し、ある意味世の中を呪いながら生きて来た人生。年を重ねるごとにそれは諦めに変わり、もう関心すらなくなり始めていたこの頃。ただそれを彼女が変えてくれた。
(花凛ちゃん……)
明るい屈託のない花凛の笑顔が頭に浮かぶ。
(彼女の料理が食べたい……、お腹いっぱい食べたい。俺……)
正司の目から涙がこぼれる。
彼女が近くにいないと思うだけでこんなに寂しくなるのだと正司は知った。これまでずっとひとりで孤独に生きて来たのに、誰にも理解されずに生きて来れたのにたったひとりの女の子にここまで変えられてしまうとは。
正司が不味くて死にそうな病院食を食べるためにスプーンを手にする。
ガチャ
不意にドアが開かれた。顔を上げる正司。そして驚いた。
「えっ……」
そこには恥ずかしそうに下を向いて立つ花凛の姿があった。正司が言う。
「花凛ちゃん、俺……」
正司が名前を呼ぶと花凛が顔を上げて笑顔で言った。
「お弁当、作ってきました。一緒に食べましょ!」
正司は弁当箱を持って笑顔でそう言う花凛を見て、先ほど拭いたばかりの涙が再び流れた。
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