13.元カノへのお願い

(あれ、俺、一体どうして……)


 正司はゆっくりと目を開け、目に入るまぶしい明かりに手をかざした。



「あ、橘さん、目覚めましたよ!!」


 周囲の明るさに目が慣れ、正司が目を開けて辺りを見回す。



(病院? 俺、病院にいるのか……?)


 体には何か細いチューブのような物が付けられている。目覚めた正司を看護婦たちが慌ただしく何かの処置をする。



(体が、だるい……、どうしたんだろ、俺。確か会社の帰りに……)


 いつも通り会社から歩いて帰っていた正司。朝から少し気分が悪くて急いで帰って休もうと思って歩いていたところまでは覚えている。服は会社のシャツを着ている。恐らくそのままここへ運ばれて来たのだろう。



「正司君!!」


「あ、みこ」


 正司の目に同僚のみこの心配そうな顔が目に入る。みこが言う。



「びっくりしたんだよ、急に倒れちゃって……」


 みこの話では会社から帰る途中、突然倒れてそのまま救急車でこの病院まで運ばれて来たらしい。そんな話に正司が驚いていると、白衣を着た男の医師が現れた。



「気分はどうですか、橘さん?」


 ベッドから上半身を置き上がった正司が答える。



「なんか、なんて言うか最悪です……」


 吐き気にめまい。ベッドに寝ているだけでも気持ち悪い。医師は正司の脈や瞳孔をチェックしながら言う。



「原因はまだ分からないけど、熱があったので解熱剤は注射しておきましたよ。仕事の疲れですかね? 見たところ異常はなさそうだし、明日精密検査をしますので数日は入院となります」


「え? 入院!?」


 突然の事態に驚く正司。看護婦が言う。



「大したことはないです。検査入院ですし、様子見も兼ねていますからね」


「は、はあ……」


 突然大ごとになったと正司は思った。医師が去った後に付き添いでいたみこが正司に言う。



「本当にびっくりしちゃったんだから。大丈夫なの?」


「あ、ああ。ごめん心配かけて」


 正司自身、それほど仕事が忙しかったわけじゃないし、なぜ急に倒れたか理解できない。ただこうしてみこが付き添ってくれたことには感謝している。



「まあ、私も初めて救急車乗っちゃったし。貴重な経験できたかな?」


 そう言って笑うみこを見て正司も一緒に笑う。



 その後正司は一般病室へ移り、入院の説明や書類へサインを行う。そしてまだ帰らず付き合ってくれていたみこに申し訳なさそうに言う。



「なあ、みこ。ちょっと頼まれてくれないか?」


「なに?」


「その、着替えとかさ。そう言ったもの部屋から持ってきて欲しいんだ」



「えー、まじで!?」


「マジ。俺動けないから」


 医師からしばらく外出禁止だと言われている。みこが言う。



「えー、どうしよう??」


「いいじゃん、元カノだろ? 元彼が困っているんだから助けてくれよ」



「はあ、仕方ないな~、貸しイチだぞ」


「はいはい。後さもうひとつお願い」


「なに?」


「俺のアパート行った時にさ、隣に住んでいる渡辺って女の子に俺がここに入院したって伝えておいて欲しいんだ」




「は? 何それ!?」


 怪訝な顔をしてみこが言う。



「何でそんなことまでしなきゃいけないの? 自分でケータイで連絡すれば?」


 正司が頭をかきながら答える。


「いや、それがさ、さっき気付いたんだけど携帯のアドレスとか知らなくて……」


「どんな女の子なの?」


「……女子大生」



「はあ? マジで!?」


「ああ、マジ」


「どういう関係なの?」



「う~ん、お隣さん?」


「ふっ、何それ。そのまんまじゃん」


「時々ご飯作って貰ってる」



(え?)


 それはみこにとって意外なひと言であった。

 正司が誰かの作った料理を食べている。つまりそれは『彼が食べられる料理を作れる人がいた』という意味になる。


「美味しいの、その子の料理?」


「うん、美味い」



「……そう」


 みこは全身の力が抜けて行く感覚になった。

 正司とは別れた身。だから彼が誰と付き合おうが関係ない。それでも自分だけが正司の食べ物を作れると思って来たみこにとっては、少なからずショックであった。



「可愛い子なの?」


「え? あ、ああ、まあ……」



「私より?」


「馬鹿なことを聞くな。ほら、これ鍵」



 正司はそう言うとカバンの中に入っていたアパートの鍵を取り出しみこに渡す。みこがそれを受け取りながら尋ねる。



「分かったわ。明日でいいでしょ? 土曜日だし、午前中取りに行ってここに来るよ」


「ああ、それでいい。助かる」


 みこは「じゃあね」と言って手を振って病室から出て行った。それを見送った正司がひとりになって思う。



(まったくどうしちゃったんだ、俺……、そんなに疲れていたのかな……、それにしばらくは花凛の料理って食べられなくなるのか……?)


 正司はため息をつきながら病院のベッドの布団に潜り込んだ。






(正司さん、帰って来なかった……)


 花凛は自室のドアを少し開け、徹夜で正司の帰りを待った。いつも同じ時間に帰ってくる正司。会いたくて会いたくて不安で心配で気が狂いそうな夜が明け、東の空が徐々に明るくなる。



(私、正司さんのケータイの連絡先、聞いてなかったんだよな……)


 いつも隣にいた正司。その安心感からケータイの連絡先の交換をしていなかったことに今更気付く。後悔しても仕方ないが、不安だけが雪の様に花凛の心に積もって行く。



 カツカツ……


 日も登りすっかり暗闇から明るい朝を迎えた頃、アパートの階段を上る音に花凛が気付いた。



(女の人の足音……、正司さんじゃない……)


 ドアの隙間からぼんやりそう思っていた花凛は、その上がって来た人物を見て驚き目が覚めた。



(え!? あの人って、確か正司さんの部屋から出て来た……)


 花凛はその女が以前正司の部屋から出て来て『私を食べる』とか言っていた女性だと気付く。どきどきと鳴る花凛の心臓。眠気が一気に吹き飛ぶ。



 ガチャ、ガチャガチャ……


 そしてその女は何の躊躇いもなく正司の部屋のでドアを開ける。



(え? 合鍵を、持ってるの……?)


 それをドアの隙間から見つめる花凛が固まる。女は無言でドアを開けるとそのまま正司の部屋へと入って行く。



「はあ、はあ、はあ……」


 花凛は目の前で起きたことに頭の理解が追い付かない。追いつかないと言うよりは頭がそれを否定しようとしている。



(合鍵を持っていて、自由に部屋に入って、そんな人って……、彼女しかいないじゃん……)


 一睡もしていない花凛の乾いた目から涙が流れる。



「私、私……」


 どうしていいか分からず震えていた花凛に突然部屋のチャイムが鳴った。



 ピンポーン


(え?)


 玄関で座り込んでいた花凛が立ち上がり、ドアを開ける。



「こんにちは。あなたが渡辺さん?」


「あ、はい……」


 花凛はなぜ正司の彼女が私の部屋を訪ねて来たのか理解できず、完全に頭が混乱してしまった。

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