9.ふたりの距離
「花凛、昨日はごめんね」
翌日、講義で隣に座った由香里が花凛に申し訳なさそうな顔で言った。花凛が教科書を取り出しながら答える。
「ううん、全然いいよ。お友達を紹介して欲しいと言ったのも私だし」
「うん……」
それでも昨日の先輩の態度は目に余るものがあった。
ただ、あんな事があったにもかかわらず、意外といつも通りの花凛を見て由香里が不思議に思う。自分が昨日の責任を感じ落ち込んでいるのとは対照的だ。
「ふん、ふふ~ん」
いつも通りというよりは機嫌がいいようにすら見える。不思議がる由香里をよそに、花凛は昨晩のことを思い出していた。
ピンポーン
夕方遅く、仕事から帰った正司はチャイムの音に気付いてドアを開ける。
「あ、花凛ちゃん!」
そこには両手鍋を持って立つ花凛の姿があった。見た瞬間に分かる美味しそうな料理。目を赤くした花凛がなぜかかすれた声で言う。
「あの……、ハヤシライスをたくさん作っちゃって。正司さん、お好きですか?」
正司が首を何度も立てに振って答える。
「好きだよ、大好き!! た、食べていいの!?」
ハヤシライスの味は知らない。好きかどうかも分からない。でも彼女が作った料理なら間違いなく美味しいはず。新たな料理に胸が躍る。花凛が顔を上げて言う。
「良かった。あの、迷惑じゃなければ一緒に食べませんか……」
いつもと違って少しだけ寂しい表情。再び花凛が来てくれたことを喜ぶ正司にそんな彼女の細かな表情の変化には気付かない。正司が答える。
「迷惑だなんて、そんな。ああ、で、どこで食べる……?」
花凛は恥ずかしそうに言う。
「正司さんのお部屋でもいいですか?」
(な、何だとおおおおお!!!!!)
31歳独身。
まさか現役女子大生が部屋に来て一緒にその手料理を食べる日が来るとは。正司は緊張のあまり声を震わせて言う。
「い、いいの? 俺の部屋で……」
「はい!」
花凛は元気に答えた。
「美味い、美味いよぉ……、こんなに美味しかったんだ、ハヤシライスって……」
正司は初めて知るハヤシライスの美味しさに感動していた。濃厚で深い味。ご飯とこんなに合う料理。カレーも美味しかったが、ハヤシライスもまた格別である。
「ん? ど、どうしたの、花凛ちゃん?」
花凛は目の前に置かれた料理を全く食べずに、テーブルについた両腕に顔を乗せじっと正司を見つめている。花凛が笑顔で答える。
「ううん、何でもないです。ご飯を食べる正司さんの顔が見たくて」
「え、そ、そうなの!? なんかちょっと照れるな……」
そう言いながらもハヤシライスの美味しさの感動には勝てず、がつがつと勢いよく食べる。
(ああ、癒されるぅ……)
花凛は正司がどんどん食べて行くその姿を見ているだけで安らかな気持ちになり、心も体も溶けてしまいそうになる。もう今日のことなどどうでもいい。ずっと彼のこの顔を見ていたい。
正司が空になった皿を手にして花凛に言う。
「おかわり、食べたいんだけど、いいかな?」
「はい、喜んで!!」
花凛は心の中で嬉し涙をたくさん流しながら、大盛りのハヤシライスを正司に手渡した。
「ええ!? 花凛の料理を食べてくれる人がいるの!!??」
講義を終え、一緒に歩きながら話を聞いた由香里が信じられない顔で花凛に言う。花凛が恥ずかしそうに答える。
「うん、何を作ってあげてもね、『美味しい、美味しい』って全部食べてくれるの。昨日のハヤシライスもたくさんあったから、夜一緒に食べたの」
(マジか……!? 一体どんな強者なんだよ??)
由香里はにわかには信じられないその話を聞いてやはり疑問を抱く。
「それって男の人?」
「うん、隣に住んでいる人」
「隣? アパートの?」
「そうだよ、ひとり暮らししていて料理とかあまりしないようなので喜んでくれるの」
嬉しそうに話す花凛を見て由香里が言う。
「ねえ、何かその人って別の目的があるんじゃないの?」
「別の目的?」
由香里には花凛に近付く男には少なからずそのような別の何かがあるものだと思っている。圧倒的に可愛い花凛。性格も良く愛嬌もあり、胸だって同性から見ても羨ましいほど大きくて立派。だから可能な限り自分の知り合いを紹介してい来た。由香里が言う。
「花凛のこと口説こうとしてるとかさ」
「私を? ど、どうだろう……、でも、尋ねていくのはいつも私の方だし……」
そう言いながら正司のことを思い出し顔を赤くする。由香里が思う。
(とは言え花凛を落とすにはあの難攻不落の料理を食べなければならない。それを普通に食べているようだけど、どうやって? うーん、例えば食前に痺れ薬を口に仕込むとか……)
由香里は色々と想像を働かせて、その怪しげな男の正体を考える。
「その男って若い人なの?」
「え? 何歳だろう……、聞いたことはないから分からないけど私よりは年上だよ。会社員って言ってた」
「年上の会社員……」
ますます怪しいと由香里が思う。花凛が言う。
「正司さんはそんな変な人じゃないよ。真面目だし、優しい」
(正司って言うだ。と言うかもう下の名前で呼んでいる!? そんなに仲がいいの??)
「ねえ、花凛。ちょっとお願いがあるんだけど」
「ん、なに?」
花凛は歩きながら由香里に答える。
「今日さあ、その男の人と三人でご飯食べない?」
「え? 正司さんと一緒に??」
「うん、三人で」
これまで何人も男を紹介してきた由香里。一番頑張った人でも最初のひと口を飲み込むだけで精一杯であった。お腹を壊して病院に行った者もいる。それを美味しそうに食べるなど考えられない。
(花凛には悪いけど、料理だけは本当に才能のない子だし……)
料理が好きだからこそ可哀そうに思える。親友だから適当な男に騙され欲しくない。花凛は嫌がるかもしれないけど、私が認めた男じゃなきゃ許さない。花凛が笑顔で答える。
「うん、いいよ。正司さんに聞いてみるね」
「ありがと!」
そう答えながら由香里が思う。
(っていうか花凛の顔、これってもう恋する乙女の顔じゃん……、一体何者なの、その『正司さん』って……?)
由香里は昨日のショックな出来事を全く気にすることなく、嬉しそうな顔をして話す花凛をじっと見つめた。
「うそ、信じられない……」
由香里は自分の目を疑った。
その日の夕方、花凛と一緒にアパートにやって来た由香里は、じっとベランダで外の道を見つめる彼女の姿を見て驚いた。花凛が言う。
「正司さんね、もうすぐあの道を歩いて帰って来るんだ」
正司の行動パターンを無意識に把握していた花凛。いつ頃帰って来るとか、歩く道とか既に彼女の頭に入っている。
(おいおい、それじゃあ、まるでストーカーだぞ……)
由香里があまりにもいつもと違う親友の姿を見て思う。
「あ、来た!! ちょっと待っててね!!」
花凛は暗くなった道にあるものに気付いてドアを開けて部屋を出て行く。
「正司さんっ!!」
アパートの階段を上っていた正司に、花凛が元気に声をかける。
「あ、花凛ちゃん!?」
驚く正司。秋も深まっているのに短いショートパンから出た太腿がまぶしい。花凛が言う。
「あの、今日夕食一緒に食べませんか?」
「え? 今日??」
「はい、友達が遊びに来ていて一緒に食べたいって言うものだから……」
花凛にとっては由香里の誘いも、正司と一緒にご飯を食べるいい理由となる。正司が答える。
「え、ああ、いいけど。邪魔じゃないのかな?」
花凛が首を振って答える。
「全然っ、邪魔じゃないです!! じゃあ、部屋で待ってますから、来て下さいね!!」
花凛はそう言って軽く手を振って部屋に戻って行く。
(か、可愛い……)
おっさんがあんな若い女子大生には決して抱いてはいけない感情。でも正司の中でもそれをいつまで抑えられるかはもう自信がなくなっていた。
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