4.甘いものは別腹

「なんていい匂い……」


 花凛かりんが持ってきてくれた手料理を前に、正司はもう我慢できなかった。



「いただきます!!!」


 ガツガツガツ!!!!



「あ、ああ……、美味い、なんて美味しんだ……」


 野菜炒めに煮物、それにご飯。

 全て山盛り。掛けてあったラップを外した瞬間に、嗅いだことのないような芳醇な香りが正司を包み込んだ。

 正司は無我夢中で手にした箸でガツガツと口に入れていく。野菜炒めの香ばしさ、噛むと口の中で出汁が広がる煮物。あれほど不味かった白米も嘘のように美味しく感じる。



「食事って、こんなに楽しいものだったんだ……」


 正司は初めての美味しい料理に思わず涙がこぼれる。

 ご飯を口に入れる動作が、食べ物を噛むことが、次は何を食べようか悩むことが、そのすべてが正司にとっては嬉しくて堪らない。少しだけレストランで楽しそうにする人たちの気持ちが理解できた。




「……ごちそうさまでした」


 全てきれいに平らげた食器の前で手を合わせて静かに言う。

 不味くて不味くて、自分が一体どんな悪いことをした罰なのかと思いながら生きて来た31年間。初めて生きていて良いと言われた気がする。



「お腹いっぱいだ……」


 一度言ってみたかったこのセリフ。これまでの食事は空腹をなくすためと、生きる為だけに口に入れていた。だから死なない程度に食べて、それ以上食べると言う苦痛を味わうことはしない。子供の頃から一度たりとも『満腹』まで食べたことはなかった。


(2~3人分はあったかも……、ほんとお腹が苦しくて動けない……)


 正司は感無量のまま後ろへ寝転がる。



(幸せだ、本当に幸せ……)


 目を閉じてもまだ口の中に残る最高の味覚。食べ過ぎて膨れたお腹すら不思議と心地良く感じる。正司は花凛のことを思い出す。



(可愛い子だったなあ……、すごく料理が上手なんだろうな……)


 こんな味覚崩壊した自分でも美味しいと感じさせる料理。それをあんな若さで作るとは相当な料理上手な子なんだろう。正司はすぐにでももっと近づきたいと思った。



(でも俺、おっさんだしな……、隣になったとは言え、気軽に話し掛けたら気持ち悪がられるよな、絶対……)


 正司は寝ころんだまま目に映るチカチカと点滅する蛍光灯をじっと見つめる。



(お礼がしたい。学生さんなのかな? 何か欲しいものでもあれば買ってあげたいけど、ああ、それじゃやっぱり変質者だよ……)


 正司は目を閉じ花凛の姿を思い浮かべる。



(あんなに可愛い子なんだ、絶対彼氏とか居るはず。居るはずだよな……)


 そう思いながら花凛の可愛らしい顔、大きな胸、そしてきめ細やかな白い肌を思い浮かべる。



「とりあえずっ!!!」


 正司はそう言うと勢いよく起き上がって、食べたままの汚れた皿をキッチンの方へ持って行き洗い始める。



(まずはこれを洗って皿を返し、しっかりとお礼を伝える! そう、そこからだ!!)


 正司は丁寧に皿を洗い終えるとタオルでしっかりと水分を拭きとる。そしてそれをプレートに乗せふうと息を吐く。



「さあ、早速返しに行こう!!」


 そう思ってプレートに手をかけた時、不意にドアのチャイムが鳴った。


 ピンポーン



「え? あ、はい!」


 プレートを持ったまま正司が玄関に走る。そして覗き穴から外の様子を見て驚いた。



(え? 渡辺さん!?)


 隣に住む花凛がドアの向こうで立っている。正司がドアを開ける。



「あ、こんばんは」


 外は既に日も落ち、薄暗くなっている。ドアを開けた瞬間少し冷たい風が正司を包んだ。花凛が手にした皿を前に出して言う。



「あ、あの、デザートにプリン作ったんです。甘いものがお好きなようで……、良かったら食べて頂けませんか……」


 真っ白な肌がピンク色に染まる。恥ずかしいと言うよりか何かに怯えている感じもする。正司は驚きと爆発しそうな喜びを抑えつつ、務めて冷静に答える。



「プリン? え、いいの? なんか貰ってばっかりで悪いような……」


 花凛が首を左右に振って言う。



「いえ、いいんです。私、お料理するのが大好きで、その……、いつも作り過ぎちゃうんです……」


 そう言って再度差し出すプリン。ピンク色の陶器の器に入った正統派プリン。



「ありがとう。じゃあ、遠慮なく貰うね」


 正司がそれを受け取ると花凛は安心したかのような笑みを浮かべる。正司が下駄箱の上にそのプリンを置き、その隣に置いたプレートを手にして言う。



「あ、あと、これさっきの料理。ありがとう。すごく美味しかったよ!!」



(え!?)


 花凛は正司が手にした自分の皿を見つめる。



(空っぽ……、まさか、まさか、全部食べたのおおぉ!?)


 まだその状況が理解できずじっと皿を見つめたまま固まる花凛。そんな花凛に正司がとどめの言葉を投げかける。



「渡辺さんって、料理がなんだね。びっくりした」



 ――料理が、上手っ!?



 これまで多くの人に料理を作ってあげて、罵倒され、罵倒されなくても友達が去っていき、作り過ぎた料理を無理してひとりで食べて来た花凛。

 『空っぽの皿』と『料理が上手』という二点セットは、そんな彼女の心を打ち抜くには十分すぎるほどの威力があった。



「ふわああぁ……」


 感激のあまり思わず体勢を崩す花凛。



「あ、大丈夫っ!?」


 それを正司がすっと腕を差し出し体を受け止める。



「ご、ごめんなさい……、私……」


 興奮と感激。混乱と動揺。

 正司の腕に抱かれた花凛は頬を赤く染め、力の入らない体をその腕に預けた。



(げ、激カワああああああ!!!!)


 正司は腕の中で頬を赤らめてこちらを見つめる花凛を見て、同じく心を鷲掴みにされた。



(デザートはが欲しい……)


 などと馬鹿なことが頭に浮かんでは消え、彼女を支える手には止まることなく汗が流れる。



「あ、やだ、私、ごめんなさい!!」


 ようやく我に返った花凛が姿勢を立て直して立ち上がる。正司は手にかいた汗をズボンの後ろで何度も拭く。花凛が空っぽの皿を見て尋ねる。



「あの……、本当に全部食べたんですか?」


「ああ、結構量があって、ほら、お腹こんなに膨れちゃったよ」


 そう言って正司がポンポンとお腹を叩いて見せる。花凛はあんなにたくさん作ったのに全部食べてくれた目の前の相手を見て思わず涙が溢れる。それに気付いた正司が慌てて言う。



「わ、わっ、え、どうしたの!? えっと、とにかくごめん!!」


 意味が分からず泣き出す花凛を見て、きっと自分の行為が彼女を泣かせたのだと思った正司がすぐに謝る。花凛が涙を拭いて言う。



「あ、あの違うんです。嬉しくて……、あ、このお皿持っていきますね。洗ってくれてありがとうございます」


「え、あ、ああ。うん……」


 今まで泣いていた彼女が急に笑顔になって言うのを見て正司が一瞬戸惑う。花凛が嬉しそうに続けて言う。



「プリンも、その、良かったら食べてください。甘いものお好きなようなので……」


「え、ああ、ありがとう! 頂くね」


 花凛はそう言いながら嬉しそうに自分の作ったプリンを持つ正司を見て、再び涙が溢れて来た。



(げっ、また泣き始めた!?)


 涙が抑えきれなくなった花凛が頭を下げて言う。



「突然、お邪魔しました!!」


「あ……」


 そう言い残すと彼女はすぐにドアを開けて自分の部屋へと戻って行った。






(プリン、プリン、プリン……)


 正司は花凛が作ってくれたプリンをテーブルの上に置いてじっと見つめる。



(子供の頃に食べた気がする。あの時は酷かったな……)


 思い出されるプリンの悪夢。

 変わった色、食感。周りの友達が嬉しそうに食べるのを見て一緒に口に入れた正司。そのあまりにも吐き気を催すような味に、幼い正司は食べながらすぐに吐いてしまった。



(でも、これは違う)


 漂う甘い香り。

 宝石のように光る黄色の表面。

 正司は何の躊躇いもなくスプーンでそれをすくって口に入れた。



(美味い……)


 この時正司は初めて『甘いものは別腹』という意味を理解した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る