3.そんなふたりが出会いました。

「美味かった……、これが美味しいという感覚。こんな幸せな気持ちがこの世にあったのか……」


 正司は未だ口の中に残るクッキーの美味しさに浸っていた。グルメ番組やグルメ本、美味しいお店の特集などこれまで全くその意味が理解できなかった正司は、今日初めてその意味を知る。

 正司は空になった袋を手に取りその中に残ったクッキーの残り香を嗅ぐ。



「うーん、いい香りだ。ああ、もっと食べたい。確か手作りって言ってたよな……」


 正司はこれを持って来てくれた隣に越して来た若い女の子を思い浮かべる。


(かなり可愛かったけど、ずいぶん若い感じの子……、お願いしてこのクッキーもうちょっと分けて貰えないかな……)


 そこまで考えてすぐに首を左右に振る。



「ダメダメだ!! こんなおっさんが気安く若い女の子を尋ねるなんて。変質者と思われる……」


 正司は冷静になって考える。



「あくまで自然に、そう自然がいい。そしてクッキーのお礼を言って、適当に世間話など……」


 そこまで考えて頭を掻きむしる。



「ああ!! ダメだ!! どうやってそこから『クッキーくれ』と繋げるんだ!? おっさんなのにクッキーが食べたいとか怪しすぎるだろ!! そ、それとも『クッキー大好きおじさん』を演じるか……?」


 正司は手にした空の袋を見てため息をつく。



「どれもダメだ。不自然過ぎる。とりあえず折を見てお礼だけはしておこう……」


 そう言って正司が立ち上がった時、玄関の向こうで女の子の小さな悲鳴が聞こえた。



「きゃあ!」



「え?」


 その声に反応してすぐに玄関を飛び出す正司。



「あっ」


 そこには畳まれた段ボールを持つ花凛かりんと、その足元に数枚の落ちた段ボールがあった。花凛が言う。



「あ、あの。引っ越しの片づけで、段ボールを運んでいて……」


 恥ずかしかったのか真っ白な肌が赤く染まる。



(か、可愛い……)


 恐らくしっかりビニールひもで縛っていなかったのだろう。運んでいてずれて落ちたに違いない。



「手伝うね」


 正司はそう言って床に落ちた段ボールを拾い上げ、花凛が持っていたもの合わせて手際よく縛り上げた。そして段ボールを持ち上げて花凛に言う。



「そこまで捨てるんでしょ? 重いし持って行くよ」


「あ、いえ、でもそんなこと……」


 正司が笑顔で答える。



「いいって、クッキー貰ったお礼だから」


 そう言って段ボールを持ちアパートの階段を下りる正司。しかし花凛はその場から動けなかった。



(え? クッキー……??)


 生まれて初めて聞いた美味しいという言葉。初めての体験に脳が混乱を起こし始める。


 アパート下のごみ置き場に段ボールを置いた正司が階段を上がると、そこに顔を赤らめた花凛が立っていた。手を前に組み下を向いている。



「あ、ありがとうございます……」


 少し小さな声。正司が答える。


「あ、いいよ。クッキーのお礼だから」



(お礼……)


 これまで何かを作ってあげにらまれはしたものも、お礼を言われたことなど一度もない。花凛が恐る恐る尋ねる。



「あ、あの、クッキー、本当に美味しかったんですか……?」


 自分の料理は美味しくない。ずっとそう自分に言い聞かせてきた花凛が初めてこのような質問をする。正司が答える。



「うん、凄く美味しかったよ! もう全部食べちゃった。あれってさあ……」



 ――もう、全部食べちゃった



 クッキーを渡したのがついさっき。この短時間のうちに食べたと知り、その後の言葉が頭に入って来ない。混乱で倒れそうになる。心臓がバクバクと鳴り階段の手すりにつかまっていないと立つことすらままならない。震える声で花凛が再度尋ねる。



「ほ、本当に美味しかったんですか? 全部食べたって……」


 正司は少し驚く顔をしてから答える。



「え? あ、ああ。食べたよ。こんなこと失礼かもしれないけど、余っているのってないかな。食べたい」



 ――もっと、食べたい



 料理好きの花凛にとって、こんな嬉しい言葉を聞けるなんて夢にも思わなかった。実家で飼っていた犬でさえ花凛の作ったエサだけは頑として食べなかった。

 目頭が熱くなるのを我慢。呼吸が荒くなるのも我慢。自分に落ち着けと何度も言い聞かす。その変化に気付いた正司が気まずそうに言う。



「あ、ご、ごめんね。失礼だったね。わ、忘れていいから。じゃあ……」


 そう言って立ち去そうとする正司の手を花凛が掴む。



「え?」


 焦る正司。柔らかく真っ白な手。なぜか冷たく汗をかいた花凛の手に力が入る。



「ちょ、ちょっと待っててください。まだ余りありますから!!」


 花凛はそう言い残すと素早く部屋へ戻って行き、机の上にあった残りのクッキーを持って戻って来た。

 正司は階段を上がり自分の部屋の前でそれを受け取る。花凛同様、正司も再び会えた最高のクッキーを前に涙が出そうになっていた。正司が尋ねる。



「ほ、本当にいいの? 食べちゃって?」


「あ、はい。冷めちゃってますけど、よろしければ……」


 花凛の大きな目が正司が持ったクッキーと、そして正司の顔を見つめる。もう我慢できなかった。正司がクッキーを手にそれを勢いよく口に入れる。



 サクッサクッ、むしゃむしゃ……


 少し目を閉じて食べる正司。

 再び舌に、そして脳に広がる『美味しい』と言う味覚。その瞬間正司を包む幸福と言う名のオーラ。食べ物にこんな凄い力があるとは本当に知らなかった。



「……美味しいい」


 小さな声だった。でもその小さな声にその思いがすべて詰まっていた。


 サクッサクッサクッ!!


 正司は花凛の目の前で一心不乱にクッキーを貪り食べた。



(うそ、うそ、こんなことって……)


 初めて見た。目の前で自分の作ったものをこんなに勢いよく食べる人を。



(なんて幸せそうな顔……)


 そしてその正司の顔に見惚れた。食べながら本当に嬉しそうな、幸せそうな顔をしている。



 ――嬉しい、嬉しい、嬉しいぃ!!!!!


 花凛の体を痺れるような快感が突き抜ける。人に認められた。料理が認められたという快感。花凛は溢れ出す涙を我慢するのに必死だった。




「……美味しかった。あ、ごめん、全部食べちゃった!!」


 正司は無我夢中で食べ続け、持って来てくれたクッキーが無くなってしまったことに気付きすぐに謝った。



 ――本当に、全部食べてくれた


 嬉しさと驚きで呆然とそれを見つめる花凛。『嬉しい』と言う言葉が心地良い電気のようになって全身を駆け抜ける。経験のない快感に脳が混乱し、この状況にどう対処すれば良いのか分からない。

 正司は固まって動かなくなる花凛に気付き、あまりの美味しさに彼女の存在すら忘れて食べていたことを反省する。



「ご、ごめんね。あまりに。あの、材料費は払うんで……」



「ふわわああぁ……」


 正司の一言一言が花凛の体の力を奪っていく。足に力が入らず立つことすらままならなくなる花凛。



「あ、あの、大丈夫ですか?」


 ぼうっとする花凛を見て正司が心配そうに言う。



「え、あ、いいんです!! いいんです、材料費なんて!!」


 花凛は少し目を赤くして正司に言う。



「でも……」


 申し訳なさそうな顔をする正司に花凛が言う。



「ありがとうございました!!!」


 花凛はそう言って大きく頭を下げ、自分の部屋へと走って戻って行く。



「あ、ちょ、ちょっと……」


 呼び止める正司だが、花凛はそのままバタンとドアを閉めて部屋へと消えて行ってしまった。



(馬鹿だよな、俺。初対面の女の子に、何やってるんだよ……)


 正司は自分がした恥ずかしい行為をすぐに反省する。それでもこの『美味しさ』には嘘はつけない。たった少しの幸福だったが、自分にこんな世界がある事を教えてくれた彼女とクッキーに心から感謝した。



「はあ、はあ、う、ううっ……」


 部屋に戻った花凛。ドアを閉めそのまましゃがみ込んで顔を押さえる。



(嬉しい、嬉しい、嬉しいよおぉ……)


 花凛は溢れ出る涙を両手で抑える。目の前で自分の作ったものを、あんなに美味しそうに食べてくれた。こんなに嬉しいことがあっていいのだろうか。



「ううっ、うえーん……」


 我慢できなかった。花凛は嬉しさのあまり声を上げて泣いた。恥ずかしくて、涙が溢れてもうあの場にいられなかったが、本当はもっと、もっともっといろんな話をして聞きたい。自分の作ったクッキーが本当に美味しかったと言う言葉を。



 ――自分の料理で相手が喜んでくれる


 料理好きな花凛が心から求めていたこと。

 その初めての経験に彼女自身、感じたことのない幸福感に包まれていた。





(美味しかったなあ、あのクッキー……)


 部屋に戻った正司はクッキーの美味しさと、そして彼女への罪悪感とが同居する複雑な気持ちになっていた。また食べたいと思うが、あまりにも初対面で無礼をはたらいたことが頭に残る。



(また謝らなきゃ……)


 そう思いながら所用のため部屋を出て買い物へと出掛ける。


 正司が戻ったのは夕方。花凛の部屋には明かりが灯っているので中に入るようだ。正司は部屋に入り夕飯に買って来たキャベツときゅうりをテーブルに置く。



(またクッキー、食べたいな……)


 目の前の不味そうな食べもの。一度あの美味しさを知ってしまった正司は、どうしてもまたクッキーが食べたくなる。



 ピンポーン


 その時、正司の部屋のチャイムが鳴った。



「あ、はい!!」


 すぐに玄関に向かいドアを開ける。そして驚いた。



「渡辺さん?」


 そこには隣の部屋の花凛が立っていた。黒色のさらさらの髪。大きな胸。真っ白な肌はなぜかピンクに染まっている。花凛が言う。



「あ、あの、これ作り過ぎちゃったんで、良かったら食べて貰えませんか……」


 そう言って彼女は持っていたプレートを正司に差し出す。そこには山盛りの野菜炒めと煮物、ご飯があった。驚く正司。花凛に尋ねる。



「え、いいの? こんなに……?」


「た、食べてください!! そしてまた、感想を教えて下さい!!」


 花凛はそう言うと大きく頭を下げて自分の部屋へと戻って行った。



 料理から漂う豊潤な香り。

 正司にはもうその嗅いだことのない香りだけで、間違いなく『美味しい料理』だと分かった。

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