傘がない

ああ、この男が和巳か。

 こんばんは。」

 和巳が曖昧に微笑みながら軽く会釈をした。

 「どうも。」

 仕方なく涼もそれに倣う。

 「観音通りに行くんですか? 光くんを迎えに。」

 「……まぁ、はい。」

 小雨の降る夜だった。光は多分傘を持ってっていない。出掛ける時に雨が降っていなかったら、どれだけ降水確率が高かろうが、傘を持って行かない男なのだ。

 だから涼は自分の傘をさし、ビニール傘を腕に引っかけて観音通りに向かっていた。

 そして和巳も同じように、青い傘を差し、右手に黒い傘をぶらさげていた。

 「僕もなんです。一緒に行きませんか?」

 「え……。傘、一本あれば十分でしょう。俺は遠慮しときます。」

 「そんなこと言わずに。」

 「いや、本当に俺は……。」

 「行きましょう。」

 見た目はなよっとしてるくせに案外強引だな、と涼は若干の苛立ちを込めて和巳を見上げた。涼より幾分背が高い和巳は、微笑でその視線を受け流した。

 例えば時が過ぎて、光に誰か恋人ができたとする。涼より光にふさわしいであろうその誰かのもとに、光が行ってしまうとしても、涼としてはそのときはきっぱり光を諦めようと思っている。

 だって、自分は光にふさわしくない。光の過去をどうしても呼び覚ましてしまう亡霊みたいなものだ。

 けれど、和巳が光にふさわしいとは、どうにも思えないのだ。

 光の苦痛を知らずに平気な顔をしているこの男が。

 ほら、行きましょう、と、和巳が涼の腕を引いた。涼は渋々その手に従った。頑なに断るのも大人げがない気がしたのだ。

 「涼くんは、」

 「……はい。」

 「光くんに売春を止めてほしいとは思わないの?」

 思う。昼間だってその話をしたばっかりだ。

 けれどそれを口にするのはなんだか負けたような気がして、涼は軽く首を横に振った。

 「あいつの自由ですよ。」

 ついた嘘の分、胸が重たくなる気がした。

 あいつの自由。

 そう言い聞かせて、売春稼業に落ち込んでいく光を見て見ぬ振りしたこの一か月。

 本当は、自分には光を止める力がないと思っていたからだ。その力を持っているのは、目の前で微笑んでいるこの男だけ。

 それが悔しくて、あいつの自由だなんて言葉で誤魔化して、本気で売春をとめようとはしなかった。

 そっか、と、ごく低い声で和巳が呟いた。



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