第参拾壱話 桃花-弐
「あいつはなぁ……。高校生のときくらいまでは、普通だったんだよ。…………多分……」
幸いにも父は事件の翌日には目を覚ました。
意識もはっきりしていて、ベッドの近くに立っていた私や母の顔を見ると「心配かけたなぁ」と、目尻や眉を下げて申し訳なさそうに微笑んでいた。
迷惑なんかじゃない。お父さんの目が覚めて良かった。私たちはベッドの柵にしがみついて、声を上げて泣いた。1人部屋だったから、周りの迷惑にはならなかったと思う。
父は「泣くな、泣くな」と苦笑しながら私たちを宥めていたが、その内自身も目をうるうると潤ませていた。
私たちがひとしきり泣いて落ち着いた後、正さんの話をしてくれたのである。
「小中学校は違ったから名前作文の授業は聞いていないけれど……。でも、自分で『俺の名前はいつでも正しい人間であるように親が願いを込めてくれたんだ』と自慢していた。名前に誇りを持っていたな、あいつは……」
その言葉に、私の頭には翔助の姿が思い浮かんだ。彼も、自分の名前に誇りを持っていた。きっと正さんに似たのだろう。
「正はクラス委員長をやっていて……。それで、校則を守らないクラスメイトとか、騒いで先生を困らせる奴らを注意したりしていた。3年生になったら生徒会にも入っていたな」
今は騒ぐ時間じゃないぞ!
授業中に漫画読んだら駄目だろう。
高校生が煙草を吸うな!
制服崩しすぎだ!
眼鏡の奥の目を吊り上げ、注意している正さんの様子が容易に想像出来た。
「まぁ一部の奴らはあいつを疎ましく思っていたようだけど……。先生とか真面目な女子たちとかからは支持されていた」
特にトラブルなどはなく、2人は高校を卒業した。大学は別のところに通うことになったが、お互いの予定が合うときに遊んだりしていたという。
その際に正さんから大学についての話は聞いたりしたが、特に変わったことはなかったと父は聞いていた。委員長だとか、そういうリーダー的役割がなかったからかもしれない。教授が面白いだとか、課題が多いだとか、大学生ならではの話を2人はしていた。
「3、4年生は就活とか色々忙しくて……。あんまり会えてなかったんだ。それで俺が就職して正は警察学校行って……。……本当、いつからあんな感じになったんだっけな」
あいつが警察官になって数年経って……。桃花が生まれる頃には少し変になっていたかもしれないな。
ぼそっと窓の外を見つめながら言った後、父は私と母の顔を交互に見て、事件の発端について語る。
「実は、前々からあいつがパワハラをしているんじゃないかっていう噂は聞いていたんだ。でも中々本人に真相を聞けなくてな……。それで、昨日帰りが一緒になったからそれとなく聞いてみたら……」
『俺は間違った奴らに指導をしているだけだ!』
そこからヒートアップし、たまたま持っていたカッターで刺すまでに至ってしまったという。
「あいつは正しさに縛られ……。そして、歪んでいってしまった。正しいとは何か、自分は正しいのか…………」
父はそれだけ言って、目を閉じた。
傷が痛むのかと慌てて母が聞いていたけれど、どうやら眠っただけのようだった。精神的にも、体力的にも疲れが来ていたのだろう。
「絶対に叶ってしまう願いの重みが込められることの意味」……。
私が「どうして“ミコト様”に名前を貰っていないのか」と聞いたときに言っていたあれは、正さんのことなのではないだろうか。
正しさに縛られ、願いを背負って生きていく。それがどれだけ重いことなのか……。
「翔助と……お母さんは、どうなるんだろうね」
私が母にそう聞くと、父を見つめていた彼女はこちらに視線を向けた。何故か、不思議そうに目を見開いている。自分と同じ形の大きな吊り目に、母の不思議そうな様子を見て不思議そうな顔をする自分が映っていた。
「しょうすけ……?」
母は初めて聞いた言葉を繰り返すかのように、辿々しくその名前を口にした。
「しょうすけって、誰……?」
え?
何の冗談……?
全く予想も出来なかった言葉に、私はしばし固まってしまい声を出せなかった。
「えっ? だ、誰って……」
やっと口から音を発することが出来たが、裏返って阿呆っぽい声になってしまった。
翔助は私の幼馴染の男の子。
家同士交流があって小さいときからずっと遊んでいた。
お父さんを、……刺した、正さんの息子で、昨日の夜も家に来たでしょう?
事件のショックから一瞬記憶が飛んだだけだと思いたかったが、数分経っても思い出す気配がない。「昨日も家来たでしょ?」と言っても「来たのは
どういうこと……?
訳がわからなかった。
自分1人だけ現実世界とよく似たパラレルワールドにでも飛ばされてきたのか、と頭が混乱した。
「正さんと礼子さんの子どものことだよ?」
「えぇ? あの2人には、子どもはいないけど……」
いない?
その言い方は、不謹慎になってしまうが翔助が……この世からいなくなってしまった、……という意味ではなさそうだった。
元々この世界には存在しない。そういう風に聞こえた。
私は気がついたら病院を飛び出して、翔助の家の方まで向かっていた。
「ああ、ほらあの子……」
「お父さんを刺された子でしょ?」
道すがら、私とすれ違うと色々な人がその話をした。何か悪口を言われたわけではないけれど、心臓の鼓動が速くなったり、耳の辺りが痺れたような感覚が起こって落ち着かない。
「桃花ちゃん!」
ひそひそ話ではなく、直接声をかけてくる人が現れた。近所に住んでいて、たまに野菜とか果物のお裾分けをしてくれていた。
「お父さん、具合はどう……?」
「あ、ええっと……」
「可哀想にねぇ……。でも、あの男は逮捕されて嫁の方も遠くへ引っ越すらしいわよ! 2人ともこの街からはいなくなるらしいし、もう顔を合わせなくて良くなるわね……」
反応に困っている間に別の女性も話しかけてきて更にあたふたしていたが、「2人」という言葉だけははっきりと聞き取れた。
2人。男、嫁。
話題には、「子ども」「息子」など翔助を表す単語は出てこなかった。
「こ、こどもは…………!?」
好き勝手に「あんなのが警察とは」「怖いわねえ」など続けられる話を遮って、大声で聞く。
すると、目の前の女性たちも母と同じような反応をした。
子ども? 誰の?
目にクエスチョンマークが浮かんでいるのがありありと見てとれた。
どうして誰も翔助のことがわからないの!?
やっと彼の家に辿り着き、チャイムを押した。
しかし、誰も出てこない。先程礼子さんが引っ越すという話を聞いたけれど、たった1日で準備は出来ないだろうし、まだ家にいると思ったのだが……。
「………………あれ、桃花。どうしたの?」
背後から声をかけられて「わっ」と悲鳴を上げてしまった。
その声は、今まさに探していた人のもの。
「翔助…………!」
そう呼んでも、彼は何も反応しなかった。
母や、今来た道で会った人たちのように首を捻り、
「しょうすけって、親戚とか?」
「へ…………?」
なんで、じぶんの、名前。
昨日までそう呼んだら、応えていたのに。
どういうこと?
私が、オカシイの……?
黙ってしまった私に不思議そうな視線を送ってくる彼。
どうしたの? 様子が変だけど……。
声に出して言われなくても、表情だけで伝わってきた。
違う、変なのは私じゃない。
君だよ。ううん、君だけじゃない。君のことをわからなくなっている人全員だよ。
そのとき、これからどこかに出かけるのかリュックを背負った田宮くんが現れた。
彼は私に「あ、佐久……!」と少し気まずそうに声をかけてくれた後、私の目の前に立つ、私が「翔助」だと思っていたその人物の名前を呼ぶ。
「——…………と、巡じゃん!」
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