第参拾話 桃花-壱

 私は、

 学校の屋上から眼下を見下ろしたときに広がる景色も。

 フェンスを越えて縁に立った途端に湧き出る手汗の感触も。

 自分では制御出来ない手足の震えも。

 そして、飛び降りて地面に叩き付けられるその瞬間も。

 全て、記憶に残っている。

 何度も、何度も何度も何度も何度も気が狂うくらい繰り返したから。



 …………。

 ……。



「なんでわたしのお名前は、“ミコト様にもらってないのー?」


 名前作文を書くために自分の名前の由来を聞いたとき、両親から私の名前は“ミコト様”に頂いていないことを知った。

 名前を考えるとき、目に入った名前も知らない桃色の花がとても綺麗だったから「桃花」と付けた。この字だと多くの人は「ももか」と読むだろうが、あえて「とうか」という読みにしたという。それだけは、知っている。

 

 当時の担任の先生から、「この地域のほとんどの人は“名賜の儀”で名前を貰う」と聞いたから、何故自分は違うのかが知りたかった。小学生の子どもに、「人と違う」ということは理解出来なかった。

 色々な人の、名前に込められた願いを聞く度に「私は愛されていないのだろうか」と悩んだこともあったものだ。

 適当に名前をつけたのではないか。私の人生がどうなろうと、2人はどうだって良いのではないだろうか、と。


「桃花がもう少し大きくなったら、教えてあげよう」


 何度も同じ質問をしても、両親はそれしか言わなかった。当時の私は「もう大きいもん!」と頬を膨らませていたっけ。遊園地のジェットコースターの身長制限に引っかかっていた癖に。

 そして2人はこうも言っていた。


 

「名前に『絶対に叶ってしまう願いの重みが込められることの意味』がわかるようになったら、教えてあげる」



 それがなんとなくだけどわかるようになったのは、中学校に入ってからだっただろうか。

 

 私には翔助という幼馴染の男の子がいた。

 彼とは保育園からずっと一緒で、家同士も付き合いがあったからよく遊んでいた。


「ぼくの名前には、『人のことをむじょうけんにたすけられる人間になってほしい』というねがいがこめられています!」


 困っている人がいたら、どこへでも飛んでいって助けられるような。そういう人間になるように。


 名前作文の授業でそう聞いたときは、その願いをとても格好良いと思っていた。翔助のお父さんは警察官だからこんなすごいことが考えられるんだ、なんて考えていた。

 しかし、成長して色々なことが前よりわかるようになったとき、ほんの少しの闇が見えるようになってしまう。


 彼は、自分のことより他人を優先していた。

 自分が傷つくことすら厭わず、人を助けるという使命に燃えていた。


 小学生のときのある日、私は友だちと校庭の隅でお喋りをしていた。近くにはジャングルジムがあって、友だちの好きな人がいるかどうかを探したりしていた。

 遊具で遊んでいる人の中には、翔助の姿もあった。

 彼が遊具から降りて地面に立った丁度そのとき、


「あっ!!」


 という叫び声がした。

 少し離れていた場所にいた私たち、ジャングルジムにしがみついていた生徒たち、そして翔助が声の主に注目する。

 翔助が走り、転んだかのように地面にうつ伏せで横たわった後。


「うぐっ!」


 ドシン、と鈍い音を立ててその上に男の子が落ちてきた。その子は叫び声を上げた子で、ジャングルジムから手を滑らせて落ちたのだ。

 幸い2人とも大きな怪我はなく、痣だけで済んだようだった。


 他にも、2つのグループが校庭で遊ぶ際に場所を取り合って喧嘩していたとき。

 両グループのリーダーらしき2人が取っ組み合いを始めてしまった。周りにいた子たちは怖がって近づかず、離れて先生を呼びに行ったりしていた。

 しかし、翔助は違った。

 彼は間に入って喧嘩を止めようとしたのだ。それで顔を殴られてしまったが、喧嘩していた2人はそれを見て我に帰ったようで、落ち着いたみたいだった。


 翔助に助けて貰った誰かがお礼を言うと。

 困らせてしまい申し訳ないと謝罪しても。

 怪我はないかと心配しても。


「大丈夫!」


 と明るく笑って言うのだ。


 人を助けられることは素敵なことだと思う。

 でも……、自分自身のことを蔑ろにしても良いのだろうか。

 自分のことより他人を優先しなさい、と縛られているようで私は怖かった。


 あとは、田宮くんも名前にがんじがらめにされているように見えた。

 良い成績を取ることに執着している彼。名前作文のときには「『学び続けることをやめないように』という願いが込められている」と聞いた。でも彼の様子は、「頭が良い人間になるように」という意味を持っているようにしか見えなかった。


 明華や心春は……、2人は、特に名前に呪われているようには見えなかった。でも時々顔に暗い陰を落とすことがあるから、もしかしたら私が知らないだけで何か抱えているのかもしれない。


 

 翔助の父親——正さんも名前に縛られていたと、今ならわかる。



 警察官である彼と、私の父は高校時代からの友人だった。進む道は違ったが、大学生になっても、社会人になっても親交は続いた。やがてお互い家庭を持ち、ほとんど同じ時期に私と翔助が生まれたのだ。家も近いことから、家同士で交流するようになった。


 正さんが父を刺すまでは。


 あの日事件が起こった現場は、私の家の前だった。

 正さんと父はたまたま帰りが一緒になったのか、家の前で立ち話をしていた。丁度反対側の道から歩いてきていた私は2人のその姿を見つけると手を振ったのだが。


「うるさい! お前に何がわかるって言うんだ!」

「落ち着け……! 何をそんなに興奮しているんだよ!」


 只事ではないその様子に私は手を下ろし、その場から動けなくなってしまった。

 父は私に気がつくと、家の中に入っているように言った。

 私はそれに従い家に入りはしたものの、外の様子が気になり少しだけ扉を開けてこっそりと2人の会話を聞いていた。


「だから、俺は『正しい人間になるように』と……」

「お前の正しさを人に押しつけちゃいけない。とにかく落ち着いて……」


 父が宥めても、正さんは興奮して早口のままだ。

 他に通行人はいないのか、父と正さん以外の声はしない。止めたいが、自分の体は動かない。誰か間に入ってはくれないか……。

 そう思った、そのとき。


「ぐぅっ…………!」


 聞いたことのない、父の呻き声。

 ドッ、と硬いものが地面に落ちる音。

 ぜえ、ぜえという荒い呼吸。


 隣で外の様子を気にしていた母が扉を開けて飛び出していく。

 私も続こうとしたが、


「桃花は来ないで!!」


 鋭い声に制された。

 しかし、混乱していた私は逆にその声に呼ばれるかのように、外に出てしまった。


 そこにいたのは、血が溢れるお腹を抑えて倒れている父。

 血塗れのカッターを持って立ち尽くしている正さん。

 父の体を揺すりながら、スマートフォンで救急車を呼ぶ母。


「……優生ゆうせい…………」


 正さんが呆然と父の名前を呟いた。

 私はこれ以上父に何かされないようにと、庇うように前に立った。しかし彼は救急車とパトカーが来るまで、その場から動くことはなかった。


 父は救急車に、正さんはパトカーに乗せられてそれぞれ連れていかれた。

 

 父の呻き声が聞こえる前……刺されて倒れる前の、この台詞。


「俺は正しくいなければいけないんだ!!!」


 喉から血が出そうなくらいの勢いがあったその叫び声が耳の中でこだまして、しばらくの間離れなかった。

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