第弐拾捌話 翔助
ある年の7月30日。蝉たちが8月へ向けて鳴き声の盛り上がりを見せる頃。
少年は、警察官の父親と看護師の母親の元に生まれた。
名前に込められた願いは、「困っている人がいたらどこへでも飛んでいって、無条件に人を助けられるような子になってほしい」というもの。
彼には、「
その願い通り、少年は困っている人を見つけたらすぐに助けに行くような子に育った。
「おばーちゃん、あぶないよ! ぼくがにもつはこんであげる!」
もうすぐで赤に変わりそうな信号を、重そうな荷物を持ちながら渡っている老人を見たら、翔助がその荷物を持って老人の手を引いたり。
「どこがわからないの? ぼくがおしえてあげる!」
問題を解く時間に行き詰まっているクラスメイトがいたら、勉強を教えたり。
「センセーにもつはこぶの? ぼくもてつだう!」
誰かの手伝いをしたり。優しさや正義感に溢れる人間だった。
「お父さん。お母さん。僕にこの名前をくれて、ありがとう」
実際名前を考えて与えたのは“ミコト様”だが、それに込める意味を考えてくれたのは両親だ。
そう両親に感謝するほど、彼は自分の名前に誇りを持っていた。
いた、の、だが。
それはある日、父親が人を傷つけてしまったことで一変する。
被害者は桃花の父親。
親が人を傷つけたというだけでも衝撃的だったのに、その相手が親交のある人物だったことにより、頭をひどく重い何かで殴られたかのような衝撃が走った。頭から指先へ、その痺れは伝わっていく。体が動かない。自分が呼吸出来ているのかどうかもわからなかった。
お父さん、どうして人を刺したの?
お父さんは、警察官でしょう?
人を守るのが……、助けるのが仕事じゃないの?
自分の中にある父親の顔が、ぐにゃりと歪んでいく。
あなたはどんな顔をしていたっけ。
いつもキリッとした眉と、鋭いけれど優しい目が印象的だった。
それなのに、今はぼやけて……。ただの怖い顔の知らない人にしか見えない。
「翔助、佐久さんの家行こう」
母親が翔助の手を引いて、何回も行き来したことのある幼馴染の家まで向かった。
被害者である桃花の父親は入院していていないので、そこには桃花の母親と桃花がいた。
「上がって下さい。お茶でも淹れますから……」
夫を傷つけられ意気消沈している中でも、桃花の母親は翔助たちを気遣う素振りをした。
しかしその頬には涙の跡が残っており、声も掠れていて、つい先程まで泣いていたことがわかる。
横にいる桃花は翔助たちが来てから一度も顔を上げておらず、前髪によって吊り目や困り眉が隠れていた。
母親は靴を脱ぐ気配もなく、上り框に突っ立ったまま。まだ母親に腕を掴まれている翔助も同じだ。
直後、ゴツッという岩と岩がぶつかったような音がした。ずっとぼーっとしていた翔助も、このときばかりはびくりと反応し、音のした方を見る。
母親が翔助から手を離し、土下座をしていた。鈍い音は勢い良く床に膝をついたことにより出たのだ。
「本当に……申し訳ございません!」
額を擦り付けたまま、母親が叫ぶように謝罪した。床に声が当たってくぐもったように聞こえる。
「…………顔を上げて下さい」
何度そう言われても、母親はその姿勢をやめなかった。
その内こちら側に合わせてか、桃花の母親が床に正座をし始めた。娘もそれに倣い同じように座る。
翔助だけが立って、皆のつむじをぼんやりと眺めていた。意識が抜けて自分の頭1つ分くらい上に漂って、ことを見ているような。ドラマの中の修羅場のシーンを観ているかのような。それくらい、目の前のことは非日常だった。
「…………翔助」
はっと意識が体に戻り、声の主の方を見た。ギチギチと音が鳴りそうなくらいぎこちなく首が動く。
床に座った後もずっと俯いていた桃花が顔を上げ、その吊り目で真っ直ぐ翔助を見つめていた。
鼻が詰まったような、湿度のある声。
赤く染まった耳と頬、鼻先。
細く赤い糸が走っている白目。
目の下から顔の輪郭にかけて垂れた涙の跡。
「——…………君は、……大人にならないでね」
父親が人を刺した。そのことを聞いてからずっと周りの音が遠かった。人の話し声も、何を言っているのかはわかるけれどクリアには聞こえない。
だけど、その声は……、桃花の声ははっきり聞くことが出来た。
大人にならないで。桃花がそう言うのであれば、僕は大人になっちゃいけない。
大人になっちゃいけない。
大人になりたくない……。
その後は気がついたら家に帰ってきていて、布団に潜り込んでいた。
そして次に目を覚ましたとき、母親には何も告げず部屋着のジャージ姿で外へ出た。
人を刺した警察官の息子、と周囲の人からこそこそと陰口を叩かれるかもしれないと思ったが、人は全く歩いていなかった。辺りは霧がかかって薄暗く、朝の5時とか6時くらいであると推測出来た。時計を確認していなかったからわからなかったのである。
あてもなくふらふらと彷徨っていると、歩いたことのない道に来た。帰り道がわからなくなるかもしれない、と翔助は頭の片隅で思ったが、どうでも良いとそれを消してまた歩き続ける。
やがて辿り着いたのは、古びた大きな神社だった。近くには他の建物が一切なく、そこだけが昔の時代から置き忘れられているような寂しさがあった。のぼりなども立っていないし、訪れる人がいないのだろうか。
「どうしたの、少年」
先程まではいなかったはずなのに、鳥居に続く小さな階段に腰掛けている女性がいた。
長い銀髪。左右で色の違う切長の瞳。血の通っていなさそうな肌。抑揚がない声。人形に話しかけられたかのような感覚になった。
「だれ…………?」
翔助がそう尋ねると、何が可笑しいのかはわからないが、その女性がカッカッカッと独特な笑い声を上げた。
開いた口から鋭い犬歯がのぞく。桃花の八重歯よりもずっと鋭く、その顔色からも「人形というよりかは吸血鬼みたいだ」と思わせた。
「誰、か。本当の名前はもう忘れたけれど、この辺りの人間からは“ミコト様”と呼ばれている」
「“名賜の儀”の神様……?」
そう呆けたように呟くと、女性……“ミコト様”はフッと吐息で笑った。どこか自嘲気味な笑顔。
「ええ、そうなるわね……。で? 君はどうしてこんなところにいるの?」
どうして?
気がついたらここにいた。そう言うと、“ミコト様”は翔助の目をじっと見た。透き通った青と緑が翔助を射抜く。
「…………何かに絶望した、とか?」
“ミコト様”の喋り方は、まるで複数の人格が入れ替わりながら話しているようにころころと変わっていた。高貴な身分を思わせる男性、艶のある女性、無邪気な少女。どれが本当の“ミコト様”なのだろう。
問いかけには答えず、何かを考え込む翔助。
正しくない人間に付けられた名前など、馬鹿馬鹿しい。
——こんな名前など、いらない。
「……名前を変えることって、出来ませんか」
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