第拾捌話 ×××
20××年、×月×日。
ある家に子どもが生まれた。
父親は警察官。
母親は看護師。
2人ともやり方は違えど、それぞれ人を助ける職業に就いていた。
どのような子になってほしい?
生まれたての我が子の顔を覗き込み、両親はその子の未来に思いを馳せる。
まだふにゃふにゃで柔らかくて、守らなくてはすぐに消えてしまいそうな命。
その儚い命の輪郭がはっきりとして、自分の足で立てる大人になったとき、あなたはどんな人間になっている?
「「人のことを、無条件に助けられる人間になってほしい」」
2人の思いは同じだった。
彼らは自分たちの職業に誇りを持っていた。人を助けるというのは素晴らしいことだ、と。
だから、自分たちの子どもも、人を助けられるような人間になってほしい。
——困っている人がいたらどこへでも飛んでいって、無条件に人を助けられるような子になってほしい。
退院した後、“ミコト様”の元に名前を貰いに神社へ行った2人はそう願った。
両親は、“ミコト様”の美しさ、神々しさに息を呑んだ。彼らが赤ん坊だった頃も名前を貰うために会ったとは言えど、記憶はないからほぼ初めて見たようなものだ。
腰くらいまであるほど長く、癖1つない真っ直ぐな銀髪。
血が通っていないのか真っ白な肌、唇。
長い睫毛の切れ長の瞳は左右で色が異なっている。右目が青で、左目が緑。夏空に映える草木を連想させた。
重たそうな黒い着物を引き摺る細い体。
「…………」
“ミコト様”は赤ん坊を見つめた後、目を閉じた。
眉も、まつ毛も、唇も、呼吸しているはずの鼻も、体も、一切動かない。呼吸の音も聞こえず、まるで命のない人形のようだ。彼女の整った容姿も相まって余計にそれを想起させた。
彼女から何か言葉が発せられるのを両親が固唾を飲んで見守っている中、赤ん坊は何も意に介さず、曇りのない透き通った瞳で神様をじっと見つめている。口角が上がり口を開けて笑うその表情は、ねえねえ、いったいどんな名前をくれるのかな? とワクワクしているかのようにも見えた。
「——…………×××」
どのくらいの時間が流れただろう。外の様子が全くわからないため太陽がどのくらい動いたのかもわからない。
“ミコト様”は目を開け、赤ん坊の額に手を置いて、そう告げた。
その声は小さいけれどよく響いて、厳かで、周りを一瞬で凍らせられるくらい冷たかった。
この瞬間、赤ん坊は「×××」というひとりの人間になった。
名前の通り、×××は困っている人がいたらすぐに駆けつける子になった。
保育園では、泣いている子がいたら先生よりも先に飛んでいき、一緒に遊んだりお菓子をあげたり、絵本を読んであげたりして泣き止ませていた。
お迎えの際、先生から「今日も助けてあげてて……本当に優しいですね〜」とよく言われた。
小学校では、同級生だけではなく違う学年の生徒、先生を助けるようになった。
誰かが喧嘩していたら仲裁に入る。
委員会や係り決めが難航していたら、率先して誰もやりたがらない役割を引き受ける。
授業前や後の、先生の教材運びを手伝う。
勉強や、体育の授業でやり方がわからないクラスメイトにわかりやすく説明してあげる。
等々。
1年生から6年生まで、通信簿を貰った際には必ず「正義感が強く優しい子」といった評価が書かれていた。
中学校でも、×××は人を助け続けた。
所属していた部活では、2年生では副部長、3年生になったら部長を務めた。先輩からも後輩からも慕われていた。
委員会にも所属し、学校のためになる活動を心がけていた。
学校外でも、通っていた塾で問題がわからない人に対し丁寧に教えたり、体調が悪そうに道端で蹲っている人がいたら声をかけて寄り添い、何をすれば良いのかを考え実行したり。電車やバスで席を譲るなどは日常茶飯事だ。
×××は何事にも常に全力で取り組んでいた。
×××は自分の名前、行い、そして自分の名前に意味を与えてくれた両親を誇りに思っていた。
警察官か。看護師か。それともまた違った職業か。
自分はどんな道を歩もう。
何になっても、人のためになるようなことをしよう。自分ならば、きっと出来るはずだから。
まだ見ぬ自分の未来に希望を抱き、×××は日々を過ごしていた。
しかし、×××の生活はある日を境にして一変してしまう。
「………………え?」
母親からそれが告げられたとき、訳がわからなくて聞き返した。
「だから、お父さんが…………」
何度も聞き返しても、重要な部分がぼやけてうまく聞き取れなかった。急に頭まで水中まで沈められたかのように、説明する母親の声は遠かった。
もしかして、自らの意思で情報をシャットアウトしたのか。衝撃に頭をぶん殴られて沈められたのではなく、知りたくないものから目を背けるために、自分で潜ったのか。
聞きたくなかったから。
信じたくなかったから。
父親が人を刺しただなんて。
警察官が人を傷付けた?
人を守らなくてはならない立場の人間が?
父親の名前は、「正しい」という言葉を意味に持つものだった。
正しい人間に育つように名付けられた人間が、人を?
自分には、×××には、人を助けることが出来る人間になるようにと名前を付けたくせに?
正しくない人間が、子どもに「人を助けるように」と願うなんて、なんて馬鹿馬鹿しい。矛盾している。
こんな人間になりたくない。
汚い大人になりたくない。
こんな、父親のような、
「——…………なりたくない」
母から、父親が人を傷つけたという事実を聞いた後、その相手の家族と会うことになった。
被害者本人は入院しているため、その妻と子どもと。こちら側も、母親と×××の2人ずつで。
ひたすら頭を床に擦りつける母親。それを、×××は画面の奥のドラマでも見るかのように、ぼーっと眺めていた。
「…………」
だから、相手側の子どもが自分のことを見つめているのに、全く気がつかなかった。
「…………×××」
急にその子から名前を呼ばれ、びくりと反射で体が震えた。
その子が口を開き、こう、告げる。
「——…………君は、……大人にならないでね」
その後、気がついたら×××は布団の中にいた。
「なりたくない……」
ああいう人間になりたくない。なりたくない。なりたくない。なりたくない…………。
大人になりたくない。
ひたすら同じ言葉を繰り返していた。
瞬きもせずに布団の一点、少しだけほつれて糸が1本飛び出しているところを見つめながら。
ああ、自分は気が狂ってしまったのだろうか。
いやでも狂っている人は自分のことを「狂っている」だなんて思わないな。だからきっと、自分は狂っているふりをしているだけなんだ、きっと。
そんなことを考えながら呟きを繰り返していたが、いつの間にか眠気が腕を引っ張って夢の中へ連れて行こうとする。
足を踏み入れる。
深い、夢の中へ。
長い、長い長い長い夢の中へ。
それから少し経って、×××とその家族は住んでいた街からいなくなった。
父親が事件を起こしたから一家で夜逃げでもしたのだろう、と、「いなくなった」と聞いたら誰でもそう考えるだろう。
もちろん、そういった噂は立った。
「ねえ、あそこの旦那さん……」
「元警察官のでしょ? あんな人が警察官だなんてね……」
「しかもその人、今回の事件をきっかけに色々発覚したらしいんだけど同僚に暴力を振るったりもしていたらしいよ……」
「え、パワハラってこと?」
「奥さんも可哀想にね、あんなのと結婚して……知らなかったのかしら?」
「ああ、本性を? もしかしてDVとかされてて怖くて別れられなかったとか…………?」
話の中に登場するのは父親と母親だけ。
彼らに子どもがいたという事実は、その街の中では抹消され、誰の記憶にも残っていなかった。
たった1人を除いて。
一体、子どもは…………×××は、どこに行ってしまったのだろうか?
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